water 学校を変えるみたいに、自分の過去も変えることができたら。そんな夢物語を考えたことがある。
その日、ファウストは珍しく外を散歩していた。お昼前の授業中、多くの学生は机に座って勉学に励んでいるだろう。引きこもりのファウストには、そんな彼らとは違う時が流れている。
学校が統合してから、学園がずいぶんと騒がしくなった。ファウストの引きこもる図書室にも頻繁に人が出入りするようになり、中には彼の場所まで声をかけにくる生徒もいる。いくらあしらっても彼らはキラキラした目でファウストを見つめてくるのだ。どうも居心地が悪い。
今日、ファウストがこんな昼間に外に出た理由も、図書室がうるさかったからだ。
おそらく授業で使っているのだろう。話し声や足音が絶え間なく聞こえてくる。
騒ぐな、他の人もいるんだぞ。そう言ってやりたかったが、引きこもりのファウストの立場ではどうしても分が悪い。
静かに過ごすことを早々に諦めたファウストは、場所を変えるべく重い腰を上げた。
そうだ、猫にでも会いに行こう。そうして、学園の日陰を通りながら彼は外に出たのだ。
しばらく癒しを得て、チャイムがなる前にまた図書室に戻り、いつも通りの一日を終えるつもりだった。
あの男に見つかるまでは。
「……あれ?」
人の気配を感じない駐車場近く。ここには、職員たちの乗る個性豊かな車が並んでいる。
人目につかない場所を選んだはずなのに、全く意味がなかったらしい。その男は、ちょうど車から降りてきたところだった。
「どうしたの、ファウスト?」
「……なんでもない」
背が高いと足も長い。背を向け引き返すファウストにすぐに追いついたフィガロは、今も逃げ続ける彼の隣を歩く。
「おい、ついてくるな」
「保健室はあっちなんだよ」
「……」
軽い調子で笑うフィガロに、ファウストは何も言えない。実際、保健室はファウストが向かっている方向と同じだった。
片手をポケットに入れたまま、フィガロはファウストに話しかける。
「学校生活はどう?」
「別に、変わらないよ」
「そっか。俺は忙しくなったなあ」
校舎の裏、建物の日陰。明るい笑い声が彼らの耳に届く。
「図書室、うるさくて出てきたんでしょ?」
思わず舌打ちをすれば、フィガロは困ったように笑う。レンズ越しに睨みつけるが、フィガロは飄々とした表情を崩すことはない。
「教師らしく、授業にも参加せず外を出歩く不良を連れ戻すのか」
「きみが不良? それ、面白いね」
保健室はとっくに通り過ぎている。
ふふっと鼻で笑ったフィガロは、どこか楽しそうにファウストの隣を歩き続けた。ファウストよりも背が高いせいか、ずっと彼の影は濃いままだ。
「でも、たまには授業に出てみるのもいいかもね。ほら、課外授業とかなら楽しそうじゃない」
「絶対に行かない。僕は引きこもりなんだ」
スパッと提案を跳ね除けてしまえが、フィガロは少しだけ不服そうに唇を尖らせる。
授業はまだ終わらない。たくさんの人の気配がする校舎からは、今も誰かの声が聞こえてくる。
図書室が近づいてきたとき、フィガロはゆるゆるとファウストを手招きした。大人しく付いていけば、彼は片手でガラス扉を引いて校舎の中に入っていく。
「こっちの方が近道だよ」
空き部屋を真っ直ぐ進んでいくと、そこは図書室の裏側に続いていた。すりガラスからは気味の悪い人形が見え、ファウストは思わず肩を上げる。そんな様子を、フィガロはどこか楽しげに笑った。
「知ってる? 校長がここにカジノを作ろうとしていた話」
「は?」
あり得ない、と言おうとした。しかし、あの楽しげな口髭を生やした校長ならやりかねない。つい黙ってしまったファウストに、フィガロは目を細めて頷いた。
「単位を賭けたら楽しそう、だってさ。はは、教頭がいなかったらどうなってたんだろうね」
他所ごとのように笑うフィガロも、生徒同様校長に振り回されている一人である。
校長という立場。頭が良く金もある。そしてそれ以上に溢れんばかりの好奇心を持ってしまっているのだ。誰も校長を制御することはできないだろう。
図書室に入り、フィガロは壁際の本棚へ向かう。引き戸のような棚を動かせば、ファウストがいつもいる隠し部屋への入り口の扉が現れた。
「……知ってたんだな、僕がここにいることを」
「まあ、うん」
どこか歯切れの悪い返事に、ファウストはため息を吐く。今までの鬱憤を執拗なほどに非難してやりたい気持ちもあるが、今はそれどころではない。
そのまま立ち去ろうとするフィガロを招き入れ、ファウストはしっかり扉を閉める。きょろきょろと辺りを見回す彼に、ファウストはゆっくりと近づいていった。
閉じられたこの部屋は、誰かが入ってくることはない。時折外から声をかけられることもあるが、そんな良い子たちはみな授業を受けている。
この部屋には、今は二人だけだ。
「よし」
小さく頷いたファウストは、会ったときからポケットに入れっぱなしだったフィガロの手を引き抜いた。
「え、ちょっと」
ポケットから出てきたのは、ファウストよりも大きくて長い指。指先をじっとみれば、何かが詰まったように黒くなっている。おまけに中指が妙な方向へ曲がっていた。
「おい、どういうことだ」
「気づいてたんだ」
フィガロは笑いながら中指をぐるりと回す。ゴキゴキと嫌な音がなり、ファウストの眉間にシワが寄った。
「そういうことはやめたんじゃなかったのか」
「やめたはずなんだけどね」
ぶらぶらと手を動かすフィガロに、ファウストは部屋の隅から救急箱を取り出した。その隣に、鞄の中から取り出したペットボトルの水を置く。
「……未開封だから」
「え、治療してくれるの?」
「は? お前が自分でやるんだ」
「えー」
フィガロは笑いながらファウストの救急箱を開ける。中からコットンとビニール袋を取り出し、ペットボトルの口を開けた。カチ、と封が切れた音が響く。
垂らした水をコットンに少しだけ湿らせ、フィガロは指先をくるくると擦っていった。黒いボロボロとした何かがコットンの繊維に色をつけていく。
「……指、大丈夫か?」
「うん? ああ、平気だよ」
フィガロは、ファウストへ指先を丸め猫のようなポーズをする。言葉通り、問題なく動かせるらしい。
色がついたコットンは袋の中に入れ、また新しいものを取り出す。水が少しずつ減っていく。
「昔もこんなことあったね」
「……覚えてない」
「そう」
指先がある程度綺麗になると、フィガロは袋をぐるりと丸めポケット中へ入れた。ペットボトルを近くまで引き寄せた彼は、薄っぺらい財布を胸元から取り出す。
「いろいろありがとうね」
テーブルの上に置かれたのは少し曲がった千円札。ファウストは鬼の形相をした。
「は?」
「あ、一桁増やそうか?」
「ふざけるな。僕はそんなつもりでお前をここに呼んだわけじゃない」
綺麗な顔を歪め、怒りと悲しみの静かな声を出す。フィガロは分かりやすく困った顔をした。
「水もらったし」
「お金をもらうつもりはない、それに千円もするわけないだろう」
引っ掴んだ千円札は、フィガロの胸ポケットにグシャリと入れられる。
「小銭がなかったんだ」
「知らないよ、そんなこと。おまえはどうしていつもそうなんだ」
肩で息をしながら、ファウストはフィガロを睨みつける。
ひょうひょうとした顔はとっくに崩れている。フィガロは、ただ困っていた。
「お礼もさせてくれないなんて。そんなにも俺のことが嫌い?」
「ああ」
「……そう」
フィガロは小さなため息を吐く。聞かなきゃよかった。心の底からそう思った。
すっかり怒りに支配されたファウストを、これ以上刺激しない方がいいだろう。フィガロはペットボトルを持ちファウストに背を向ける。
「じゃあね、ファウスト。またくるよ」
「二度と来るな」
チャイムの音が聞こえた。フィガロは振り返らない。
ファウストは、力いっぱい扉を引いた。
その日、ファウストが帰るころ、隠し扉の前にペットボトルの水と小さなお菓子が置かれていた。
あれからずっとここにいたが、ファウストは気配すら感じることができなかった。そんなことができる人なんて、知り合いではたった一人しか思い浮かばない。
「……声ぐらいかければいいのに」
ああ、なんて自分勝手だろう。
ファウストは苦々しい顔のまま、ため息を一つ吐いた。