今はまだ、このままで『そういえば、もうすぐ兄上のお誕生日ですね』
毎日の習慣となった夜の電話で、千寿郎がふと思い出したように呟いた。そうか、もうそんな時期か。ベッドの上に胡坐をかき、壁に凭れながら弟の声に耳を傾ける。元々俺は行事に弱く、当日人に言われて初めて気付くことも多い。やけに生徒達から菓子を貰う日だと思っていたら、実はバレンタインデーだった…なんてこともあった。誕生日はそれが顕著で、自分では中々気付けない。興味がない、とは少し違う。誕生日は弟が教えてくれる、そんな自惚れがあった。
…かつての誕生日は、決まって弟が豪勢な飯を作ってくれた。何も言わずとも朝餉には俺の好物が並び、膳を並び終えた千寿郎が『お誕生日おめでとうございます』とはにかんで笑う。そこでやっと、俺は今日が誕生日だと気付くのだ。そんな日常を過ごしてきたせいか、弟がいなくなってからは、誕生日を意識することも無くなった。ただ年を重ね、弟のいない日常を生きていく。かつての同僚や昔馴染みたちが祝ってくれることも勿論嬉しいが、俺の誕生日は弟の声と料理で出来ている。少年を脱しつつあるあの声で、優しく名を呼んでほしい。歳を重ねる喜びを、俺に思い出させてほしい。そればかりを願っていた、昨年までの淡々とした誕生日はもう来ない。二十数年ぶりに、俺のよく知る誕生日が戻ってくる。そんな確信めいた予感を胸に、俺は弟の言葉に頷いた。
「そうだな、すっかり忘れていた」
『ふふ…兄上、毎年そう仰っていましたね。僕の誕生日は覚えているのに』
「それは忘れたことがないな!」
何ですかそれ、という弟の笑い声が電話越しに聞こえる。忘れる筈もない、一年で最も大事な日だ。この日だけは、暦を見なくても思い出せた。自分の誕生日を忘れがちな弟の代わりに、俺が祝ってやらなければ…なんて、謎の使命感に駆られていたのだと思う。今思えばおかしな話だ。互いに自分の誕生日を忘れ、相手に教えられて気付くなど。だがかつては、それが互いの習慣だった。
弟の誕生日が近付くと、俺は決まって弟が好みそうな菓子や本を買い込んだ。そして当日、『誕生日おめでとう』の言葉と共に差し出せば、きょとんと俺を見つめた弟が、一転してぱぁっと顔を輝かせるのだ。ありがとうございます、嬉しい。抱えきれない程の贈り物をぎゅっと抱きしめ、弟は心底嬉しそうに笑う。こんなに沢山…と感嘆する弟に、これでも厳選した方だ、なんて告げたら笑うだろうか。そんなことを考えて、両手の塞がった弟の代わりに抱き寄せたあの頃。素直で優しい弟が生まれた日。そんな大事な日を、誰が忘れるものか。胸の内を素直に打ち明ければ、『それは兄上の誕生日も同じです』と千寿郎が電話越しに笑う。僕にとっても大事な日ですから。そう優しく告げた弟は、本題を切り出した。
『それでその、兄上にお願いがありまして』
「お願い?」
『はい、もしよければ…兄上の家にお邪魔したいのです』
「……それは構わないが、突然どうした」
少し緊張した声色で告げられた千寿郎の”お願い”は、俺にとって予想外の言葉だった。話の流れから、誕生日を祝ってくれるのだろうとは思ったが、まさか俺の家に来たがっていたとは。つい問いただすような口調になってしまい、それとなく発言を修正した。お前が家に来たがるなんて、初めてだな。幾分か柔らかく言い直せば、千寿郎はほっと息をついた。それはその…と言い淀む弟の声に耳を傾けながら、俺は今までの逢瀬を思い出していた。
再会を果たしてからの俺たちは、平日だろうが休日だろうが、時間が許す限りは会うようにしていた。千寿郎からすれば十数年。俺からすれば二十数年も空いてしまった年月を、俺たちはたった数ヶ月で埋めようとしている。傍から見ればおかしな話だが、当事者たちは真剣だった。それは学園から少し離れた商業施設であったり、人目の付かない公園だったりと様々だ。かつて兄弟だったとはいえ、今の俺たちは兄弟ではない。千寿郎の髪が黒く染まろうが、俺たちの容姿はひどく似通っているのだ。学園内の者が見れば、俺たちが血縁者なのではと疑うのは必然だ。
現に学外で女生徒たちに見られてから、高等部では一気に千寿郎の噂が広まり、少し騒ぎになった。生徒たちに取り囲まれ、あの子って先生の兄弟?遠い親戚?何で髪が黒いの?と質問攻めにあったが、その全てを笑っていなした。よく似ていると言われるが、兄弟ではないし親戚でもない。黒い髪も可愛いだろう?俺としては真摯に対応したつもりだったが、最後の言葉を聞いた生徒たちは、一様に「先生、惚気ないでよ~!」なんて笑っていた。惚気でも何でもなく、どんな髪色でも愛らしいのは事実だ。冗談だと思い込んでいる生徒にそう言ってやりたい気もしたが、敢えて千寿郎に興味を持たせることもない。しばらく俺の目を掻い潜って来た千寿郎が、これを機に何かと目立つ存在になるのも面白くない。俺ですら、一目見るのに何年もかかったのに。そんな子どもの我儘のような言葉を抑え込み、興奮気味の生徒達を見渡してゆっくりと言い含める。聞きたいことがあるなら、俺に直接聞くこと。中等部まで押し掛けないこと。いいな、と念を押すと威勢のいい声が返ってきたが、どこまで効果があるのやら。生徒たちを見送り、さて自分も次の授業へ…と踵を返した時、ふと気付いた。外で会うから人目に付くのであって、いっそ俺の家に呼べばいいのでは、と。だがその考えは、一瞬にして消え去った。かつて兄弟だったと言えど、今の俺たちは対外的には教師と生徒に過ぎない。家に連れ込んでいると知られた日には、今のような追及では済まないだろう。今の千寿郎の親御さんに申し訳が立たない…というのもあるが、一番の問題点は『自分が課した決め事を破らないか』、その一点だった。
外の逢瀬でもたまに手が出そうになるのに、ふたりだけの空間で自分を律する自信がない。せめて数年後、千寿郎が高等部に進学する日まで。高等部で見かけるようになれば、少しでも衝動が抑えられるだろう。それまでは家に呼ぶのは避けよう。中等部に繋がる廊下を見つめ、新たな決め事を作ったのは二ヶ月前のこと。それからは、俺も意識して家の話題は出さなかった。千寿郎も俺の壊滅的な家事を心配することはあれど、家に来るとは言わなかった。家に連れ込まなければ、手を出さずに済む。もう十分手を出している気がしたが、その決め事だけが俺のよすがだった。そんな俺の決め事は、今まさに破られようとしている。
『実は…誕生日に料理を作りたいのです』
「なるほど、料理か!」
『はい!外で食べに行ったり、予め作ったものをお渡ししようかとも思ったのですが…自分が作ったものを、温かいうちに食べていただきたくて』
デザートもお付けしますよ。
電話越しだというのに、弟が穏やかに笑っているのが分かる。…昨日までの俺は、電話とは何と便利なものだと思っていた。遠く離れた声も明瞭に聞こえ、すぐ傍にいるような錯覚をしてしまう。かつて鎹鴉に文を託していた頃が懐かしく思える程、文明は進化し、連絡手段は増えた。しかし、今はどうだろう。こんなに近くで声が聞こえるのに、手を伸ばせど弟には届かない。誕生日は数日後で、そもそも明日の夜は飯を食いに行く約束をしている。急がなくても、会えるだろう。頭では分かっている。分かっている、が。今すぐ会いに行こうか、なんて考えている自分がいる。
(…要から届く文は、待てたくせに)
あの頃よりせっかちになったな、いや元からか。要の戻りが待ち遠しかったあの頃を思い出し、壁に凭れ掛かりながら目を閉じた。あぁ、幸せだ。返事を待っているだろう弟に、電話越しに笑い掛けた。
「俺の誕生日は、お前の料理がなければ始まらないからな!是非頼む!」
『よかった!実は先に食材も買っていまして…断られたらどうしようかと思っていました』
「よもや、食材まで買ってくれたのか?後で金額を教えてくれ」
断られるかもと思っていたのか、俺の返事に弟の声が明るくなる。お前の頼みを、断る筈がないだろう。そう言いたかったが、食材の話が出たことで言いそびれてしまった。食材は当日一緒に買いに行けばよいかと軽く考えていたのに、まさか既に用意していたとは。用意周到な弟に舌を巻き、ならば金だけでもと願い出たが、それも笑って断られてしまった。兄上のお誕生日なのですから、という弟の言葉が擽ったい。まるで本当にあの頃に戻ったようだ。続けて『買い過ぎてしまったので、たくさん食べて下さいね』と嬉しそうな声が聞こえ、それに返事をしようと口を開い…たのより先に、気の早い俺の腹が代わりに返事をしたものだから、電話を挟んでふたりで笑ってしまった。
(誕生日が待ち遠しいなんて、まるで子どもだ)
声変わり間近の少し低めの声を聞きながら、壁に凭れかかっていた体勢を変える。行儀が悪いと分かりつつベッドに寝転べば、換えたばかりの蛍光灯が眩しくて、つい目を閉じてしまった。瞼の裏には台所で料理を作る弟がいて、俺に気付くと包丁の手を止めて笑い掛けてくれる。…その笑顔が既に、誕生日祝いのようなものだ。閉じていた瞼を開いては、そんなことを思う。自分でも忘れていた誕生日が、酷く待ち遠しく感じるから不思議だ。結局あと数日が待ちきれなくて、「やはり明日作りに来てくれないか」などと口走ってしまった。明日は一緒に外食する約束では?そう言いたげな声で弟が俺の名を呼んだが、もう止まらない。ずっと抑え込んできたものが、堰を切ったように溢れ出す。
「明日は金曜だから、夜は泊っていくといい」
「千寿郎さえよければ、土日もどうだ」
今まで家に招くのを避けていたのが嘘のように、尤もらしい言葉がすらすらと出てくる。提案の形を取りながら、それは俺の中での決定事項だった。近くにスーパーがあるとか、土曜はどこか遠くに出掛けるのもいいなとか。一人で盛り上がって話を続けていたが、相槌がない事に気付き、性急過ぎたかと少し反省した。…高校卒業まで、待つのではなかったのか。がっつき過ぎた自分を律していると、不意に電話越しに小さく吹き出す声が聞こえ、俺は動きを止めた。それはさざ波のような笑い声に代わり、やがて小さな声で「喜んで」と返事が聞こえた。
「すみません、笑ったりなんてして。待ちきれなかったのかな、と思ったらその…兄上、可愛いなって」
「…兄相手に可愛いなど、いい度胸だ。可愛いのは誰か、明日身をもって教えてやろう!」
「あはは!」
よもや呆れられたのでは…と焦ったが、どうやら弟に揶揄われたらしい。笑いを堪えながら弁解する弟に、冗談とも本気とも取れる言葉を返せば、千寿郎は堪えきれず笑い出した。「冗談ですからそれは勘弁してください」なんて笑い声に、「それとこれとは話が別だ!」と笑い返す。かれこれ二十年近く会えない日々が続いたのだ。これを機に、弟に自分の魅力を思い知らせるのもいいかもしれない。千寿郎が聞けば裸足で逃げ出しそうなことを考えながら、俺は明日の約束を取り付けて電話を切った。
『――おやすみなさい、兄上』
電話の最後に聞こえた千寿郎の声が、まだ耳に残っている。明日は直接聞けるのだと思うと、今夜はよく眠れる気がした。
つづく(はず)