「お兄さん!」
「どうした」
穏やかな世界の中、ひときわ明るい声が響く。晴れ渡る空の下、古びれた洋館の庭。絵画が切り取られたかのような世界で安楽椅子にゆらゆらと読書に勤しんでいた燐音は、声の方向へと顔を向けた。
「よっと!」
「うわっ」
燐音のそばにテーブルがドスンと置かれる。笑顔で「ちょっと待っててくださいね!」と言い放った灰色の髪の男は、忙しそうに洋館へと戻っていった。燐音は読んでいた本に栞を挟み、テーブルへと載せた。そのまましばらく待っていると、今度は両手でトレイを持って、ゆっくりと歩いてくる。そこにはティーカップとケーキが載せられていて、漂ってくる焼きたての香ばしい香りに、燐音は思わず笑みを零した。
「いい香りだな」
「焼きたてのガレット・デ・ロワっすよ!」
そう言って男はにこにこと燐音へサーブした。ティーカップに注がれる紅茶がまた良い香りだ。ありがとうと一言お礼を言ってから、燐音はフォークを手に持った。
さくりとケーキを一欠片。口に入れればアーモンドクリームの濃厚な味に、またひとつ腕を上げたなと燐音は評価した。
「美味しい」
「ほんと?」
「本当だよ。また腕を上げたな、ニキ」
「やった、嬉しい」
トレイを持ってにこにこと笑う男は、しかし本物のニキではない。燐音はその無邪気な笑顔に答えながら、もう一口と口へ入れた。ニキは改善した点について饒舌に話している。見た目は立派な青年そのものだが、歳はわずか3歳。そのアンバランスな生態は、クローン特有のものだ。燐音は紅茶を一口含んで、戦場へと向かった己のクローンを思い出した。
燐音がこの二体のクローンと生活することになったのは、奇妙な縁からだった。自身が最後に愛機に跨った日。重傷を負って落ちたこの星は、『死の星』と呼ばれアイドルたちから忌み嫌われていた。宇宙空間において、この星が異様な重力に包まれているために、近寄れば逃げられないからだ。その無慈悲な力に、どれだけの勢力がのまれていったことか。いつしか様々な機体の墓場となったこの星に、燐音もまた自身の命を散らそうとしていた。しかし現実は違った。愛機は燐音の命を守りあげ、そして一人の男が燐音を見つけたのだ。その男は長らくこの星に住んでいると言い、燐音の治療を勝手に始めた。そして身の回りの世話用に、と一体のクローンを差し出した。それが、燐音のペンダントから拝借したというDNAから作り上げられたニキだった。
医療技術としてクローン人間を作るようになったのは、アイドルの世界に戦闘機が登場してからだ。散りゆくアイドルの命を繋ぐためにとある財閥が私財をなげうった、という美談が語られているが、燐音はクローンという存在が苦手であった。自身は一人しかいないはずなのに、同じ記憶を有する、同じDNAの存在。鏡合わせのように感じるそれは、しかし使い捨てだ。どうにも合わず、アイドル事務所へ所属する際にはクローン登録をしなかった。だから、初めて顔を合わせた時はボロボロのからだで男に迫った記憶がある。「どうしてニキを作った!」その答えは静かだった。
「お前には必要だからだ」
燐音は包帯で巻かれた腕を振り上げた。そしてその手をやさしく包む感触に、泣き崩れた。静かに燐音を抱きしめたクローンは、何も話さない。燐音は静かにクローンを受け入れた。
クローンのニキはしばらく姿を見せなかったが、燐音と共に生活するようになると毎日元気よく話しかけてきた。そうやって少しずつ世界を取り戻していき、車椅子で初めて外に出た時、燐音はその景色に驚いた。街と灯りが煌々と灯る世界は、とても『死の星』と呼ぶことは憚られた。街へ降りれば、活気溢れる市場の声。車椅子を押すクローンのニキは、まるで一人の人間のように人と話している。はい、と手渡されたリンゴは瑞々しく、ここは生きている星なのだと教えてくれた。
「好き?」
こてんと首を傾げだクローンに、燐音は世界が明るくなったように感じた。何もかもが新鮮な世界をニキと見て回って、何年ぶりにはしゃいで疲れて。男の屋敷へと帰った時には日が暮れかかった頃だった。夕飯の席で男から話を聞くと、昔からこの星には宇宙船がよく落ちていたようだった。その先で生き残った人々が、新たに落ちる商船や移民船から資材を集めていき今のコロニーが出来たらしい。今では星のいくつかに大規模なものが出来ていて、交易までしていると聞いた時には、人間とはかくもたくましい物かと感嘆したものだった。燐音はその日から積極的にリハビリをするようになった。
食べるものが少しづつ増え、杖を使って二本足で歩くことができるようになり、男から最後の手術を提案された頃。ニキが一人の人間を拾ってきた。それは紛れもなく燐音のクローンで、ぼろぼろのていで転がっていたところをニキが拾ったらしい。
燐音はニキに自身のクローンを任せ、男の部屋を尋ねた。男はすまないと眉を下げて、臓器移植しなければ死んでいたのだと教えてくれた。クローンのニキを作ったのも、その為だったと。燐音はその言葉に顔をゆがめ、それはどういう意味だと問い正した。しかし男は口を割らず、ニキを作った答えはついぞ聞けなかった。
燐音は部屋へ戻ると、自身のクローンと向き合った。男いわくまだ五体満足だが、このまま使わなければ臓器提供の余り物という扱いになる。そして働くことが出来なければ廃棄されるらしい。
この星は栄えているが、それでも他に比べればまだ小規模であるし、宇宙船が落ちてくるような星だ。人や耕した土地が死ぬのは当たり前で、労力が足りないのは目に見えていた。きっと、ニキのクローンは燐音が生きるために差し出す贄だったのだろう。元の人間が居ないのならば、どれだけ作ろうと構わないという事だ。彼らの誤算は、ニキという存在が『大食い体質』であったことか。燐音は元より筋肉が付きにくい体だし、この街で生きていくとすると人権をもつ。燐音はそこまで考えて、首を振った。考えるのはよそう。今は、このクローンを助けなければ。それは、燐音の中でクローンが前向きな存在となったからではない。自身とニキとの出会いを、目の前のクローンたちがなぞらえたからだった。
「この人、大丈夫っすかね…」
「俺たちができることはこれくらいさ。あの人も、中身は何もしてない大丈夫な個体だって言ってたから」
「…やっぱり、僕たちはクローン、なんすね」
「それは違うって言っただろ、ニキ。お前は確かに椎名ニキの記憶を持っているが、生まれた場所も、生きた時間も違う。お前しか体験していないことだってある。こいつだってそうだ。だから、そんなこと言うな。お前はお前だ」
「…うん」
クローンのニキは燐音のことを『お兄さん』と呼んでいた。その瞳は心配で揺れていて、燐音はよしよしとその頭を撫でた。ニキはそれを受け入れながら、じっとクローンの燐音を見つめて何かを考えているようだった。
しばらくして、燐音のクローンは目を覚ました。身綺麗になった体にぱちくりと目を瞬かせ、ベッドサイドではしゃぐニキに困惑した顔を見せた。大喜びでクローンの燐音へ話しかけるニキはそれに気づかない。燐音はニキへ頭を軽く叩き、クローンへと話しかけた。
「体はどこもおかしくないか」
「…あ、あぁ。強いて言うなら、腹が減った」
「おなか!それは一大事っすよ!僕なんか作ってくる!」
ニキはばたばたと部屋を出ていった。それを見送って、燐音は静かに椅子に座った。目の前のクローンと対峙する。赤い髪、青い瞳。同じ21のからだ。しかし何も体験したことがないその瞳は、歪んだ鏡のようだった。
「お前は俺のクローンだ」
「あぁ、そうだ。アンタの足になる予定だった」
「どうして逃げた?」
「…逃げたわけじゃない。本物が見たかっただけだ」
「俺を?」
クローンの燐音はぎゅっとシーツを握りしめた。
「目覚めた時、カプセルの中で自分がクローンであることを思い知らされた。あんたは大腿骨がやられてる。今は代わりの人工骨頭が入っているが、同じ細胞の俺を使えば、骨と神経は綺麗に繋がることができる。今より格段に生活レベルが上がるそうだ」
「そうか」
「だから、抜き取られて廃棄される前に一度だけ、俺の骨を埋める人間を見たかった。それだけさ」
「そうか」
「満足したか?それなら俺を連れていけよ。あんたの手術のために俺は行かなきゃならない」
「いや、お前はいかなくていい」
言い切った本物の燐音を、クローンはにらんだ。
「どうしてだ?俺の人権だのなんだのなら、気にする必要は無い。お前が本物だ」
「いいや、俺もお前もただの人間さ。違いがあるとすれば、俺は21歳でお前が0歳ってとこかな」
「だからなんだ。体格は成人してる」
「だからもクソもねぇよ。俺は手術は受けねェ。お前はお前として生きるんだ。それが嫌なら、俺の手足になれ」
燐音はしっかりと目を見すえて言った。言葉は足りないが、同じ人間だから意味は伝わるはずだ。クローンは少したじろいで、反論しようと口を開いた。が、何も言葉は出てこなかった。ただ、瞳からぽろりと涙がこぼれた。燐音はそれを優しく拭った。
「ほら、怖かったんだろ」
「怖くなんか、ねぇし」
「記憶は俺のがあるし、まぁ同じ細胞なんだから考えてる事は何となく分かるもんさ」
そう言って燐音はクローンを抱きしめた。その体は人の体温を持っていて暖かい。静かに嗚咽をこぼし始めた背中を優しく擦りながら、燐音はこの世界を憂いた。
「おにーさんっ、パン粥だけどできた!って、どこか痛いの!?」
勢いよく部屋を開けたニキが、慌てたようにテーブルに盆をのせてベッドへと乗りあがった。あまりの勢いにクローンは驚いて燐音の方へ体を寄せる。縮こまったクローンの燐音へずずいと近づいて、ニキは布団をひっぺがした。続けてシャツに手をかけるから、慌てたクローンは悲鳴をあげた。
「このへんたいニキっ!」
「はっ!?えっ!?ぼ、僕が!?」
「っぷ、あははっ!」
部屋に燐音の笑い声が響く。大声のそれに目を丸くして固まった二人は、ぐしゃぐしゃと燐音に頭を撫でられた。
「あーもう!くそ、世界に復讐しようって思ってたはずなのになァ!」
燐音はぎゅうと2人を寄せて抱きしめた。暖かな命は確かに鼓動を打っていて、生きた人間であることを教えてくれる。燐音の中に灯っていた復讐の炎が小さくなっていく。まだ死んではならない。ここに二つも新たな命があるのだ。ニキを殺した世界は許せないが、新しく生まれた命に非はない。この二人が俺を必要としなくなるまで、大人になるまで、じっとこの炎は隠していよう。燐音はそう心に決めて、男へ巣立つ計画を話した。
果たして男は何も言わなかった。ただ一言、「クローンは無視されるから、燐音のクローンはあまり歩かせない方がいい」とアドバイスをくれた。そしてクローンと住むのなら、と三人に郊外の小さな洋館を貸した。常々権力のある男なのだろうと推測していたが、まさかここまでしてくれるとは思わなかった燐音は受け取るべきか悩んだ。男は「自分が助けた命は責任を持つさ」と笑いながら言って燐音へ押し付けた。あとから聞いた話だが、コロニーのまとめ役だったらしい。元々は軍事船の医師をしていたという男に礼を言い、三人は洋館へと移り住んだ。そして男が持ってくる仕事を捌きながら細々と暮らし始めた。
それは1年がすぎた頃だった。壊れた愛機の修理をするようになり、同じ頭脳を持つクローンの燐音とこの星を飛び出すための理論をたたき出して現実にすべく、色々なところから資材を集めていた。その頃には燐音たちの経営能力は男の目に止まっていて、すこしずつ余裕のある生活を送れるようになっていた。燐音はクローンとともに愛機の傍で作業して、一息ついた時にクローンが口を開いた。
「なぁ、アンタ」
クローンの燐音は決して燐音のことを名前で呼ばなかった。茶化す時はニキの真似をして「オニーサン」と呼ぶが、それくらいである。燐音はニキが作ったサンドイッチをかじりながら、クローンの言葉を待った。
「おれ、あんたの手足だよな」
「あ?そんなことも言ったな」
「なら、俺が復讐をする」
「は?」
こちらを向いた瞳は、真剣そのものだった。燐音はこれのどこに自身の醜い炎がうつってしまったのかと考えた。クローンは言葉を続ける。
「これはアンタへの恩返しと、俺自身の復讐でもある」
「どういう意味だ」
「アンタが落ちなきゃ俺は生まれなかった。アンタが拒否しなきゃ俺は死ぬしか無かった。でも、アンタはここで朽ちるべきじゃなかった」
「それのどこがお前の復讐なんだ」
「アンタは俺の命の恩人だ。…もちろん、ニキもだけど。それなら、俺とニキの命のもとになった人達が辛い目にあったのに恨まないわけないだろ」
ごく当たり前の理論のように言いきったクローンは、燐音の手を取った。
「これが、俺のやりたいことなんだ」
「お兄さん!」
「あ?」
「話聞いてました?…あ、」
「帰ってきたか」
光学迷彩で風景に溶け込んだ機体がどんどんと降下してくる。郊外で、コロニーの外になるこの洋館近くへは恩人の男の関係者以外誰も近寄らない。墜落し捨てられた宇宙船をガレージ代わりに使って、クローンの燐音はこちらへと歩いてきた。
「おつかれさん。どうだった」
「プリンススターがいた」
「お、なら激突したんだな」
「しつこかった。今日は計画の下見だったのに」
はぁとため息をついたクローンは、燐音のテーブルに目をやった。
「ニキがおまえのために焼いてたよ」
「…そうか」
クローンはそれだけ言うと水を浴びると言って近くの川の方へと足早に去っていった。燐音はそれを頬杖をついて眺める。クローンである二人を一から育て直すと決めてそう言い聞かせたのは自分だが、彼は自分の思春期を見ているようでなんだか居心地が悪い。確かに最初のピースを食べたのは燐音だが、「味見役」なのである。ニキの本命は「クローンの燐音」であって、それはあの時から変わらない。燐音は「おにーさん」、クローンは「燐音くん」。それはクローンという仲間意識がそうさせるのかもしれないが、呼ぶ声に違いがあるのは明白だった。かちゃかちゃと音を鳴らして近づくニキを迎えながら、燐音は自分の少し推測しすぎる性格を改めようと心に決めた。
「あれ、燐音くんは?」
「汗かいたから流してくるってよ」
「んもう、いつも川に行くんだから」
手に持った欠けたホールケーキとティーカップをテーブルに置くと、ニキはタオルを取りに洋館へと戻った。燐音は読みかけの本を手に取り、安楽椅子を揺らす。今回も無事帰ってきたし、今後の作戦を練らねば。計画通りにアイドルを潰すことが出来ればいいが、そう上手くいくわけが無い。この幕引きをどうすべきか、燐音は己の大切な幼子を守るべく知恵を巡らせた。