"お母さま どうして僕には角があるのですか"
それは特別だから。――には皆を守れる強い力があるのよ。
"お父さま どうしてお母さまはいなくなってしまったのですか"
人間は私達より長くは生きられないんだ。だけど私達にはない強い心を持っている。
"どうして人が恋しいと 口にしたいと 思うのだろう"
お前は怪物だからだ。父親のような鬼にはなれない。どこかに消えてしまえばいい。
"これ以上人を食べたくない どうして人はここへやってくるのだろう"
罪を犯した者、生きるに値しない者。それを世から消してやるのがお前の存在価値だ。
"どうして 俺は 生きているのだろう"
ああ、自分の名前は何だったか。薄暗い洞窟の奥、今日も送られてきた罪人の血を啜りながら、もう掠れて消えゆく名前に縋り付く。
思い出せるのは今まで喰らってきた人間達の混ざった記憶。負の側面に偏ったそれは、決して気分の良いものではない。
気が遠くなるほどの昔、欲望を抑えきれずに人を襲った自分は、人々に恐れられ、寄り付かれることはなくなった。
代わりにやってきたのは、人間の負を押し付けられ、消す役目。
自分にはふさわしい役目だ。罪を喰い、世を浄化する。
人が落ちる音。また罪人が捨てられたのだろう。
何でもここは人々から人喰孔と呼ばれていると、前に喰った罪人が呟いていた。
落ちてきたのは子持ちの母親。腹の中に身籠っているようだ。
「鬼様は思っていたより小さいのですね。」
…人々は皆自分を見て恐れたものだから苦しませないうちに喰ってしまおうと思ったのだが。
驚いた。俺を見て、しかも小さいと。
「何故ここに?」
聞けば飢えに耐えかねて露天の飯を盗んだそうだ。たかが盗み一つでここに送られてきたのも疑問だが、この女性をよく思わないと思った人間が圧をかけたのだろう。
「どうか一思いに食べてください。」
正直に言えばもう飢えなど感じていないし、食べる必要性もないが、食べなければ人々は自分を殺しにやってくるだろう。
反撃すればいいと思うかもしれない。でも自分はそんなことはしたくなかった。父と同じように、優しかった母のように、人間と共に暮らしたい。
「取引をしたい。貴方を逃がす代わりに、このことは秘密にして欲しい。」
それから何をしたか。女性から外のことをいくつか聞いて、姿を変えるまじないをかけて追い出し
た。自分には、未来を抱えたこの女性を食べることなど、できなかった。
―
いくつか時が過ぎた頃。一人の女性が小さな子供を連れてやってきた。
「鬼様。貴方様のお陰で子を産むことができたのです。」
ああ良かった。無事に子を産んだようだ。女性に抱えられ、布に包まれた赤子は自分の指で触れば裂けてしまいそうで。
「見えている。とても可愛らしいな。」
「本当に、ありがとうございました。」
膝をついて謝ろうとする女性を、そっとなだめる。
「どうかお顔を見せてはくれませんか。命の恩人様のお顔を覚えておきたいのです。あの時はよく見えませんでしたから。」
もう随分と人に姿を晒していなかったし、きっと恐ろしい化け物として目に映るに違いない。
「しかし―」
「皆が貴方様を恐ろしい化け物のように言いますが私はそうは思わないのです。どうか、お願いします。我が子も望んでいるに違いないでしょう。」
ここまで頼まれては、否定はできなかった。自分の夢への一歩が目の前にあるような気がした、というのもあるかもしれない。
…まあ、数年ぶりに外の空気を吸うのも悪くはない。ほんの少しだけ。ほんの少しだけ、日を浴びるとしよう。
「―ああ。何と美しい…雪のように白く―名付けるならば…」
燕雪。ああ。ようやく思い出した。
遠い昔母が名付けてくれた名前。何故この女性が同じ名を呟いたのかわからないが、おかげで奥に沈みかけていた記憶が、微かに浮き上がってくるのを感じる。
吹雪の日、真っ白な産毛を纏って生まれ、後に罪を犯した鬼。
――
早朝、村の方から叫び声がして目が覚める。
ガレマール帝国の侵攻だった。こんな辺鄙な村にまで帝国は手を伸ばすのか、と思ったが、どこまでも大地を踏み鳴らさないと気が済まないのだろう。
…自分は何もできない。何より老齢とはいえ父がいるのだから村は無事に違いない。
違いないのだが。
なぜ村から血の匂いが漂うのか。
気づけば足が村に向かっていた。父とあの女性が心配で確認せずにはいられなかった。
目に写った光景は―
父が無惨にも殺された跡…
殺された…?
その時、自分の中の何かが切れる音がして、あの日と同じ感覚が蘇る。
罪を犯してしまったあの日。吹雪の夜。
自分の中の全てが抑えきれずに溢れ出ていく。
長年蓄え続けてきた力は、否応なしに周囲を凍ててつかせていき、自分の意識もあるのかどうかわからない。
ただひたすらに帝国の人間を屠り、喰らい、潰す。怒りに吠え、砲弾が胸を貫こうが、炎が身を焼こうが、どうでもよかった。
ただひたすらに護りたいと。
あの人間が生きた、この地を。
―
目が覚めた。
体に力が入らず辺りを見渡せば、誰かの家の中のようだった。
温かい囲炉裏に煮えた鍋。
「鬼様。目覚めたのですね。」
「帝国は…どうなった?」
「それがですね、長い話になりますが…。」
彼が話すには突如吹雪が起こったかと思えば帝国の軍勢を飲み込んで何もかも凍てつかせたという。
その吹雪がまるで鬼のように見えたから、きっと帝国が人喰孔の鬼の眠りを妨げ、怒りを買ったに違いないと村中で騒ぎになっている…らしい。
村も少し被害を受けたが、村の人間が凍え死ぬことはなく、寧ろ守られたとか。
初めてと言うべきかようやくと言うべきか。
自分の力が"護る"ことに使えたこと。
…ここにはもう長居できない。
外には自分の知らない脅威がいる。この力を更に役立てることができるなら、いや、制御できるようになるのなら。学ぶ必要があるだろう。
もし今後人々が鬼を崇め奉る事になったらどう振る舞えば良いのかわからない。
力は使い切ってしまったから、暫くは人目を避けて襲われないようにしなければならないし、目立つ真似はしたくない。
それに…いつまたあの"欲"に襲われるかもわからない。
(筆が進まないからここまでにするだす、許してほしいだす)