第42回「ただいま」実家でもあまり挨拶らしいことはしていなかった気がする。
いきなり息子が良く分からないものが見えるようになったと言えば、家族も腫れ物扱いするようになった。
元々家庭内であつさつらしいものは”いただきます”と”ごちそうさま”だけだったから、そんなに気にしなかった。
それは高専に入っても同じで、入学したものは全員が必ず一緒に食事を摂ることが珍しいほどに任務が舞い込む。
最初こそ同期である灰原と食事を共にすることが多かったが、夏手前には互いの階級が準2級となり、今までになかった単独任務が増えて、共に食事を摂ることが少なくなった。
今日も私に任された任務が遠方での任務だったため、帰寮が遅くなった。
携帯に表示されている時刻はもうすぐ日を跨ぎそうな時間。
こんな時間では、灰原も寝てしまっているだろう。
灰原の手料理、また食べたいな・・・
入学して数週間後にあった寮母さんがお休みの日。
その日に知ったのが家事ができ、特に料理の腕前は私が知る限りでは母と同等ではないかと思うぐらいの腕前で、定期的に彼の部屋で食事を頂いていた。
最近は彼と共に、彼の食事を摂ることが減ってしまった。
部屋に着いて、鍵を開けようとした時に腹の虫が鳴く。
「お腹空いた・・・・」
冷蔵庫に何が残っていただろうかと疲労と眠気で鈍い頭で思い出そうにも、ぼんやりとした物しか浮かばなくて食事をすることのやる気が削がれる。
あぁ、こういう時に灰原が起きていたら・・・・
そう思っていたら、隣の扉が空いて、ふわりと出汁の香りが鼻をかすめる。
「七海、おかえり」
「・・・・・お疲れ様です」
起きていたなんて思わなくて、反応が遅れてしまった。
空腹にこの優しい出汁の香りがテロのように作用して、また腹の虫が暴れて大きな声で鳴き始める。
その音に灰原は声を殺して笑うから恥ずかしさが湧き出て、つい乱れている髪を直すことで平常心を取り戻すように務める。
「着替えたらおいで。かき玉うどんしか出せないけど、一緒に食べよう」
「はい」
部屋に戻ってカバンをベッドに放り投げるようにして、脱ぎっぱなしにしていた部屋着に急いで着替えてから小走りで灰原の部屋へと向かう。
コンコンとノックすれば、奥から鍵開いてるよと声が聞こえてそのまま部屋の中へと入る。
部屋に向かうまでの少し広めの廊下の中腹にあるキッチンで溶き卵を慎重に落とす灰原の横顔に帰ってきた実感が湧いて、ほうと息を漏らす。
そうすると、肩の力も抜けて抑えていた腹の虫が元気に動き出す。
うどん以外も欲しいなとキッチンの方に歩み寄れば、様々な副菜が並んでいる机が奥の部屋にあることが見える。
その中にいつも作り置きしているあのきゅうりの梅漬けやキャベツの塩昆布和えもあってそれだけで口の中に唾液が出てきて止まらない。
「七海、僕に言わないといけない言葉があるよね?」
「言わなきゃいけない言葉、ですか?」
ほんのりとつゆの色を吸ったうどんを大きめの丼に等分するように取り分ける灰原の言葉に首を傾げる。何か言い忘れた言葉があっただろうか。
「さっき、僕はおかえりと言ったよね?」
「はい」
「返事は、お疲れ様じゃないだろ?」
うどんを取り分け終わって、コンロの火を消して腰に手を当てて向かい合う灰原の顔は少しだけ不服そうな顔をしている。
お疲れ様じゃない、おかえりに対する返事・・・・
動きが鈍い頭を動かして、その言葉の意味を噛み砕いて正しい返事を考える。
おかえり、に対しての返事・・・・・おかえり・・・・・
「あ」
「分かった?」
「はい・・・・すいません。言い慣れないものでしたので・・・・」
思い当たる事を思い出して、やっと彼に返さない言葉を理解する。
父と母も、もちろん私自身も久しく口にしていない言葉だったから、思い至るまでに時間がかかった。
そうか、灰原には言って良いのか。むしろ、これが正解なのか。
「七海、おかえり」
さっきと同じ言葉を言う灰原は不服そうな顔をせずに優しい顔をしている。
それを口にするのは何年ぶりだろうか。幼少期は言っていた気がするが、いつからか口にすることを忘れてしまった言葉を口にする。
「た、ただいま」
言い慣れていなくて少しだけ言葉に詰まってしまったが、それでもその言葉を聞いた灰原はゆっくりと大きな目を細めて笑みを深くする。
その変化がすごく綺麗で、見惚れているとつゆを取り分けていた注いで、湯気が上がる丼を足元に立てかけてあったお盆へ移動させて奥の部屋へと運んでいく。
「焼きおにぎりもあるよ!食べよっ!!」
「は・・・・はい・・・・!!」
急いで奥の部屋に向かって、机の前に座れば、茶色のつゆに黄色と白のコントラストを浮かべる丼が置かれる。
それを向かい側に座る自分の前にもおいて、手を合わせていただきますと挨拶する。
それに習って自分も言えば、灰原の手が箸を握って、丼の中に浮かぶうどんを箸で摘んでそれを口に運ぶ。
自分も箸でつまんで、少しだけ冷ましてから口に運べば、優しい出汁とほんのりと感じる生姜の辛みに次々とうどんを摘んで平らげていく。
時折箸休めとしての小鉢に手を伸ばしつつもうどんを完食し、傍らに置かれていたおにぎりを掴んで噛みつけば、程よい塩気と濃い醤油の味に夢中になる。
「汁の中に入れて、雑炊風にしても美味しいよ」
一つを平らげて、焼きおにぎりになっているもう一つにかぶりつく前にそう言われて、急いで丼の中に落として、箸で身を崩して掻き込むようにして食らいつく。
灰原が作る焼きおにぎりは、醤油とごま油をご飯に混ぜたものをフライパンで焼き目が付くまでじっくりと焼いたもので、ごま油と醤油の香ばしさがたまらない一品だ。
それを丼に残る汁の中でも消えることがなく、より深い味わいになったご飯がお腹に落ちる度に頬も緩む。
汁も全て無くなった丼を置いて、ほうと一息つく。
いつの間にか飲み物を淹れていた灰原からマグカップを渡されて、緑茶を飲んでまた一息。
「ごちそうさまでした」
「おそまつさまでした。少しはお腹落ち着いた?」
空になった食器をキッチンへと持っていって、自分のマグカップを持って戻る灰原の言葉にコクリと頷いてまた緑茶を一口と口に含む。
暑くなってきたと言えど、夜は涼しい。温かい飲み物は大変助かる。
「今度からさ、帰る時にメールか電話頂戴」
「え・・・なんでですか」
「お腹の虫を鳴かせている食いしん坊さんにお夜食のお誘いと、七海のただいまをまた聞きたいから」
「私の・・・?」
向かい側に座る灰原の顔はさっき見たような大きな目を細めて微笑んでいる綺麗な顔。
その顔を自分に向けられていると自覚すると、恥ずかしさと胸が軽く締め付けられるような痛みが来て、落ち着かない。
「べ、別にただいまという言葉は珍しくないのではないでしょう」
「そうだけどさ、七海が言うただいまが聞きたいんだよね。ダメ?」
そういう彼の声もとろりと甘さを含ませたように優しく、自分の顔の熱がじわじわと上がっていく。
そんな聞き方をされたら、嫌だと言えないじゃないか。
「だめでは・・・ない、です」
「じゃあ、決まり!明日は久々の一緒の任務だからいらないけど、単独任務の時は絶対だからね?」
明日は何食べたい?って聞いてくる声と顔はいつも通り。
でも、彼からのおかえりという言葉にただいまと返せば、さっきの綺麗な顔を見れるのならまた言っても良いかもしれない。
私が彼への淡い恋心が芽生えたのはこの時だろう。この日は暖かいお腹と共に彼に心臓を掴まれた。
彼の料理は、私のお腹も心も掴んで離さないものとなった。