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『行きは良い良い帰りは怖い……』
夢を見ていた。母の夢だ。母の声はすう、とよく通る美しい声で、それが三味線の力強い伸びやかな音とよく合った、らしい。詳しくは知らない。尾形が生まれてから母は芸者を辞めたので、彼女が実際に座敷に上がっているところは見たことがなかった。
母はそれなりに名の売れた芸妓だった。ある男と恋に堕ちて、愛を信じたまま尾形を身籠った。そうして、現実をまざまざと突きつけられた母は。
『ちっと通して下しゃんせ、御用のない者通しゃせぬ……』
初夏の午後。重いランドセル。赤い水。ポタリポタリ、と、ひたすらに零れ落ちる水滴。ベルトに包まれた生白い頸。祝福されていたはずの、自分。
また遠くで母が歌う。
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