近寄るべからず その日は何十年、いや何百年に一度ぐらいの、とてつもなく虫の居所が悪い日だった。
任務により北の魔法使いがいない平和な夜。ファウストが久しぶりに商売道具の呪具の手入れをしていると、壁の一部が吹き飛んだ。
北の魔法使いたちは強い。早々に任務を終わらせたものの、どうやら癇癪を起こしてしまったらしい。
誰も邪魔が入ってこないよう念入りに結界も張っていた。しかし、彼らにとってはそれは薄いガラスのようなものだ。
パリンと割れた破片はファウストに降りかかる。手順を違えたことで呪い返しにあい、次の日は一日中小さな感情に振り回されたり、熱に魘されたりと散々だった。
「くそっ……」
ファウストは本当に機嫌が悪かった。集団行動をすることを早々に諦め、彼は朝から魔法舎を飛び出した。
箒に乗りながら何度も呪い屋らしく忌み事を言い、飛んでいる無関係な鳥すら睨みつけてしまう。それぐらい、ファウストの心は荒れ狂っていた。
壊れてしまった呪具の修理には、中央の国でしか売られていない道具が必要だ。朝からざわざわと出店が立ち並ぶ通りを抜けながら、いつも通りの人の多さにほどほど辞意していた。
なんで僕がこんな目に。今日は生徒たちの宿題を見て、ゆっくりと本を読む予定だったのだ。怒りの感情で目の前が赤く染まりそうである。
そんなとき、耳障りなほどに高らかな声が聞こえたのだ。
「俺は偉大なるフィガロ様の弟子なのだ!」
そこには、どこか気取った装いの魔法使いがいた。珍しい品々を揃えた出店はそこそこの賑わいを見せており、男はにこにこと笑いかけている。うっかり振り向いてしまったファウストをめざとく見つけた彼は、人当たりの良い笑顔でちょいちょいと呼び寄せる。
珍しい、と思った。オズの弟子を名乗る者なら何十人と出会ったことがあるが、フィガロの名を騙る者は初めてかもしれない。
知らないだけの可能性も大いに考えられるが、ファウストは自分以外の弟子の話を彼から聞いたことがなかった。
「おや、あなたもフィガロ様にご興味がある? ほら、よっていってちょうだいな」
「……ああ」
今日のファウストは機嫌がすこぶる悪かった。
値踏みをするような笑顔をする自称フィガロの弟子を名乗る男の店へ、ファウストはふらりと近づいていく。並べられた品はどれも他の店とは一味違うものばかりだ。
けれど、多少魔力の強い魔法使いならこれらが全て幻術に似た魔法が付与されたものであると分かるだろう。
安値のものに魔法で偽りの姿を作り出し、客から金をせしめとる。詐欺師と同じだ。
「これらは全てフィガロ様から俺がいただいたものなのだ! どれもフィガロ様が長年使用された愛着のある素晴らしい物ばかり!」
「……」
魔法使いは安易に自分の持ち物を渡さない。それは呪いの媒介となり、己の身を滅ぼすことにもなりかねないからだ。
フィガロから教わった。
「知っているか。フィガロ様の本当の名前を。ここに来てくれた縁だ、こっそり、こっそり教えてあげよう」
そう言ってほどほどに大きな声で述べた名前は、確かにフィガロが使っていた偽名である。しかし、それはすぐに足切りできる程度の者へ使われていた名前だ。
彼は名前をいくつか持っていた。フィガロに近しい者なら、すぐに分かることだ。
「なに、フィガロ様を知らないだって!? 仕方がない、明日偉大なる我が師匠に合わせてやろう」
フィガロは今南の国の魔法使いたちと任務に行っている。会えるはずがない。
なぜ、こいつはフィガロの名を騙っているのか。なぜ、こんなことをしているのか。
「……僕にも詳しく聞かせてくれ」
フィガロの弟子はたった一人。そんな話を聞いたことがある。嘘か本当かは分からない。
それがもし、本当なら、本当なら。
ファウストは機嫌が悪かった。それはそれは悪かった。
けれど、ファウストはにこやかに笑った。
ケンカの売り方は散々教わった。
当時の純情無垢なファウストには刺激の強いものばかりだったが、それでもそのやり口は怖いほど効率的で、まるで恐怖が綺麗とすら思えるほどに鮮やかだった。
典型的な浅ましい魔法使いの懐に入るのは簡単だ。餌を垂らすだけである。
男が知り得ないであろうフィガロの嘘の情報を少し流せば、彼は面白いぐらいにファウストに食いついた。
ああ、なんと簡単だろうか。しばらく立ち話をしたあと、ファウストは彼の行きつけの飲食店へ連れて行かれた。
大通りから離れた、少し寂れた佇まい。店を開ければ、どこか不気味な笑顔を浮かべた魔法使いたちが静かに頭を下げた。
二人が個室に通されると、ウェイターがグラスを二つ持ってくる。
景気付けの一杯を。そんな声にファウストはにこやかに笑い、酒に手を取った。
「……ふん、自業自得だな」
あれから、どのぐらい時間が経ったころだろうか。
ファウストは男を冷めた目で見下していた。自分よりも魔力のある魔法使いを見切れない時点で、この男がそれほどの者だったことは分かる。
「や、やめろ、やめてくれ……」
酒に入れられていた薬や底意地の悪い魔法に、ファウストがちゃんと気付いていた。飲むフリをしてしばらく男と談笑していれば、魔法使いの店主やウェイターに一気に囲まれる。
そこからは呆気ないものだった。
ファウストが魔力を込めた拳で殴れば、ウェイターは呆気なく石になった。ガラガラと音を立てて崩れ落ちた欠片に、周りの魔法使いたちの顔が一気に引き攣る。
ファウストは元来無闇に殺生をすることはない。
けれど、その日は呪いの影響を受けていて、おまけに何十年、いや、何百年に一度ぐらい機嫌の悪い日だった。
鳥の首を捻じ曲げたような悲鳴と共に、店主たちはその場から逃げ出した。けれど、魔道具からの光は彼らを石化させていく。哀れな姿の彼らはゴトゴトと床に転がり、地面にぶつかった衝撃でばらばらと崩れていった。
ファウストをここへ連れてきた男は、恐怖で身体中の穴からひたすらに汁を垂らしていた。命を懇願する様はあまりにも無惨であまりにも汚いものだ。
「金か、マナ石か、それとも名誉か!? 何でもおまえにやる、だから、命は、命だけは……」
びしゃびしゃにソファを汚しながら懇願する様にファウストは静かに笑う。哀れで、やましくて、汚くて。きっと、フィガロが心から嫌うものばかりだろう。
自分がどこかおかしいことは分かっている。こんな、感情に浮かされたまま行動をするなど、普段ならあり得ないことなのだ。
けれど、今日だけは身を任せてもいいと思った。何せ本当に気に食わない。こんな弱くて、こざかしくて、醜い者を、フィガロ様が弟子にするはずがないのだ。まるで自分にまで泥を塗られている気分である。
ファウストの機嫌は地の地を這うほどに悪かった。
「まあ……、僕は破門されたけどな」
感傷じみた笑いを浮かべ、ファウストは軽く手首をスナップする。途端、鏡から怪しい光が注がれ、男はじわじわと灰色の石に姿を変えていった。
恐怖に怯えた表情のまま、石像は地面に崩れていく。コロコロと転がる頭はファウスの爪先で動きを止める。
「……ふざけるな」
顔の中心、鼻の辺り。ファウストはブーツで勢いよく踏みつける。
ガシャン、と石が砕ける音がした。