浄化 ボタンが引っかかって取れた。出会い頭にぶつかった。ペンのインクが切れた。今日は、そんな小さな事象が少しずつ重なる日。
普段なら塵のように飛んでいくはずのそれは心の面に付着していく。そうして取れない汚れはすりガラスを作ってしまった。
「先生、先に行ってますね!」
「うん、いってらっしゃい」
本当はすぐに行ける。用事なんて何もない。けれど、足が動かないのだ。
気まぐれなわがままを通した結果、生徒に嘘を吐いた。
「はぁ……」
部屋に入る前にため息をつくべきだった。
下を向く彼の目の前に落ちる影は、緩い山とつばのある帽子を映し出す。
「…….」
「……やぁ。ファウスト」
今日は、あまり会いたくなかった。いつも通りの微笑を浮かべ、ゆっくりと手を開く。
「……」
ファウストは何も言わない。文句も、悪態も、もちろん称賛も。無言のまま、そっと顔を逸らす。帽子のつばを下げたとき、フィガロは会話を諦めた。
「じゃあね、ファウスト」
それでも、彼の名前を口に出す。
目を逸らしたり、肩が揺れたり。そんな反応があるうちは呼び続けることにしたからだ。
ひらひらと手を振ると、目下の柔らかな髪がゆるりとたわむ。刹那、菫色のまっすぐな瞳がフィガロを捉えた。
ブレスレットが揺れる音、服の袖がばらばらとはだける音。マントの金物がぶつかり合う音。
「……隈、できてるぞ」
汚れなき白の手袋は、そっと端正な顔の目の下をなぞる。さらり、と布が肌を滑らす音が最後に聞こえた。
「え?」
ファウストはくるりと背を向ける。歩き出す彼を見つめながら、フィガロは己の目の下に指を当てた。
そのままゆっくり、ゆっくりとくぼみをなぞっていく。
「……うん」
ガラスの汚れはすっかり消えていた。