朝日一筋 綺麗な海が見えるホテルに泊まった。
目が覚めると、真っ暗な部屋。知らない天井。不思議な匂い。
どこか落ち着かなくて腕を見ると、時計は起床予定よりもずいぶんと前の早朝。ファウストはため息を吐いた。
いつもなら朝は腕につけているスマートウォッチのバイブ音で目が覚める。あの人に便利なのかと聞いたらまるっきり同じスペックのものを買ってきてくれて、それからずっと大切に使っているのだ。
お揃いだね、なんて彼は笑っていた。その顔を見て、お揃いでいいのか不安になったのを思い出す。
「……はぁ」
じっとりと濡れる汗がシャツに張り付き気持ちが悪い。崩れた浴衣を軽く整えベッドから静かに起き上がり、カーテンをほんの少しだけ開ける。
朝日が昇っていく瞬間をずいぶんと久しぶりに見た。
空は真っ赤。高層階に位置するこの部屋では、鳥の鳴き声も走りゆく車の音も聞こえない。目の前には大きな海、浜辺近くでは犬の散歩をする人を見つけた。
海は浜辺に水跡を残し、そしてゆっくりと引いていく。
後ろを見れば、違うベッドで姿勢良くぐっすりと眠るあの人がいる。デスクにはパソコン周りの機材がまとめられており、ブルーライトカットメガネが傍にちょこんと置かれていた。
夜遅くまで仕事をしていたのだ。できれば寝かせてやりたい。寝不足は熱中症になりやすいのだ。
いつもなら、きっともう一度ベッドに入り直しているだろう。そして再び夢の世界へ旅立ち、いつも通り腕の振動によって起こされる。
けれど、ファウストは眼鏡をかけ、浴衣を脱いだ。ハンガーにかけておいた今日の服に着替え、暗闇の中髪を軽く整えていく。
どうしても、海を近くで見たいと思った。
伝言をメッセージアプリに残し、ポケットにスマホとルームキーを入れる。
そのまま静かに扉を閉め、ゆっくりとエレベーターへ歩き出した。
風の強い朝だった。
ホテルから出た瞬間、髪の毛が全て後ろ向きになる。入り口に生えている植物たちが皆ざわざわと音を立て、木々は幹ごとゆらゆらと揺れていた。
道ゆく従業員に頭を下げられながら、ファウストはゆっくりとホテルの敷地の外へ向かっていく。目の前の一車線分の短い横断歩道を渡れば、砂浜に続く道と赤々とした朝日が見えてきた。
ざく、と砂を踏み締める音が心地よい。けれど、お菓子やペットボトルが近くに落ちていてどこか居心地の悪い気分になる。片付けたくても、衛生的に素手で触ったものいいのだろうか。どこか潔癖症なあの人が嫌な顔をするのが目に見えてしまう。
砂を固めながら進めば、ざあと砂が舞い上がる。白波を立てながらこちらへ向かってくる波には、うっかり近づきすぎると旅行用のたった一足を濡らしてしまうだろう。
ビーチサンダルを持ってこればよかった。それなら心置きなく海に足をつけることができたのに。けれど、ファウストは泳ぐつもりも、海に入るつもりもなかった。
海が見たい。そう言ったら、あの人はここに連れてきてくれた。
このホテル、ちょっと泊まってみたかったんだよね。そんな優しい言葉があっても、こんな綺麗な場所にはどうも自分が不釣り合いに感じてしまう。
海なんて、電車で三十分も乗ればあるのだ。けれど、それを口にすることはなかった。
朝日が、少しずつ登っていく。
水面に真っ直ぐ光の一本道を作り、海の色を
暖色に変えていく。その様子を見つけた流木に座ってぼんやりと眺めていれば、ふいに肩に手を置かれた。
大きな影が身体を覆い隠す。
「海、好きなの?」
どこか尋ねるかのような言葉にファウストは首を振る。
「別に、特別な感情は待ち合わせていないが」
「そっか」
セットされていない髪と、ポロシャツにゆるりとしたパンツの普段よりずいぶんとラフな服装。同じスマートウォッチをつけた彼は、同じようにぼんやりと海を眺めている。
灰色の瞳に燃えるような海が反射して、まるで炎みたいだった。
「実は、起きてたんだ」
「……」
長い膝をぐっと曲げて、ニコニコと笑いながら。けれど、どこか寂しそうなのは、早朝だからか、寂れた海だからか。
「どこにいくのかなって、ちょっとだけ不安になってた」
「……あなたが起きる前に帰ってくるつもりだったんだ」
「大丈夫、ちょっと拗ねているだけ」
子供みたいな発言をしていながら、彼は大人のように笑う。全ての鬱憤を抑えた綺麗で人当たりの良い笑みは、誰も寄せ付けようとしない。
「……すまない」
首を振ったあと、彼は眉を少しだけ下げ、再び海を見る。真っ直ぐに伸びていた光の一本道が、徐々に薄くなっていく。
真っ直ぐ進んだら、どこかに辿り着きそう。
けれど、彼は首を振り、沈んで苦しくて寒いだけだと言った。
波が寄せて、引いてを繰り返す。
砂浜に描かれる湿った影をぼんやりと見ていると、ふと腕に振動が伝わってきた。
打楽器の軽やかな音も聞こえ、ファウストは隣を振り返る。彼はポケットからスマホを取り出していた。
そういえば、夜、同じ時間にアラームをかけていた。一緒に起きようね、なんて冗談めいたことを言っていたのを思い出す。
「そろそろ戻ろっか」
静かに頷けば、彼はそっと画面をタップした。