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    ruicaonedrow

    エタるかもしれないアレとかコレとか/ユスグラ/パシラン/フィ晶♂/銀博/実兄弟BL(兄×弟)/NovelsOnly……のはず

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    ruicaonedrow

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    きっかけ(ターニングポイント?)

    WS 2章3.
     目の前には、空が広がっていた。遠く、高く、真っ青に澄んだ空が。
     あの色は――とセインは呟き、手を伸ばす――どんなに熟達した画家でも完璧に再現することは難しいだろう。ましてや、僕なんかには、とても。手持ちの絵の具と色が合わないとか、そもそも技術的に難しいというわけではなく、何となく……そう思うだけだが。
     誰しもが見上げ、誰しもが当たり前に目にする青は、古来より変わらず人々の心を掻き立ててきた。誰しもが空の向こうに憧れ、空を飛ぶ艇で以て、新たな世界を目指して飛び出していった。出世、浪漫、あるいは……己の名誉のために。
     兄――キリエ・アリュシナオンは。
     この時間だと恐らくは未だ眠りの中にあるだろう。村に戻ってきて直ぐ、過去の『精算』と称して家々を回ったときに、今は手持ちが全くないからと、方々で日雇い的に働くこととなったのだ。
     労働はそれこそ、多岐に渡るらしい。牧場の草刈り、水汲み、放牧のお供に始まり、商店の店番、犬の散歩、赤ん坊の世話、挙げ句、老人たちの茶飲み話に付き合ったり。キリエは嫌な顔ひとつせず、何でもかんでも快く引き受けてしまうため、帰宅が日付を越えてしまうことも度々あった。昨日だって当然のように午前様であり――それでも、彼はいつも、とても楽しそうにしていた。
    「別に、働く必要なんてないでしょ」
     とある夜、キリエと夕食のテーブルを囲んだときに、セインはそう切り出した。どうしても気になって、仕方がなくなったのだ。
    「ローズ座に立つくらいの売れっ子俳優なんだから」
    「まぁそうは言うけどな、セイン」決して金のためじゃあないぞ、と付け加え、兄は、したり顔でつまみものを食む。「ある日突然牛飼いの役が回ってくるかもしれないし、男やもめを演じろと言われるかもしれない。その度に取材に行ってるようじゃあまだまだ二流だ。いいか、世の中の全ては、演劇において、いい教材になりえるんだぞ」
     三年前。
     どうやら彼は単身ヴェローナへ渡り、演劇の勉強を続け、自己研鑽に励んでいたようだ。今はローズ座のお抱え俳優なんだと自慢げだった。何でも、サオウの戯曲にも端役ではあるが登場し、看板役者のアントニーとも絡みがあるらしい。
     そう言われたところで、セインは演劇に詳しい訳では無いし、この島から出たことも当然、無い。ヴェローナもサオウもアントニーも、何ならローズ座もよく分からない。けれど兄がとても楽しそうに話すので、遠い異国の冒険譚のようにして彼の話を聞いていた。
     しかし何故、売れっ子俳優がこんな寂れた島に戻ってきたのだろう、休む暇など無いのではないか? そんな至極真っ当な疑問に対しては、彼は、甘いなぁ弟よ、とチッチッと指を振る。
    「ひとつの劇が終わったら、次に上演する演目が決まるまでは自由時間さ。サオウだって忙しいんだ、そんなポンポンと新しい戯曲が出てくるはずもない。だから、その間は基礎練習を続ける者もいるし、このタイミングしかないと故郷に帰る者もいる。おれは後者だったってワケだ」
    「それじゃあ、次の演目が決まったら……そのときがお別れになるんだね……」
    「ん……ま、まぁそう……なる、かな」
     キリエは頬を掻いてやや上方に目を遣り、けれど一拍を置いて、にかっと歯を見せて笑った。
    「まぁ心配するな、弟よ」殊更元気よく、弟の額を小突く。しょげていたのが分かったのだろう。「この兄、キリエ・アリュシナオンは元気にやっていると分かっただろう。今度はちゃんと便りも寄越すし、何ならローズ座の舞台に案内しよう。ヴェローナでもなかなか取れないプラチナチケットだぞ。楽しみにしてなさい」
     ――それなら……どうして三年前に黙って出て行ったのか。
     ――僕は別に、兄さんがそれでいいなら、俳優になることだって決して反対しなかったのに。
     はぁ、と大きくため息を吐き、セインは、あのとき告げることの出来なかった言葉を胸の奥底に仕舞い込んで鍵を掛ける。やめよう。終わったことだ。兄さんは帰ってきた。それに、今度ヴェローナへ戻ることになったのなら、都度きちんと便りをくれるという言質も取った。だから、良いのだ。
     もう、……良いのだ。
     ざぁっと、風が渡った。名もなき草が頬をかすめ、葉擦れが鳴り、草原が波打った。足を伸ばして勢いを付け、寝転がっていた身体をひょいと起こしたなら、ちょうど胸の辺りに置いてあったスケッチブックがばさりと落下した。苦笑しつつ、拾い上げる。
     太陽はいよいよ南天を巡り、綿飴のように千切られた雲が形を変えながらも付き従う。その影が、揺れ動く緑の中でスケッチブックを抱え、足を投げ出して座ったままのセインの上を静かに通過していく。人々の微かなさざめきの合間に、犬が吠え、馬がいななき、出発を告げる鐘の音が被さった。風向きが変わったのだろう、ところどころで炊事の煙が上がる中、美味そうな匂いがここまで漂ってくる――そうか、そろそろ昼時か。道理で軽い空腹感を覚えるわけだ……
     その目が。
     宙を見て一拍、は、と大きく見開いた。
     それは点だ。青く澄み渡った空に似つかわしくない、黒い異物。出来上がった絵の上にいたずらに落とした墨染のような点は、そうやって唐突に、空の向こうに現れた。
    「……え、……?」
     言うが早いか。
     その点は、徐々に、徐々にその大きさを増した。点だったものが、今や肉眼でもはっきりと分かるくらいになった。それと同時に、低く唸るような轟音が、辺りに鳴り渡り始める。
    「あれは……」セインは呟いた。ゆっくりと立ち上がった。「小型騎空艇……?」
     途端、ぞっと背筋が冷えた。黒い塊から絶え間なく吹き出る、どす黒い煙を見てしまった。操縦不能に陥ったのか、妙な揺れを繰り返しながらも、徐々に大地に吸い込まれていくように見えた。
     ――無人機? いや、……あれは間違いなく有人だ。大きさが違うし、そもそも、あのような無茶な飛び方をするだろうか。
     セインは思った。騎空艇なぞ港でしか見たことがないにも関わらず、直感でそう思った。何故なのか、考える間もなかった。
     ――だとしたら……!
     見捨てなよ、と誰かが囁いた。今のお前が駆けつけたところで何が出来るんだ? こういうのは他の大人に任せて、後でどうなったか、確認すれば良いだけの話だろう。
     確かに、そうだ――駆け出そうとした足が一瞬止まる。僕が一体何の役に立つというのか。行ったところで間に合わないだろうし、野次馬を増やすのが関の山だ。ああ、……でも。
    「彼は……かの、幻想譚の主人公は」声に出して叫び、呪縛を解くようにして一歩踏み出す。「困ってる人を決して見捨てたりはしないんだ!」その勢いで、走り出した。
     声は黙った。もう、何も聞こえなくなった。セインは唇を引き結び、空を見上げた。
     黒い塊――小型騎空艇は、轟音と共に炎を吹き上げながら、ぐるぐると旋回し出した。あれではもう墜落を避けられまい。せめて、乗員が無事であることを祈るしかない。
     セインは駆ける。草原を下り、柵を跳び越え、あぜ道をひた走る。ぽかんと口を開けて空を見上げる村人たち、震える子どもを抱え込む母親、道端にしゃがみ込み熱心に祈り続ける老婆、盛んに吠え立てる犬……その合間を縫って、今まさに、山間に激突しようとする艇を追い掛ける。
     その影が。
     やがて、大地の果てに飛び込み。
     ――あの方角は……アーク・ヴァレー……?
     セインがそう認識すると同時に、光が炸裂し、爆発音が響き渡った。


    「……は……?」


     ゼタの第一声が、それである。
     無理もない。ベアトリクスに案内されて辿り着いたその先、三叉路の端にあった小洒落た風合いのカフェの扉を開けた途端、溢れ出る珈琲の香りと共にひとりの少女が彼女たちを出迎えた。
    「いらっしゃいませ! ようこそ、カフェミレニアへ!」
     お決まりの台詞に、愛想の良い、可愛らしい笑顔。軽く小首を傾げたのなら、ゆるく巻かれた蜂蜜色の髪が肩口からさらりと零れる。恰好こそボーダーのシャツにデニムエプロンというカジュアルなものであったが、黒い革製のメニューブックを抱え、マスター、お客さま二名ご案内しまぁす、と可憐な声で店内へ呼び掛ける姿は、成る程、どこぞのコンセプトカフェのようだ。
     ただ、ゼタは。
     入り口に立ち尽くしたまま、苦虫を噛み潰したような、渋い顔をしている。背後に従えたベアトリクスが、どうかしたのかと、横から覗き込もうとするほどには。
    「……何してんの、アンタ」
     ぽつり、零れた言葉に、給仕の少女――カリオストロはにっこりと笑った。けれど一呼吸置いて、紫水晶の瞳がすっと眇められる。
    「よぉ、ゼタ」容姿の愛らしさに似合わぬ不遜な語調で、彼女は応えた。「久しぶりだな。まさか、お前まで『呼ばれた』とは思いも寄らなかったぜ」
     ――『呼ばれた』。
     またそれ? どういう意味なのよ、と口を開くまでもない。彼女は後ろのベアトリクスに素早く目配せをすると、二人を店内へと招き入れた。カランカランとドアベルが鳴り、蝶番の軋む音と共に世界が隔たる。
    「さ、お客さま方、お席へどぉぞ」
     立ち話もなんだしねっ、とカリオストロは微笑み、先立って軽やかに歩き出す。訝りながらも、ゼタは、ベアトリクスと共にそれに倣う。静かな店内に、三人分の足音がカツコツと響く。
     そう……店内は静かだ。誰もいない。自分たち以外は、誰も。街に人がいないのだから、ここに客がいないのも当然と言えば当然なのだが。
     手近な長椅子に腰を下ろし、ゼタは静かに、アルベスの槍を立て掛けた。すぐ手の届く位置ではあるが、手に取ってどうこうは考えなかった。カリオストロは二人を案内した後、可愛らしく一礼をして、厨房の方へと歩いて行った。すぐに食器の触れ合う音が聞こえてくる。
    「……罠、……じゃあ、なさそうね」頬杖を突きつつ、呟けば。
    「罠ぁ? なんだよ、それ」すぐに聞きつけ、相向かいのベアトリクスは頬を膨らませた。「そんなわけないだろ。ゼタを嵌めてどうするっていうんだよ。だいたい……」
    「はい、お待ちどぉさまっ」
     何かを言い掛けたベアトリクスを、愛らしい声が遮る。
     銀の盆を携えたカリオストロは、テーブルの上に洒落た形のグラスをふたつ、ゆったりとした動作で並べた。透き通った氷が縁に当たり、カラン、と涼やかな音を立てる。
    「これはねぇ、本日のケーキ……」
     じゃぁん、ともったいぶりながら硝子のクロッシュを開けると、レモンの爽やかな芳香と、バターの焦げた、甘く香ばしい匂いが鼻先を過ぎった。おお、と二人の女騎士が揃って目を見張る中で、カリオストロは得意げに頷いた。
    「カリオストロ特製、ウィークエンド・シトロンだよっ」
     それは綺麗に焼き目の付いたパウンドケーキだった。一口サイズに切り分けられ、真っ白な砂糖衣を身に纏い、レモンの輪切りと、ピスタチオを砕いた緑の破片で飾られている。隣にはレモンピールとミントが添えられ、カフェの雰囲気に相応しいお洒落な盛り付けとなっていた。へぇ、とゼタが唸り、美味そうだな、とベアトリクスが目をキラキラさせる。
    「聞きたいことは山とあるだろうが、まずは腹ごしらえをしておけ」
     小皿と銀のフォークを丁寧に並べつつ、カリオストロはニヤリと笑った。そのうちのひとつを手に取り、ウィークエンド・シトロンを一切れとレモンピールを幾つか乗せると、ゼタの隣にどかりと座る。その小柄な身体を、たっぷりと置かれたクッションがすっぽりと受け止めた。
    「そもそも、アイツが帰ってこない限りは、二度手間になるだけだしな」
     まぁ、じきに戻ってくるさ。カリオストロはウィークエンド・シトロンを咀嚼しながら事も無げに言うが、ゼタはぱちぱちと目を瞬き、カリオストロの方に向き直る。
    「……アイツ……?」
     ぽつりと呟いた、そのとき。
     ……カラン、カラン。
     ドアベルの乾いた音が、静かな店内に響き渡った。
     ゼタは、はっと顔を跳ね上げる。カリオストロは素知らぬ顔でグラスに口を付け、ベアトリクスはレモンピールを囓りながら嬉しそうに頬を緩める。
    「なんだ、また一人増えたのか」
     青年は。
     開口一番、そう零して息を吐く。
    「これで五人……いや、彼を入れて六人目だな」
     癖のある茶の混じった黒髪の、すらりとした細身の美丈夫である。カリオストロと同じボーダーシャツに、デニム生地のカフェエプロンを纏っている。橙色の紐が、やけに鮮やかに見えた。
    「サンダルフォン……?」
     ゼタの呟きに、青年は、けれど一瞥をくれただけだった。赤の双眸の目元を鋭くして、彼は、背中で扉を押さえたままぐるりと店内を見渡した。店内……いや、そこに座る、カリオストロ、ベアトリクス、卓に広げられた菓子類、そうして、もう一度……ゼタ。
    「茶会の最中で申し訳ないが」ふぅ、と吐息を落とし「協力を仰ぎたい」
     その言葉に、一同は互いに顔を見合わせた。「別に、良いけどさ」咥えていたフォークを離し、ベアトリクスがおずおずと尋ねる。「……何か、あったのか」
    「何か、どころの騒ぎじゃねぇな」
     グラスの中身を一気に煽り、とんっと卓に置くと、カリオストロは腰を浮かせた。その目がサンダルフォンの背後を捕らえ、何かに気付いたように、すっと細くなる。
    「何があったんだ。……いや、その前に」
    「ルリアがいなくなった」
    「な……ッ」
     一同は。
     一様に、絶句した――否、カリオストロだけを除いて。
     ――ルリア、ってあのルリアちゃん?
     ゼタなどは息を呑み、その緑青色の目を大きく剥いたまま、険しい顔つきのサンダルフォンを見つめている。
     ――何でルリアちゃんがここに……? 彼女も『呼ばれた』ってこと?
    「お、おい……」ややあって、ベアトリクスが掠れた声を上げる。「一大事じゃないか」
    「ゼタ、悪いな。詳細は後回しだ」
     カリオストロは舌打ちをひとつ、急ぎ、サンダルフォンに駆け寄る。その手に、十字架に蛇が巻き付いた杖――ウロボロスを携えて。
    「取り敢えず、ルリアを探しに出るぞ」
     断る理由などどこにあろうか。ゼタとベアトリクスは顔を見合わせて無言で頷き合い、共に自らの得物を持って立ち上がった。



     アーク・ヴァレーはデピス湖を挟んだ向こう側、村からは南東に当たる位置に存在する自然豊かな渓谷である。デピス湖から森を経由して続く水路はやがて滝となり、飛沫を上げてアーク・ヴァレーの底へと流れ込んでいく。断崖絶壁は今や苔や樹木で覆われ、ところどころの剥き出しの岩が武骨な彩りを添える。
     覇空戦争時代に、偉大なる魔法使いが邪悪なる侵入者どもを相手に死闘を繰り広げたとされる場所で、大地に深く切り込んだこの谷は、かの魔法使いの偉業を称えるには十分すぎる程巨大であった――もっともこの手の話題は老人たちの間でまことしやかに伝わっているもので、真実かどうかは誰にも分からないのだが。
    「あそこ、か……」
     もうもうと上がる黒煙を追って村を飛び出し、はや半刻。
     息せき切って駆け込んできたセインの目の前に広がったのは、どこから沸いてきたのかと驚くほどの人だかりであった。それらの人々が口々に何かを言い、あるいは指さしながら、皆一様に興味深げに、黒煙の元を眺め遣っている。
    「いやぁ、凄い爆発だったねぇ」
    「ああ……あんなのが落ちてくるなんて……この世の終わりだぁ……くわばらくわばら」
    「おぅい、こっちからよく見えるぞ! ほら、早く!」
    「あーん、待ってよぉ……」
     人波の向こうから背伸びをする若者。おっかなびっくり覗き込んではきゃあきゃあ騒ぐ村娘。現場を一目見ようと足下をちょこまか走る子どもたち。集団から少し離れた場所、切り出した岩に座った老人たちは物見遊山なのだろう、昔話――恐らくかつての英雄譚とやら――に花を咲かせているようだ。
    「あの、……すみません、と、……通して、下さい……」
     その中を。
     人混みを掻き分けながらも、セインは、何とか前へ進もうとしていた。
     あの墜落から随分と経った。もしかしたら事態は既に収拾していて、あとは騒乱の余韻だけが存在するのかもしれない――そうは思っても、やはり、自分の目で確認しないことには落ち着かない。何がそんなにも自分を掻き立てるのかよく分からないままに、彼はひたすらに謝り、謝る先からぶつかりながらも喧騒の中を下へ、下へと降りていく。
     深部に近付くにつれ、焦げ臭い匂いが鼻先を過ぎる。さすがにそこまでの物好きはいないのだろう、さざめきは頭上に遠ざかり、人の数は徐々にまばらになり、特に老人や女子どもの類いはめっきりいなくなった。人々の集う緩やかな傾斜の原っぱを抜けて、ぽつぽつと樹木の立つ断崖へと差し掛かったとき、黒煙は更に下から展開していることに気付いた。
     落ちないように注意しながらもそうっと覗き込んだなら、ちょっとした台のような場所に、壁に突っ込んだまま停止している塊が見える。未だに黒煙を吐き続けているが、炎の類いは確認出来ない。空の青と、木々の緑と、せせらぎの音……穏やかな日常の風景にはおおよそ似つかわしくないものが、確かにそこに存在している。
     ――あと少しずれていたなら。
     ぞっと背筋が冷えた。
     ――谷底へ真っ逆さまだった。そうなれば、助かるものも助からなかった。
     あの場所であれば、多少回り道にはなろうが到達することは可能だ。現に筋骨隆々のドラフの面々が幾人か、何らかの道具を携えて列を為している。救助へ向かうための道を作っているのか、それとも、もう片付けて切り上げるところなのか……ともかく作業の邪魔をしてはならない、とセインは思った。僕は僕なりの道を見つけて、あの場所へ――墜落現場へ辿り着かなければ。
     そこへ。
    「おっ、……セインじゃないか」
     背後から掛かった、聞き覚えのある声。
    「麗しの我が弟よ、こんなところで何をしているんだ?」
     セインは、はっと後ろを振り向いた。そこに立つ、ひとりの青年の姿を認めた。癖のある翡翠色の髪を風に遊ばせ、その真紅の双眸を、不思議そうに瞬いている兄――キリエ・アリュシナオンの姿を。
    「兄さん……」セインは呟く。「兄さんこそ、……どうしてここに?」
    「おれは……まぁ、人出が必要だって言われたから、手伝いにな」事も無げに彼は言い、セインの隣に並んで手で庇を作り、下の方を見遣った。「しっかし偉いことになってんなぁ……本当に中に人がいるんだろうな?」
    「えっ」
     乗員が……まだ。セインは息を呑み、目を瞬く。
    「まだ、……確認されてないの?」
    「だから人出が要るんだろうな」キリエはあくまでも冷静だった。腕を組み、鷹揚に頷いた。「この断崖絶壁に救助用の足場を作るんだ、相当時間が掛かったんだろうよ……まぁ、つまり、ここからが本番ってやつだな」
     ところでお前は何をしに、と聞かれたが、セインの耳には最早、内容が入っていかなかった。何か適当なことを言った気がするがそこに意識はなかった。セインの視線はもうもうと上がる黒煙と鉄の塊に釘付けであり、その中に閉じ込められているであろう乗員に注がれていた。生きているのか、……死んでいるのか。それとも。
     ――助けなくては。
     そう思った。なんの疑いようもなく、自然に。
     ――他の誰でもなく、僕が。……助けなくては。
    「兄さん」
     だから。
     それじゃあな、と去りゆく兄の背中に声を掛けたのは自明の理であった。どうした、と肩越しに振り返るキリエの目を真っ直ぐに見据えたまま、こう、口を開いたのも。
    「僕も、行くよ」あんまり役に立たないかも知れないけどね、と苦笑しつつも先を続ける。「手伝う人数は多い方が良いと思うんだけど……どうかな」
     キリエは。
     当然のように、一瞬、躊躇った。ぱちぱちと目を瞬いた後、うーん、と唸って黙り込んだ。俯いた額に皺が寄っている。
     そりゃそうだ――セインは思った――昔からそうなのだ。兄は妙に過保護なところがあるのだ。自分は好き勝手やっているというのに、僕には許されないことが幾つもあった。危ないからやめておけ、そこはおれが何とかしよう、お前はただ黙ってそこにいるだけでいい……僕の両親が相次いで事故で亡くなり、孤児となってしまったがために気を遣われたのかも知れないけれど。
     なので、断られると思った。にべもなく突っぱねられると。お前は危険だから付いてくるなと、先に帰っていなさいと、諭されると思ったのだ。
     ……けれど。
    「おぅい、キリエ!」
     兄が口を開くよりも早く、だみ声が辺りに響き渡った。
    「ったく、どこで油売ってるんだ! 先に行くぞ!」
     キリエは勿論、セインも、はっと顔を上げて周囲を窺った。「デルフィズだ」キリエは渋い顔で肩を竦める。「取り敢えず戻らなくちゃ、……あいつ、機嫌が悪くなると手に負えないからなぁ」
     木立の向こうに巨躯の影が見えた。それから、立派な角も。おそらく、彼がキリエの言うデルフィズなのだろう。何度かキリエの名を呼び、どすどすと大地を踏みならしながらも、少しずつその影は、声は、遠くなっていく。キリエは苦笑し、セインの手を取る。
    「……仕方ない。行くか、我が弟よ」
    「うん」
     危ないと思ったらいつでも帰って良いからな――その言葉に、セインは大人しく頷いた。ここで意地を張っても仕方ないし、駄々をこねても意味がない。それに、キリエの優しさは心に染み入る。あの、兄が不在であった三年間に、ぽっかりと空いてしまった穴が少しずつ塞がっていくのを感じる。
    「有り難う、兄さん」
     無理を言ってごめんね。声にならない程の小声でそう言うと、セインは、キリエの手を静かに握り返した。二人は連れ立って、早々と歩き出した。
     やがて木立は途切れ、崖へと続く道は緩やかに下っていく。岸壁に沿って作られた急ごしらえの足場はぐらぐらと揺れて危なっかしいことこの上なかったが、ドラフならまだしも、小柄なセインとキリエであればさほど問題ではなかった。崖のあちこちから突き出した樹木や大きな岩を頼りに、またはあらかじめ設置されていたロープを伝って、少しずつ、少しずつではあるが、かの墜落現場へと近付いていく。
     焦げ付いた匂いが、一段と濃くなった。風向きの関係もあるのか、辺りは湧き上がる煙に包まれ、思わずむせ込みそうになる。
    「っ……」
     そうして漸く辿り着いた、その先。
     セインははっと息を呑み、キリエも眉根を寄せたまま、こいつは、と呟いて黙り込む。
     崖が壁だとするなら、そこは、壁に取り付けられた飾り棚のような場所であった。下草が生え、低木が茂り、手頃な広さがあるその場所は、普段であれば鳥や他の動物たちの絶好の休憩所であったのだろう。アーク・ヴァレーの底は未だ深く、台地の先端に立ってさえ、激しい川音が轟くばかりで本流は遠い。振り返れば断崖絶壁、こんなところにまで天敵が及ぶはずもない。
     しかし、今は。……今は、違う。
     鉄の塊はひしゃげて壁に半分ほど埋まり、その上に大きな岩が覆い被さり、周囲の草は焼け焦げて真っ黒になっている。追突の衝撃は如何ほどのものか、大地は抉れ、辺りには砕けた岩を始め、大小様々な金属片がばらまかれていた。既に数人のドラフが塊に取り付き、何とか引っ張りだそうとしているが、びくともしないらしい。辺りは騒然として、人々がひっきりなしに行き来している。
    「キリエ、こっちだ!」
     人だかりから声が上がった。顔を向けたなら、人の中から手が突き出し、こちらに――というかキリエに向けて大きく振られる。
    「お前さんの頭脳を貸してくれ。こいつァもうお手上げだ」
    「あぁ分かった、任せてくれ」
     キリエは頷き、人だかりに駆け寄った。残されたセインは暫くその場に待機していたが、兄が戻ってこないのが分かると、辺りをきょろきょろと見回しながら、恐る恐る鉄の塊に近寄った。距離を詰めると、肌に熱を感じ、産毛がチリチリと炙られるのを感じる。
    「おい、そこの小っこいの」
     その声は唐突に掛かった。何か出来ることはないかとあちこち巡っているときに、崖の際で唐突に呼び掛けられた。セインが顔を上げると、ロープを持ったドラフの男と目が合う。お前だ、お前、と手招きをされるので、小走りになってその傍へと向かう。
     男は汗だくだった。仕方あるまい。勢いが衰えたとはいえど、黒煙を上げる小型騎空艇がすぐ近くにあるのだ。見てみろと言わんばかりに顎をしゃくったその先、セインが視線を遣ると、何本もの骨組みが突き出した騎空艇の腹に、乗降口のようなものがあることに気付いた。ただ、……枠はひん曲がり、脇からは煙が漏れ出て、内部は相当酷いことになっているであろうことは想像に難くない。
    「俺たちじゃあどうにも埒が明かねぇ」
     そもそも手が届かねぇときたもンだ、と男はため息を吐き――回りの煙がゆらゆらと揺れた――バリバリと後頭部を掻く。
    「お前さんなら隙間に潜り込んで、あの突起にコイツを引っ掛けられるだろう。どうだい、やってくれねェか」
    「わかった」
     迷いなどなかった。セインは男からロープの先端を受け取り、すぐさまに、小型騎空艇と被さった大岩との隙間に入り込んだ。成る程、ヒューマンの子どもであるなら何ら問題ない場所でも、ドラフほどの巨体であれば難しいだろう。しかし、この場所はちょうど小型騎空艇の折れた片翼が太陽を遮るかたちとなる上に、立ちこめる煙で視界がやや覚束ない。セインは息を詰めながら精一杯手足を伸ばし、男のいう突起とやらを探し当てロープを引っ掛けようとする。もう少し、……あと少し……
    「あ!」
     掛かった。輪っかとなった場所が、綺麗に突起に滑り込んだ。セインは身を翻し、ロープを多少引っ張って、すぐに外れないことを確認する。
    「よォし!」男がすぐさまに叫んだ。「坊主、良くやった! お前ら、引くぞォ!」
     ぐ、とロープに力が入り、ミシ、と金属が軋む。セインもその最先端で、ロープを両手に握りしめて思い切り引っ張った。おそらく先ほどの突起は剥き出しの骨組みか何か、とにかく艇を破壊して乗員を救出する方向となったようだ。後ろを振り向くほどの余裕はないので分からないが、太い掛け声が何重にも連なりながら、背中の向こうから聞こえてくる。
    「それ、オーエス! オーエス!」
     その力強さたるや。ギ、ギと金属が軋み、たわみ、それに伴いセインの足も、身体も、徐々に後方に引き摺られていく。新たな隙間が出来たのだろう、真っ黒い断面から煙が漏れ始め、周囲を満たし始めた。
    「もう少しだぞ! オーエス! オーエス!」
     歯を食いしばり――セインは最早ロープに引っ掛かっているのみ――その先の音が、少しずつ大きく、激しくなっていく。墜落の衝撃で脆くなっているところへ、ドラフたちの渾身の張力が加わったのだ。耐えられるはずもない。
    「う、わッ……!」
     やがて耳をつんざく程の轟音を残し、セインは、後ろ側に大きく吹っ飛んだ。尻をしたたかに打ち付けるが、座り込んでばかりもいられない。もうもうたる黒煙の中に、低い呻きを聞いたのだ。後方で快哉を叫ぶドラフたちではなく、勿論、セイン本人でもない。だとすれば。
    「あ……」
     それは、セインの前方、ぱらぱらとこぼれ落ちる岩石と黒煙の中。
     騎空艇の残骸よりゆらりと零れだした墨染は、人の影を煙の向こうに描きながら、徐々に、徐々に、その輪郭を明らかにしていく。足取りはやはり覚束ず、時々大きくよろけるが転ぶには至らない。そりゃそうだ、あれだけの事故なのだ、五体満足でいられる方がおかしい……――
     風が吹いた。周囲の煙が一斉に払われ、かの墨染の主を暴き出す。
     青年、……あぁ、それは長身痩躯の青年だ。アッシュグレイの髪は半分ほど顔に掛かり、煤と血と泥でひどく汚れている。頭頂部の両脇に張り出した大きな獣耳は狼のようで、辺りの様子を探っているのか、横に広がって微かに揺れている。
    「医者だ!」誰かが声を上げた。「おい、誰か、医者を呼んでこい!」
     セインは動けなかった。動けるはずもなかった。へたり込んだまま、息を詰めて、ほとんど間近に迫った青年を見上げていた。
     その……彼の目が。視線が。
     ふと、こちらを見た。薄い青の瞳だった。デピス湖よりも遙かに薄い色素の瞳が、は、とセインを捕らえて大きく見開かれる。
    「……、グラン……?」
     掠れた声は喧騒に紛れ、届くこともない。けれど、一瞬だけ、その瞳に淡い色が灯るのを見た。笑ったのだ。
    「そう、か……無事で、良かっ……――」
     セインは動けない。動けるはずもない。
     しかし、彼の身体が大きく傾いだとき、弾かれたようにその場に立ち上がった――否、立ち上がろうとした。当然、急な脳からの指令に身体が追い付くはずもなく、長身痩躯の青年の身体を受け止めて支えられるほどの、しっかりとした体勢を取れるはずもない。
    「え、……ちょ……ッ!」
     再度尻から落ち、覆い被さってくる大きな影に殆ど押し潰されるようなかたちで、大地に勢いよく縫い止められた。ゴン、と後頭部を派手にぶつけるが、この状態で起き上がれるはずもない。生暖かい液体のようなものが肌に触れ、鉄錆と、硝煙の匂いが鼻先を過ぎって、ああ、この人、随分身体が熱いな……などと感じながらも。
    「おいっ、坊主! 大丈夫か!」
    「医者を呼べ、医者を! 早くしろ!」
     大勢の声と足音、そうして、……
     セインはふっと、その意識を手放した。
      
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    Replies from the creator

    ruicaonedrow

    DONE一幕一場(状況説明)
    KA-11.
     ここまで道が混んでいるなんて何時振りだろうと、ラモラックは思った。少なくとも、直近ではないことだけは確かだ。
     第一師団がブルグント地方で戦果を上げたときだったろうか。それとも、第三師団が見習いたちと共に近隣の盗賊団を壊滅させたときだったろうか。英雄ロットが不在の今、好機とばかりに攻め込んできた賊を、モルゴース率いる魔導師団が完膚なきまでに叩きのめしたときだったかもしれない。
     ああ、……あのときは本当にスカッとした。魔術の師匠たる賢女モルゴースの勇姿は勿論のこと、魔導師団と騎士団との一糸乱れぬ見事な波状攻撃。悲鳴を上げ、武器を放り投げ、這々の体で逃げていく奴らの情けない姿といったら! それと同時に、この国は前線基地ばりに、常に戦争と隣り合わせなのだと実感した。知識の上では理解していたものの、こうして目の当たりにするとみんなどうして仲良く出来ないのか不思議でならない。お腹が空いて気が立っているとかなのかなぁ。それなら、食べ物が沢山あるところが分けてあげたらいいのに。困っている人がいたら助けてあげて、食べ物も半分こしてあげる。それで一件落着だっていうのにさ!
    11028

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