あかいろ ポーン と、適当に触った鍵盤が適当な音を響かせた。長らく触られていないだろうと思っていたけど、きちんと調律はされていたようで、淀みのない透明な音が響いた。指の動くまま意味の無い音を羅列させて、それらしい旋律を奏でる。もう二度と弾けない今夜だけの曲。
「それ、なんて曲」
「知らない」
久々に発せられた少し掠れた声に返事をした俺の声は、まるで突き放すように冷ややかだった。ちらりと横目で見た彼はほんの少し眉をひそめて、またぼんやりと窓の外を眺めた。あーあ、俺の馬鹿。違うのに。優しく、したいのに。
誰もが眠りにつくような時間。使われていない旧校舎の音楽室。とうの昔に学生の称号を剥奪された華やかなスーツを着た男が2人。その中で音を鳴らすピアノだけが正確で、むしろ異質だった。
「……ねぇ、セッちゃん」
返事はない。こちらを向こうともしない。スポットライトに照らされるべき形の良い銀色も、シャンと真っ直ぐに伸びて人々の目を集める姿も、誰もが吸い込まれそうになる青の瞳も、この空間じゃなんの意味もなさない。
弱々しい月明かりに銀色は浮いているし、背は丸まって小さくなっている。青の瞳も虚ろで俺のことすら映さない。
「セッちゃん」
そっと、彼の横に座って手を握りしめた。そうしないと彼を構成する全ての輪郭がぼやけて、泡沫のように消えてしまう気がした。
「……くまくん、キスして」
虚ろな青のなかで、俺の赤が光っていた。
「なんで」
「……なんでも」
ほんの少しだけ唇を触れ合わせる子どものようなキスをした。彼が消えないようにするにはそうするしか無かった。不満そうな彼の顔を見ないようにして、小さくなった身体をそっと抱きしめる。サラサラこぼれる大切な何かを、かき集めるような気持ちだった。
「ねぇ、くまくん」
もう何も言わないで欲しくて、赤ちゃんを寝かしつけるように背中を優しく叩く。ほんとうに寝てくれたらいいのに。そんな俺の願いも虚しく彼はポロポロと言葉を零す。
「れおくん、綺麗だったねぇ。ほんと、幸せそうに笑ってさ」
彼の唇を塞いでしまいたかった。俺の耳も塞いで、2人して深く深く眠り込んで、今日のあの晴れの日のことなんて、まるでなんにもなかったようにできたらどんなに良かっただろうか。俺は何も出来ないまま、ただ彼を抱きしめていた。
「橙色も、赤色も、白に映えてよかったよねぇ。2人の服さ、俺が選んだんだよ。さすが俺だよねぇ。まぁなるくんもちょっと口出してたけど」
「……うん」
お願い、もう何も言わないで。セッちゃんが消えちゃう。心の奥はそう言っているのに、俺は何も言わなかった。彼の本当の声はきっと今夜しか聴けない。吐き出させてあげないといけないんだ。
そう出来るのはきっともう俺しかいないから。
「俺、バウムクーヘンなんて嫌い。甘いし、重いし、カロリー高いし、一人で食べきれないし。れおくん達ならわかるだろうに、きっちり渡してくれちゃってさぁ」
「……そうだねぇ」
ぎゅっと、彼の手が俺のシャツを掴んだ。あぁ、皺になっただろうな。どうせクリーニングに出すし、いいんだけど。
「くまくんの作るお菓子の方がよっぽど美味しい」
その言葉に噛み付くように彼にキスをした。無理やり割り開いた唇に舌をねじ込ませると、たどたどしくも応えてくれるのが健気で、痛々しかった。せめて泣いてくれたら、嫌がってくれたら、俺だって、俺の気持ちだって、どうにかできたかもしれないのに。
もう満たされることのない彼の心のコップに必死になって水を注ぐ俺の姿は、きっと滑稽だ。
「くまくん。くまくん、ねぇ、もっと」
ふいに頭の中でさっき弾いた無意味な曲が浮かんで、そして消えていった。なんて曲だろう。俺にも教えて欲しい。きっと彼なら、知っているんだろうな。
「馬鹿だよ。俺も、セッちゃんも」
「うん」
「でも、王さま達の方が、もっとずっと大馬鹿者だよ」
「……うん」
音楽室の床はやっぱりほこりっぽくて、鼻にツンとくるような変な匂いがした。昔の俺たちの姿がぼんやりと浮かんで、そしてそれもやがて消えた。
最後に残ったのは、橙色のしっぽとそれに寄り添う赤色。それから、泣けなかった青色の瞳と、青色の隣に居たかった、赤色。