お誘いは内緒に遠回しで「兄さん!」
玄関を開けるなり大声で久しぶり! ととびついた弟を、燐音は踏ん張って受け止めた。しかし一彩が肩にかけたボストンバッグがぐらりと揺れて、結局慣性には耐えられず燐音は床へ尻もちをつく。一彩は燐音の上に乗り上げたまま、きらきらと子犬のような瞳を燐音に向けて話し出した。
「ESに行こう兄さん!」
「は!? お前こっちに帰ってきたばっかりだろうが! つか荷物くらい置いて、」
「しかし兄さんと早くシナモンに行きたいよ!」
その言葉に、燐音は一彩が地方に出張中に送ったレモンタルトの写真を思い出した。
「あ、あのなぁ…お前仕事終わりだろうが。疲れてるんだから休めっての」
「嫌だ! せっかく兄さんが誘ってくれたのに!」
「写真送っただけだし」
燐音が顔をそらしてそう言うと、一彩は一度口をつぐんだ後、「じゃあそういうことにしておくよ」とおとなしく引き下がった。燐音は追求しない一彩に少し驚いたが、平然と部屋へ上がる一彩の後をついてリビングへ入った。
「お土産だよ」
「おう」
燐音はテーブルに置かれた手土産を覗いた。中にはレトルトのご当地カレーやおつまみ、プリントクッキーなどが入っていた。適当にテーブルに並べながら、紅茶のティーバックをひとつ手に取った。電気ポットに水道水を入れ、スイッチをつける。お湯が沸くまで、燐音はぼんやりとティーバッグの箱を眺めた。
「その紅茶はミカン風味だそうだよ」
「みかんかぁ」
「試飲させてもらったけど、とてもよい香りだった」
「楽しみだな」
一彩はテーブルについて一息つくと、買ってきたお土産についてひとつひとつ説明しはじめた。燐音は話半分に聞きながら、ティーポットを取り出す。一人暮らしをする際にHiMERUから送られたものだ。箱を開けて、ティーバッグを二つ入れる。ゆっくりとお湯を注ぐと、舞い上がった湯気からほんのりミカンの香りがして、思わずほおが緩んだ。その姿を見た一彩が嬉しそうに尋ねた。
「いい香りだろう?」
「あぁ、いい香りだ」
目を閉じて香りを楽しむ燐音を、一彩は頬杖をついて見守った。アイドルの『天城燐音』ではない天城燐音は、がらりと雰囲気が変わり、落ち着いた聡明な男になる。アイドルの彼が偽物だとは思わない。だが、一彩にとってはこちらの彼がよく見ていた姿だった。
燐音が紅茶のカップとポットを持ってくる。一彩はお茶うけにお土産を開けようと手を伸ばしたが、燐音に止められた。
「あー、開けなくていい」
「もしかしてお腹いっぱいだったかな? じゃあ紅茶だけに」
「そういうわけじゃなくて。生菓子あっから」
「生菓子?」
きょとんと首をかしげる一彩に、燐音は少し頬を染めた。ぎこちない動きで冷蔵庫をあける。中から出てきたのは小さな白い箱だった。きまりが悪いように右へ左へと視線をうろつかせながらテーブルに静かに置く。丁度二人分のピースが入るようなそれに貼られたシナモンのシールに、一彩はあっと声を出した。
「ニキが、後で感想くれって」
そう言いながら燐音が空けた箱の中からは、透明なレモンタルトが二つ。一彩がどんどん瞳をきらめかせていくのを見た燐音が、言い訳のように早口で話した。
「俺っちはお願いしてないから! ていうかこの間もシナモンの今度の新作試作品がたまたまレモンで、あいつらが送れ送れってうるさいから送っただけでこれだってHiMERUが、」
「兄さん!」
一彩はがばっと立ち上がって燐音に力の限りハグした。つらつらと言い訳を話していた口が閉じて、そっと一彩の背中に腕が回る。一彩は兄が答えたことに舞い上がって、抱き着くだけでは消費しきれないエネルギーをぐるぐると回って発散した。
「っ回んな、」
「ありがとう! 僕が食べたいだろうと思ってここに用意してくれてたんだね!」
「ちがうあほ話を聞け!」
「あれ?」
「あれ? じゃねぇし!」
きょとんとした一彩へ小突こうとして、ぐっと握りしめてこらえる。どうやら、本気でESに行くつもりで燐音の部屋に寄ったらしい。確かにシーズンものだけど。そこまで身を粉にしなくてもいいのに。燐音はハグしたまま、絞り出すように一彩を誘った。
「お家デート、のつもりなんだけど」
言ったきり燐音はぷいと顔をそむけた。
「兄さんから、初めて、デートのお誘いがきた……?」
一彩が確認するようにつぶやく。兄が小さく頷いたのを見て、一彩は先ほど以上の抱擁でもって答えた。