無常 その日、この学校に一人の編入生がやってきた。
「ヒース・シャーウッドです。よろしくお願いいたします」
自信なさげで、それでいて優しげな声。長い前髪とメガネで根暗そうな見た目であるものの、どこか上品ですっきりとした雰囲気が漂う。
珍しい編入生、聞いたことのない家柄。きっと関わってもいいことはないだろう。きょろきょろと不安げに辺りを見回す彼を、俺は冷めた目で見つめる。
なんとなく、気に入らない。それが、第一印象だった。
それから数日、俺は編入生のことが気に入らないから嫌いになった。
いつだって一番だった俺の点数は、あいつに呆気なく抜かされた。あの男が困ったように笑えば、女どもが頬を染めて喜んでいる。
皆に優しく、控えめで、言葉使いも丁寧。過度に媚びへつらうこともなく、かといって不遜な態度も取らない。
ムカつく、ムカつく、ムカつく。賢いだけが取り柄だった俺の尊厳を、あの男は呆気なく奪い去っていった。それでいて威張らず、まるで当たり前のように、困ったように微笑む。そんな態度を見ているだけで、まるで俺の神経を逆撫てされた気分になる。
だから、あいつに痛い目を見てもらうことにした。
月が輝く日、誰もいない教室。
ポケットに手を入れながら、俺はあいつの机に向かう。後ろから二番目、左から三番目。教科書の端がびっしりと揃えられている姿に吐き気を感じながら、机の中に手を入れる。狙うはあの男が普段から使っているもの。使用感があればあるほど良い。
整えられた机の中をかき乱し、ようやく手に入れたそれは、彼がいつも黒板を書き写しているペンだった。俺は真新しいそれをポケットにいれ、そのまま屋上に向かう。
立ち入り禁止の看板は錆びて、今にも地面に落ちてしまいそうなほど朽ちている。ギリリ、そんな悲鳴のような音を立てながら扉を開くと、目の前には大きな月が広がっていた。
「はは!!!! あははははは!!!!」
大いなる厄災が世界に混乱をもたらせた日。俺は学校に残り一人勉強をしていた。
俺には勉強しかない。世界が滅ぼうが何だっていい。やけに眩しい月明かりを浴びながらペンを動かしていると、不意に空が光った。
「これで、あいつも終わりだ……!」
ポケットから取り出したのは、七色に怪しく光る謎の石。大いなる厄災が襲来した日、いつもなら絶対に行かない屋上に行き、手に入れたものだ。魔法使いの成れの果てのようなそれは、どんな文献を漁ってもいまだ答えは出てこない。
これに願えば、何だって叶ってきた。自分の一番を脅かすあいつも、あいつも、みんな色んな方法で堕落していき、この学校を去っていった。
「これで、俺はまた一番だ……!」
月の光を当てれば、石はぎらりと怪しく光る。次第に発光するかのように輝きは増していき、眩しくて目を開けていられなくなる。その瞬間に望みを叫べば、願いは叶う。
俺は、ポケットからあの男のペンを取り出し、大きく息を吸った。
そのときだった。
「《レプセヴァイヴルプ・スノス》」
大嫌いな声が、静かな夜空に響く。その瞬間、世界がやけにゆっくりになった。
カツカツと靴音を鳴らしてこちらに歩いてくる男は、髪をかきあげ、メガネを胸ポケットにしまう。倒れゆく俺の身体をそっと地面に寝かせ、手に持つ輝く石を睨みつけた。
「見つけた」
その瞬間、あいつはもう一度呪文を唱える。
そのとき、俺はやっと、こいつが魔法使いであることを悟った。
目が覚めると、目の前には端正な顔。その男の大きな目の奥に映る自分の顔があまりに不細工で、俺はそいつを力一杯押し退ける。
男は、ピクリとも動かなかった。代わりに、大丈夫ですか、なんて困ったような顔で問いかけてくる。ひどく屈辱的な気分にさせられた。
「俺を、俺たちを騙していたな……陰湿な魔法使いめ……」
口から出る本心に、目の前の男はピクリと眉を動かす。大きな瞳を伏せ、どこか悲しげに笑うと、ゆっくりと立ち上がる。
彼の手の中には七色の石。俺のお守り、俺の命。
「返せ、それを返せ……!」
どうしても、あれを失う訳にはいかない。今すぐ飛びかかりたいのに、なぜか身体が動かない。
這いつくばりながら手を伸ばす俺に、あいつは憐れみを込めた目を向ける。
月明かりに照らされた男は、眉を少しだけ下げ、いつも通り、情けなく笑った。
「ごめんなさい」
パリン。
そんな音と共に、石は空中で四散する。
俺はただ、見ていることしかできなかった。