KA-44.
謝ろうと思った。
変な雰囲気にしてしまったのも自分だし、変に意識して避けてしまったのも自分だ。ガウェインは何も悪くない。だから、自分のせいで不機嫌になっているのも分かっていて、……すごく申し訳なく思っていた。
今日なんて絶好の機会だったというのに、また逃してしまった。ファミリアをだしにすれば誘いに乗ってくると思ったし、実際にそうなったのだし、でも……失敗した。
「ガウェイン? まだ帰っていないけど?」
久しぶりに尋ねたロット邸、月光に照らされた立派な門扉の前、フロレンスは扉を開け放ったままそう応えた。何か言伝があれば伝えておくがと言われたが、ラモラックは慌てて断った。これは彼の目を見てちゃんと言わなきゃいけないから、他人が介入されては困る。じゃあ大丈夫です、ガウェインによろしく……へらりと笑ってロット邸を後にした。
――どこ行っちゃったんだろ。
はぁ、とため息を吐いて見上げた空は紺碧一色。墨を筆で塗りつけたような雲のまにまにまんまるの月がぽっかりと浮かんでいる。通りは家路を急ぐ人々でごった返していて、食堂から漂う香ばしい匂いが空腹を誘う。飲み会に繰り出す若い衆たちは、肩を組んで大声で歌い、上機嫌だ。
――明日でいいかなぁ……。
そういいながら既に何日も経過している。このまま彼と出会えなければ、このもやもやした気持ちも持ち越しになるのか。そんなことを思いつつ、ラモラックはとぼとぼと往来に紛れる。あちこちから聞こえる物売りの声も、楽しそうな話し声も、笑い声も、俯き歩くラモラックの耳には入らない。
――だって……
――吃驚したんだもん……。
葉っぱを取ってあげようとしたのは確かだ。ふわふわの金髪に絡まった銀杏の葉は、彼がパタパタと手で払ったところで全く落ちなかったのだから。けれど、からかってやろうと間近に呼んだのがそもそもの間違いだったと後に知る。
綺麗な翠の双眸だった。金糸の睫毛に縁取られ、絵物語に出てくる騎士のように力強く凛としている。初夏の緑の色だ、とラモラックはそのとき思った。芽生えたばかりの若葉の色。森の生命を感じる色。
至近距離で見つめ合い、まじまじと彼の顔に見入ってしまい……
見惚れていたと気付いたとき一気に頬に朱が注ぎ、でも相手も何故か真っ赤だった。何か気の利いた台詞でも言えれば良かったのにそのときに限って全然出てこず、気付けばガウェインは脱兎の如く逃げ出してしまった。ラモラックはひとり、弁明も許されず、その場にぽつんと残されて……
――笑い飛ばしてくれれば良かったのに。
――いつもみたいに、何してるんだって、馬鹿じゃないのかって、言ってくれれば。
「あぁもう……!」
今でも瞼を閉じれば蘇る鮮やかな色彩。彼の親しい友人たちは、あんなに間近で彼を見たことなどないだろう。人を惹きつけるほどに綺麗な色の瞳をしているなんて、誰も知らないのだ。
――誰も。
――僕以外は、誰も。
瞬間、ぞくぞくと背筋を這い上がったものの正体を考えるまでもない。ラモラックは往来の真ん中で足を止め、ぐるりを見渡した。きゅっと唇を引き結び、反対方向へと踵を巡らせて駆け出す。
このまま、ずっと。気まずいっていうのは絶対に嫌だ。
だって彼は僕の友達なんだ。ダルモアでの唯一の、親友なんだ。
フードを目深にかぶり直し、角灯を持ち替えてラモラックは急ぐ。ガウェインの居場所に心当たりがあるわけではないが、それでも、思い付いたところを総当たりしてみるしかない。大通りを抜けて路地裏に入り、街路樹の立ち並ぶ居住区を北上する。人通りがぐっと減って、街灯だけが淡い光を落とす中を、森へと向けて走っていく。
それは野外修練場の近く。モルゴースとフロレンスと、よく魔術の修行を行う場所。森を切り開いた広場は多少の広さがあり、ガウェインも剣の素振りなどの基礎練習を行う際はこの修行場を使っていると聞く。いつもは端に追い遣られている藁人形たちが、もっぱらの相手なのだと。
「……っ、はぁ、はぁ……」
いない、……か……。
修行場はしんと静まり返っている。シルエットになった森が風に騒ぎ、辺縁がざわざわと揺れている。虫の声だけが微かに響き渡る中で、ラモラックは額に滲んだ汗を拭いながら辺りを見回った。ガウェインの痕跡を、何としてでも見つけようと目を懲らす。
そのときだった。
背後の低木が、ガサリと揺れた。
魔物か、とラモラックが身構えるよりも早く、何かがまろび出てくる。角灯の届かない暗がりに飛び出してきた黒い影は、そのまま崩れ落ちそうになるが持ち直す。魔物……ではない。四肢がある。金属の触れ合う音がする。であるなら……あれは。
「ガウェイン……!」
ラモラックは慌てて駆け寄る。ガウェインらしき影は顔を上げる。
一体何があったというのだろう。角灯の仄かな灯りで照らしたのなら、金髪には蜘蛛の巣や葉っぱが引っ掛かり、身に纏った鎧は泥まみれだ。ふっくらとした頬には擦り傷があって、一部は血が滲んでいる。未だ落ち着かない呼吸を何度も繰り返して、肩が激しく上下している。
「お前、なんで……」
けれど、その目は。ラモラックを捕らえたあの翠の瞳は。
驚くほどに凛として、ラモラックを見つめている。
「なんで、って……」
一瞬言葉に詰まるものの、ようやくそれだけを返した。笑ってはみたもののどうだろうか。もしかしたら引き攣っていたかもしれない。
「君を、……捜しに来たんだけど?」
「……は?」
頓狂な声で応え、ガウェインはそれに相応しいぽかんとした表情をする。だがそれも一瞬で消え、彼は肩越しに後ろを、今自分が走ってきた方向を見遣った。ラモラックが角灯を掲げても、そこには真っ暗な闇が広がるばかりだが。
「一体、……どうしたの?」
「いや……」ガウェインは口ごもり、目を上げる。「取り敢えず、ここを離れるぞ」
「え?」
問う間もあらばこそ。後で話す、とぼそりと言い、ガウェインは通りすがりにラモラックの手を捕まえ大通りの方へと走り出した。いきおい、ラモラックは引っ張られるままに付いていくしかない。
――何かに、追われている?
ラモラックは肩越しに後ろを振り返るが、街灯が両脇を流れていくだけで気になるものはない。耳を澄ませたとてびゅうびゅう唸る風の音がするくらいで、人の叫び声や物音、追い掛けてくる足音などは届いてこない。
――でも、一体……何から?
怪訝そうに目を向けた銀色の背は、それでも、一心不乱に駆け走るばかり。ラモラックもきゅっと唇を結んで、置いて行かれないようにと懸命に足を運んだ。
必死の形相で街中を駆け抜けるふたりの少年に、多数の往来は無関心で応えた。ほとんどの人は、恐らく、無邪気なかけっこだと思うのだろう。もしかしたら約束や門限に間に合わず急いでいるのかもしれない、そう思うのだろう。行き交う人々は彼らに道を譲り、あるいは微笑ましく見送る。ぐっと冷え込む晩秋の夜気と街路の落ち葉だけが、彼らを取り巻き追い立てていく。
「ただいま!」
ロット邸に辿り着き、挨拶もそこそこにガウェインの部屋へ駆け込む。フロレンスらしき声が応えたのが分かったけれど、それだけだった。バタンと扉を閉め、ようやく手が離れたとき、ラモラックはその場にへたり込んでしまった。
全く! ガウェインは体力馬鹿だから良いけど、僕はそうでもないんだぞ! 加減しろよな!
そう言いたかったが、ぜぇぜぇはぁはぁと切れる息の下からはとても声が出せない。あれだけの長い距離、全速力で疾走するなどあまり経験がないのだ。心臓が爆発しそうに暴れて息苦しいし、足なんて棒みたいだ。これはもう、暫く動けそうにない。
対するガウェインは窓の脇にへばりつき、そうっと通りを覗いている。肩が上下しているがラモラックに比べれば微々たるものだ。その手でシャッとカーテンを引き、そのまま勢いよくベッドに腰を下ろした。体重を受け、ギッとスプリングが呻く。
「……カサンドラを見た」
そうして、しばし。
不意にガウェインは口を開く。
「え?」ラモラックは、手持ち無沙汰に指を組み替えるガウェインを見る。「どこで……?」
「修行場の近くの森だ。覚えているか? ファミリアが飛び出していった、あの廃墟にいたんだ」
そのときラモラックの脳裏を過ぎったのは、青く光る、不思議な地下洞窟だった。地底湖、カルカンサイト、……月光に満ちた世界に立つ、赤い髪の魔女カサンドラ。
ああ良かった、あの洞窟と一緒にぺっちゃんこになっていなかったんだ。何とか逃げおおせたんだな。それか、意外と洞窟も無事だったのかも。
けれど、ガウェインの顔は浮かない。少なくとも彼女の無事を喜んでいるようには見えない。ラモラックはただ、そう、とだけ返して続きを促す。
「それで、カサンドラは何かと会っていたようだけど……」
ガウェインはそこまでを言って一旦言葉を切る。言っていいのかどうか、迷っているようだった。ラモラックが視線を寄越す先で、彼はふぅっと息を吐き顔を上げた。
「ファミリアなんだ」
「え……?」
「カサンドラはファミリアと会っていた。……あいつらは何か関係があるんだ」
ガウェインは、堰を切ったように話し出した。
修行場で剣の素振りをしていたらファミリアが通りかかったこと。何となく気になって追い掛けたこと。そうしたら件の廃墟に辿り着き、カサンドラが現れた。カサンドラはファミリアと向かい合い、飛んで火に入る夏の虫だな、と笑っていた。
ひとりと一匹はそのあとも何かを話していたようだが、ガウェインからは距離も遠くよく聞こえなかった。そもそも、手近の木の幹に隠れていたから気が気では無かったのだろう。ただ断片的に聞こえてきた台詞から、彼らは決して友好的な関係ではなさそうだと思ったそうだ。そこで、もう少しちゃんと聞こえないかと身を乗り出した途端、足下で枝が折れた――
「成る程、ね……」
でも、とラモラックは思う。別に逃げなくても良かったんじゃないか。
ファミリアは言わずもがな、カサンドラだって、あの潰れそうだった洞窟からちゃんと逃がしてくれたじゃないか。言葉が通じないわけでもなし、きちんと会話できそうなものだけどな。そもそも、モルゴース師匠の知り合いだって言ってたし……。
すると。
「ふたりとも!」戸の向こうから、声が聞こえた。「ご飯出来たって!」
「あ……」
もうそんな時間か。腰を浮かせかけたラモラックだったが、瞬間、漂ってきた良い匂いに腹の虫が大音量で鳴きだした。はっと動作を中断させ、思わずガウェインを見遣ると、彼は苦笑いを浮かべている。
「何だ、飯、まだだったのか」
「仕方ないだろ」君を捜すのに夢中だった、なんて言わないし言えない。その代わりに、ラモラックは唇を尖らせる。「そもそも、勝手にいなくなる方が悪いんだからさ」
「出掛けるのに、お前の許可が必要なのかよ」
「そうしてくれると有り難いけどね」
「よく言うよ」ガウェインは呆れたように肩を竦めた。「行方不明になるのはお前の専売特許だろ」
「ふん、僕はちゃんと弁えているもんね、誰かさんと違って」
「はん、そんなこと言いながら大捜索されていたのはどこの誰だったっけ?」
「何だって!」
「何だよ!」
ああ、ああ! 何て懐かしい軽口の応酬だろう!
ふたりは暫く睨み合うが、次の一手を繰り出す前に顔を見合わせ、ほとんど同時に吹き出す。けらけらと腹を抱えて笑っては、目尻に浮いた涙を拭う。
「食っていけばいい。料理が無駄になったら勿体ないし、何より、母さんも姉さんも喜ぶ」
「うん、お言葉に甘えて、そうさせてもらうね」
それでいい、とばかりにガウェインは頷き、ラモラックを置いて先に部屋を出る。しかし、扉に手を掛けたところで急に踵を返した。
思わず立ち止まり、どうしたのかと首を傾げるラモラックの手前。
彼は、あー、とか、その、とか何とかぼそぼそ言って後頭部を掻いている。視線が完全に泳いでいる、とラモラックは感じた。ガウェインにしては珍しい。
「……その」そうして、ぼそりと聞こえた声。「今日、泊まっていくよな」
「へ……?」
目を瞬くラモラック。
ガウェインは、けれど、返事も待たずにさっさと廊下に出てしまう。暗がりにぼうっと見える銀の鎧はずんずんと肩を怒らせて進んでいく。
「もうっ、ガウェインくんったら……」
でも、何となく、嬉しい。
むずむずと湧き上がる喜びのままに、ラモラックもまたうきうきと背中を追い掛ける。
「しょうがないなぁ、そんなに寂しいなら、この僕が一緒に寝てあげるからね!」
……ごめんね。それと、有り難う。
そう、小さく呟いて。
久方ぶりに皆で食卓を囲み、ラモラックは終始上機嫌だった。自分の好物ばかりが並んでいたからかもしれない。寮で提供される味気ないものとは違い、モルゴース手製の料理は本当にご馳走ばかりだ。こればかりは、ウェールズで出される豪華絢爛な食事にも引けを取らないと思っている。
「あー、ちょっとガウェイン! それ、僕の肉!」
「何だよ、だったら早めに皿に確保しておけよ! 全く、とろいんだから」
「言ったな! じゃあ勝負しようじゃないか、どっちが早く師匠の料理を平らげられるか……」
そんなふたりのいつもの遣り取りを、フロレンスは半ば呆れつつ、モルゴースはにこにこと見守っている。育ち盛りの男子ふたりともなれば、卓上に所狭しと並べられた大皿料理でさえあっという間に空っぽだ。元気の良い「ご馳走様でした」が唱和されるまでにさほど時間は必要ない。
洗い場で片付けを手伝い、先を競いながらも交代で風呂に入り、満ち足りた気分で広間を通ると仄かな甘い香りが鼻先を過ぎった。何だろうと覗き込んだなら、角灯だけが淡い光を放つ広間で、ガウェインはひとり窓際のソファに座り、静かにカップを傾けている。
いつもはふわふわの金髪がしっとりと濡れて何か別人のようだ。月光が照らす横顔は彫刻めいて、通りを見下ろす翠の瞳は凛として一際美しい。父親似である悪友は、あと数年もすれば立派な美丈夫へと成長することだろう。それこそ、玄関口の色褪せた写真の中で笑っていた、英雄ロットのように。
ラモラックは瞬きをすることも呼吸すらも忘れ、この光景にしばし眺め入っていた。髪から落ちる水滴が首筋を伝っても尚、その場から動くことが出来なかった。
「……何だよ」
不意に声を掛けられ、はっと我に返る。
通りを見遣っていた双眸は今やラモラックに向けられている。怪訝そうに細められながら、それでも真っ直ぐに。
「な、何でもないよ」慌ててへらりと笑い、パタパタと手を振る。「それより、何飲んでるの。いいなぁ、僕にも頂戴」
――こんな姿だって、きっと、彼の友人たちは誰も知らない。
――風呂上がりにくつろぐ彼を見る機会など、恐らく、無いから。
「ホットミルク」事も無げにガウェインは言う。「厨房に行けば、まだあるんじゃないか」
ホットミルクか。
何時だったか、全然寝付けなかった真夜中、ガウェインが持ってきてくれたことがある。モルゴース直伝のホットミルクは温めた牛乳に蜂蜜をひとさじ、隠し味として入れるらしく、仄かな甘みと温かさが気持ちよく、その夜はすぐに寝入ってしまったんだっけ。
そういえばあのときも、ガウェインは何だかんだと文句を言いながらもずっと傍にいてくれた。朝目覚めたとき、背中合わせで寝たはずなのになんで彼の腕の中にいるんだろうと不思議で仕方なかったが、揺り起こしてまで聞くのは何だか無粋な気がしてやめたのだ。
ガウェインはその日、鍛錬に遅刻してピート団長に大目玉を食らったらしい。
「じゃあ、頂いてこようかな」
「ああ」
短い会話を交わし、ふたりは一旦別れる。ラモラックは厨房へとおもむき、コンロの上に乗った小鍋を覗き込んだ。鍋底を覆った液体は表面に薄い膜を纏って、角灯の明かりに浮かび上がっている。鍋に触るとまだ、ほんのりと温かい。
傍らに置かれていたのは蜂蜜の瓶だ。モルゴースの教えに従うのならひとさじ、けれど、今このときは好きなだけ入れても良いのだと、ラモラックは解釈した。マグカップを取り出して注いだのなら本当にぴったり一人分で驚いた。自分が風呂に入っている間に準備してくれていたのか? 一緒に飲もうと思って……?
ふつふつと湧き上がる気持ちが抑えられない。胸の中にふわりと広がった温かさに浸る間もなく、ラモラックは急ぎ足で厨房を出て行く。片手に、未だ温度の残るホットミルクを携えて。
――僕だけが知っていること、もうひとつある。
――彼は、優しいんだ。少し、……ううん、とっても!
けれど、感謝を素直に口に出すには勇気が要った。なので、ラモラックは広間へと至る前に一旦深呼吸をする。何事もなかったかのように表情筋を引き締めながら、極力平静を装って登場する。
近付く気配に、ガウェインは顔を上げた。自然な動作でソファの端へと寄る。ラモラックはわざと大股に歩き、カップから飲み物が零れないように細心の注意を払いながらも、空いた場所にそのまま腰を下ろした。鷹揚にホットミルクに口を付ける。
ガウェインの隣。それこそ、互いの温度を感じられる距離。
二人掛けのソファは大人用だから、少年がそれぞれ端に座ったところで触れることはない。だが、ラモラックは敢えて彼の隣を狙い、敢えて肌が触れそうな距離で座った。ガウェインがちらりと横目で見てくるが構わなかった。
「あー、美味しい!」
たっぷりと入れた蜂蜜は風味付けというには大分甘かったけれど、ラモラックは満足げに微笑んでガウェインに寄り掛かった。靴を脱ぎ捨て両足をソファの上に持ち上げ、自身の傍にぎゅっと寄せる。ソファの上に三角座りだなんて行儀が悪いと怒られそうだが、背中全体で感じるガウェインの体温は本当に気持ちいいのだ。
「そりゃ良かったな」
呆れたように言う癖に、特に邪険にする様子はない。石けんの匂いを互いに纏わせたまま、ふたりの少年はしばらく黙ってホットミルクを啜った。
月の見事な夜だ。
大きく取られた窓からは、紺碧の空と輝く星々が見える。虫たちの輪唱のまにまに、ぼそぼそと話し声が聞こえる。大方、モルゴースとフロレンスがハーブティでも嗜みながら語り合っているのだろう。時折小さく笑い声が上がる。
少年たちはどちらも話し出すことはなかった。かといって気まずさを感じることもなかった。ラモラックは手に持ったマグカップを静かに傾けながら、漂う沈黙すらも心地よく感じていた。
「……ん……」
だからだろうか。
ついうつらうつらと舟を漕ぎ、頭ががくりと崩れそうになる反動で目を醒ました。マグカップは両手で握っていたため無事だったが、その温度は掌と同化してしまっている。
知らず全体重を掛けてしまっていたのか、ガウェインが肩越しに振り向いた。
「おい」不服そうだ。「ここで寝るな。風邪を引くだろ」
「……ふぁい……」
くあ、と欠伸をかみ殺し、目を擦る。しかし、疲れ切った身体に忍び寄る眠気は、これしきでは遠ざかったりしない。
ガウェインのため息が聞こえた。
「仕方のない奴だな……」
両手で抱えていたマグカップの重みがふわ、と消えた。
取り上げられたのか、落とす前で良かった、と思う間に、今度は自分の身体がふわりと浮く。あれ、とラモラックは思った。殆ど夢うつつだ。だけど、身体は反射的に手を伸ばして誰かの温度にしがみついた。
「んん……」
自分の膝の裏、そうして背中に、誰かの手が当たっている。どうやら抱き上げられて運ばれているようだが、目を開けて確認するまでの気力は無い。
まぁ、ガウェインなら余裕か……。
そんな風に思った。何せ脳筋だから。僕を持ち上げるなんて朝飯前だ。
ただし、扱いは本当に酷かった。自室に戻ってきたのだろう、一旦動きが停止し、彼は物を放り投げるかの如くラモラックを放った。ちょうどベッドの上であったのか、スプリングが軋んで全身が軽くバウンドする。
うう……、とラモラックは呻いた。抗議の呻きだ。言い合いをするには元気が足りない。
ひんやりとした夜気は部屋の底に溜まって、ひたひたと足下から押し寄せてくる。湯上がりの体温は程よく冷め切って、このままでは本当に風邪を引いてしまうかも知れない。ラモラックは眠気に引き込まれつつも何とか抗って、足下に丸まった掛布を引っ張った。そのままごろんと仰向けに寝転がる。むにゃむにゃと幸せそうに口元を緩めつつ。
「……ガウェイン……」
寝入り端のとろんとした意識のまま、呼び掛ける。
「何だよ」
その声は意外と近くから聞こえた。ラモラックに倣って横になっているのか、それとも端に腰掛けて見下ろしているのか、目を瞑っているラモラックには分からない。
分からない、……けど。
「好きだよ……」
「……は?」
「大好き……」
つい、……
ぽろっと零れた言葉を取り消すなんて出来なかった。ガウェインの声はそれきり聞こえなくなった。しかし、気配はずっと傍に在る。どこにも行かずに。行こうともせずに。
不意に、口元を何らかの感触がすいとなぞった。少しだけ震えるそれは細長くて、指なんだろうな、と何となく思った。仄かな夜気の中に、そこだけが熱を持っている。
「……あのなぁ」
今度の声も、意外と近くから聞こえた。吐息を頬に感じるほどに。
「どうしてお前はそう、……いつも……」
あれ、と思った。珍しい。今までに聞いたことのないような優しい声だ。
そう思ったのも束の間、急にまなうらが翳る。
そうして……
接触したのは、ほんの一瞬。もしかしたら、小鳥が餌をついばむよりも短かったかも知れない。
でも確かに唇が触れ合った。柔らかな感触と、温度だけが残る。
――あ、……れ……?
けれど、最早眠気の限界だった。
ガウェインが勢いよく顔を上げたのだろう、息を呑む音と同時に多少の風が頬を撫で、次いで、バタバタと派手な足音が遠ざかっていく。
すぐにもの凄い音が後を追い、痛ッ! と叫ぶ声が遠くに聞こえる。
ちょっと、今の何……えっ、何してるのよガウェイン、どこか打ったの――
ラモラックの朦朧とした意識はそこで、ずるりと眠りの海に引きずり込まれていった。
ちょうど同じ頃――
メルライム・アーチェスは焦っていた。ほとんど駆け足になりながら、寄宿舎へと続く道を急いでいる。日はとっぷりと暮れ、月だけが煌々と照らす街路には人っ子ひとり見当たらない。界隈を渡る冷えた風が、裸の梢を騒がせているだけである。
旧友に会ったのは全くの偶然だった。見聞を広めるために諸国を巡っていたという彼女は、豊穣祭に合わせて帰郷したそうだ。それならばと近くの喫茶店に場所を移し、積もりに積もった話を少しずつ解消しては盛り上がり、気付けば外は真っ暗闇である。港近くに宿を取ったという彼女を名残惜しげに送り出し、そうして今、メルライムは寄宿舎へと走っている。
見習いゆえ軍というほど規律がしっかりしている訳では無いが、門限はちゃんと存在する。少しでも遅れてしまえば閉め出しだ。ここダルモアの晩秋は気温の高低差が激しく、こと今の時分に於いては生死を分けるといっても過言ではない。時間を気にしておけば良かった、とメルライムは思ったが時既に遅し。後悔先に立たずというやつだ。
間に合うか、否か。
緩やかな上り坂の先、目指す寄宿舎は紺碧を背景に影絵のように浮かび上がる。正門付近、門扉の両側にはいかめしい顔つきをした獅子の像があり、ぶら下がった角灯の明かりがごつい輪郭を橙色に照らしている。
――角灯が消えていないということは、間に合った……のかしら?
一瞬喜びに緩む歩度を、メルライムはハッと戒めた。いや、まだだ。ちゃんとこの目で見ないことには、間に合ったかどうかなど分からない。第一、ここで油断してギリギリで締め出されたのなら、本末転倒もいいところじゃないの。
巨大な建物がぐんぐん近付いてくる。薄青い世界の中に門扉の種々の細かな装飾がようやく確認出来る頃、メルライムは大きく息を吐いて足を止めた。全速力とは言わないまでも結構な距離を走ってきたので、当然息は切れるし身体は重い。その上、殆ど目と鼻の先まで迫った門扉が、それこそ一匹の鼠も通さぬまでにぴたりと閉じられてしまっては……最早崩れ落ちるしかなかった。
――駄目だったかぁ……。
優良な生徒であれば諦めたところだろう。反省文という名のレポートが多少増えたところで命には代えられまいと、急いで魔導師団の本部へ向かうはずだ。
けれど、メルライムはその限りではない。
落胆さえしたが、次の瞬間には頭を切り替え、どうやって中に忍び込もうかを考えている。警邏の騎士に見つからず、かつ一般の人からも不審に思われないように、スマートに入り込むには……――
「ん……?」
そんなことを思いながらぐるりを見回った目が、とある箇所でふっと留まった。
寄宿舎を囲む生け垣の向こう側を、何らかの影が横切っていった。猫や犬とは明らかに違う細長いシルエット。夜盗、あるいは賊かとも思ったが、それにしてはあまりにも小柄すぎる。
――あれは……ラモラック?
隣国フェードラッヘから仕官に来たという次期王位継承者候補の少年は、賢女モルゴースから直々に指導を受けていると聞く。モルゴースの息子ガウェインとも仲が良く、いつもふたりでつるんでいるのを見掛ける。人当たりは良いがかなりのいたずらっ子で、自由奔放な性格から他の教師陣は手を焼いているとか、何とか。
――でも、こんな時間に何故……?
深く考えている間はない。メルライムは足を踏み換え、すぐに彼の後を追い掛けた。こんな時間に何をしているのか気になるし、彼ほどの問題児であればどこか抜け道を知っているのではないかと思った。呼び止めるにはあまりにも離れすぎているし、そもそも自分を知っているかも怪しい。
――そうか……。
走りながら、メルライムは気付いた。
寄宿舎の裏には豊かな森が広がっている。木々が鬱蒼と生い茂り、太陽の下でも薄暗く、近付く者はほとんどいない。夜ともなれば尚更だ。紺碧の空に浮かび上がる森は、辺縁がざわざわと蠢いて巨大な生き物のようだから。
――このまま生け垣を回り込んだなら、ちょうど森へと抜けることになるわ。
おあつらえ向きに寄宿舎の端には小さな庭園があり、しかも一部は森に繋がっている。危険を承知で進むのなら、ちょうど炭焼き小屋の裏側に辿り着くはずだ。
迷わなければ、の話になるが。
――成る程……覚えておかなきゃ。
ラモラックもまた、何らかの用事があって門限を過ぎてしまったのだろう。だからこの抜け道を使って寄宿舎に入り込もうとしているのだ。メルライムはそう結論づけて、先を走る少年の背を追った。
舗装された路面はやがて、ざくざくとした土の感触に変わる。周囲の風景は徐々に森に飲まれ、それでも、目の前をゆくラモラックの足取りには迷いが全くない。メルライムは頭の中で周辺の地図を描き、自分の位置を確認しながら追い掛ける。こんなところで迷ってしまっては笑えない。
「……あれ?」
その歩度がふと緩んだのは、ちょうど中庭に接すると思われる灌木の茂みに到達したときである。建物の方角へ向いたのなら、月光に照らされるガゼボが遠くに見える。それから、崩れ落ちそうなほどボロボロな炭焼き小屋も。
けれどラモラックは更に森の深部へと進んでいるようだ。ガサガサと草を掻き分ける音が遠ざかっていく。追おうとして、けれど、メルライムは立ち止まった。そもそもラモラック自身がどこへ行こうと自分には関係ないじゃないか。この灌木を抜けるのが一番の近道だ。それ以外にどこか、安全なルートがあるというのだろうか。それとも、他の用事があるのか。
――まぁ、こんな抜け穴を教えて貰っただけでも、感謝しておくべきよね。
そう思い、ひとつ頷き、ローブの裾を捲って灌木を越えようとした、まさにその時。
「良い選択をしたね」
不意に響いた声に、メルライムはドキリとして動作を止めた。まさに今、右足を振り上げたそのままで固まった。嫌な汗が滲んでくる。
――嘘、見つかった? でも、なんで?
だって、周囲には誰もいなかった。何の気配もなかったじゃないか。
――高位の魔導師はもしかして、気配すらも消せるものなの?
いや、待て。落ち着け。メルライムはそろそろと足を下ろし、ふーっと大きく息を吐く。この声の主が魔導師団の関係者と決まった訳じゃないし、そもそも、誰に話し掛けたのかも分からない。森を吹き抜ける風を、空耳として感じたのかも……
「いいかい、少女よ」
しかし、声は響いた。今度こそはっきりと聞こえた。
メルライムは見開いた目を何度か瞬く。
これは間違いなく……自分に向かって話し掛けている。
「このまま真っ直ぐに進みなさい。灌木を越えれば、誰にも見つからずに部屋まで戻れる」
声は後ろからのようだ。近いようでもあるし遠いようでもある、不思議な響きだ。
「それから、……今日見たことは誰にも言わないようにね」
「ッ、……あの!」
メルライムはバッと振り返る。その先に、森に溶け込むように佇む影を見る。
すらりとした長身の女性であった。
ワンレングスの赤い髪は月光の中にも輝いて見える。年の頃なら二十もそこら。豊満な肢体を包むのはマーメイドラインのドレスであり、深いスリットからは真っ白な太股が覗いている。胸元も大きく切り込んで、異性であれば目のやり場に困ってしまうほどだ。
メルライムは始め、息を呑んだ。
こんなに目立つ恰好の女が傍にいたのなら、気付かない方が無理がある。そう思うだけの唐突さで彼女は現れたのだ。まるで暗殺者のように。
そして、もうひとつ。
ダルモアの子どもたちにだけ伝わる話があり、その中に出てくる魔女とやらに容姿がそっくりなのだ。赤い髪に金色の瞳。森の奥深くに住み、とんでもない美人ではあるが、その実悪いことをした子どもを攫ってしまう恐ろしい魔女なのだと。
その魔女の名が、確か――
「カサンドラ……様?」
おや、と女は片眉を上げた。けれど、それだけだった。
薄く笑った顔は崩れることもなく、切れ長の目はメルライムをじっと見つめている。
「早く行きなさい、少女よ。……手遅れになる前にね」
「それって……――」
みなまで言うことが出来ただろうか。
背中を押される感覚があって、わ、と悲鳴を上げたのまでは覚えている。そのいきおいで身体が傾いて、転けまいと前に出た足がそのまま踏み出した。灌木を越え、森を抜け、……中庭のガゼボにまで辿り着いたとき、メルライムは再度、息を呑む。
「何、これ……」声が、完全に掠れていた。「一体、何がどうなって……?」
中庭の端。
ああ、そうだ。そこには確かに炭焼き小屋があったのだ。建て付けが悪く、今では物置としてしか使われていない、ボロボロの小屋がそこにあるはずだった。
けれど、今は――
大きな、青い鉱石があった。中庭の一角、かつて炭焼き小屋があった場所のあちこちから生えていた。月の光を集め結晶にしてばらまいたように、辺りはぼんやりと青白い。
「夢でも、見てるの……?」
メルライムは、キラキラと輝く鉱石を前にして、暫くその場を動けなかった。