【ルドハル】音が教えてくれるもの 心地よい音色。
紡がれる旋律。
澄んだ音は、まるで踊るように弾み、躊躇いもなく続いていた。
「ふふ……。見事ですね、ハルリットさん」
「本当に。特技とは言っていたけど、へぇ〜。こんなに上手いと思わなかったな」
旅の途中、マロンクリーム王国のはずれにある古城にレッドブーケの騎士たちは滞在していた。
城の近くまで来たのはまだ日が傾く前だった。城の主であるこの地方の領主にロマリシュが顔を見せに行くと、この先を進んだ山間の村はこの時期は皆で出稼ぎに出ていて、住人がほぼいないと教えてくれた。夜に休める場所もないかも知れないとのことで、今夜はこの城で泊まってはどうかと打診してくれたのだ。
夕飯にはまだだいぶ早かったので、領主がお茶に誘ってくれた。皆で話している間にピアノがあることを知ったハルリットが、自分の特技だと笑顔で言うので、領主も喜んでいた。
何でも以前は領主の娘がよく弾いていたらしく、嫁いで遠くに暮らしているため、現在この城でピアノを弾けるのは奥方しかいないようだ。
さらに娘のお産で奥方も今は娘の嫁ぎ先に滞在しているとのことで、公務で城から離れられない領主は久しくピアノの音を聴いておらず、実は寂しかったのだと小さく笑った。それならと意気揚々と胸を叩くハルリットが、領主、リミチャ、サナーと四人で連れ立ってピアノがある部屋へと向かったのが少し前。
程なくして聴こえてきた音に、ゆったりお茶を続けながらロマリシュとプルースが感心したように微笑んでいる。
濁りのない音から、娘との思い出もあってか領主一家がこのピアノを大切にしていることが窺える。弾く機会が減っても調律は欠かしていないのだろう。
ハルリットの奏でる音は、ハルリット本人のように素直な音だった。
すべての音を実直に、それでいて優しく紡いでいる。三人の知らない曲もあるが知っている曲を聴く限り、特には自己流にアレンジもせず、譜面通りに弾いているようだ。習う時のお手本のような弾き方だった。
「なんか、ちょっと意外じゃない〜? もっとガサツなのかと思ってた」
はたしてピアノを教えたのは、主か。別の人物か。いずれにせよ、おそらく丁寧に、優しく教えてくれたのではないか。そんな光景が浮かんでくるような弾き方に、何故か少し、面白くないと思ってしまう。
「そんなこと、思っていないくせに」
横で小さく微笑うロマリシュに心の内を見透かされていそうで、ぶすくれて口を尖らす。何でもお見通しのような昔なじみの言葉に、動揺を隠しきれるとは思えないがひそかに抵抗を見せるのは許して欲しい。
けれど言った言葉は、半分は本心でもある。
ハルリットの武器の扱い方、戦い方。普段の立ち振る舞い。どれを見ても、まだまだ半人前の若さが否めない。素直なのは誰もが感じるだろうが、元気が良いというか。雑、というほどではないにしろ、若干のガサツさというべきか。洗練された印象を受けないことも多い。
それなのに、この音はどうだ。
本当に丁寧で、繊細なのだった。普段の元気さからすると一瞬別人が奏でているのかと思ってしまったのだ。
ならば、この音を教えた者の影響なのだろうと。そう思うと自分でも分からないくらいに、何故だか面白くなくなってくる。
ほんとに少し、ほんのちょびっとだけだけれど。
「まぁ、ああ見えてハルリットは繊細だから」
搾りたての牛乳で作るホットミルクが美味しいと、珍しくハルリットにはついていかずに、のほほんとおかわりしているプルースが訳知り顔で言うのも面白くない。
いくらハルリットの王国からずっと共に旅をしているといっても、メロルドよりも出会ったのが少しだけ早いというだけだろうに、すっかり理解者のような保護者面をしている男に心の中で毒づく。
そんなこと、言われなくてもこちらだって分かっている。けれどそれを声に出すのも何だか悔しくてクッキーを一枚口に放り込むと。
ふと、聴こえていたピアノの音に違和感があった。
噛み砕いたクッキーを飲み込み、もう一枚クッキーに手を伸ばすとその違和感がさらに顕著になった気がした。若干不思議に思いながらもまたクッキーを食べ、ティーカップを傾ける。
「はぁ〜。いい演奏を聴いたらお腹空いちゃったよ〜〜」
「リミチャは何か一つのことをしたらその度にお腹空いちゃうだけでしょ? なはは!」
やがてお腹をさするリミチャと、いつものように笑うサナー、にこやかで満足そうな笑顔の領主が戻ってきた。
「あれ? ハルリットは?」
三人しかいないことにプルースが首を傾げる。席に着くと同時にクッキーを摘み始めるリミチャが口を動かしながらそんなプルースを見上げた。
「久しぶりだから、ちょっと練習したいんだって」
「ハルリットもピアノがあって嬉しかったみたいだよ」
クッキーの隣のお皿に盛られたフルーツを食べ始めたサナーも答える。
再び始まったティータイムに和やかな空気が流れる中。
メロルドは、ティーカップの底を見つめながら、ピアノの音に耳を澄ませていた。
*
一人になってから、楽譜がないので記憶にある曲を奏でていた。
幼い頃から弾いていた曲はつっかえることなく一曲弾き終えた。指を止めたと同時にパン、パンと。拍手ではなく注目するように手を叩く音が響いて、おもわず肩を跳ねさせてしまった。
「はぁ〜。ぜんっぜんダメ」
続く声に慌てて振り向けば、ドアの隙間にメロルドが立っていた。
「め、メロルド……っ?」
「え〜? その曲って、そんな感じの曲だっけ〜? 違うでしょ?」
唐突にダメ出しをされ、狼狽える。間違えた箇所はなかったはず。それに、どちらかといえば得意な曲だった。この曲を弾く度に、明るくて楽しい曲はハルリットに似合うと、いつも褒めてくれていたのだ。
どこがダメだったのだろう。先ほどまで弾いていた内容を思い出そうとしていれば、ゆっくりメロルドがこちらに歩いてくる。
じっと見下ろしてくる瞳があきらかに何かを言いたげで落ち着かない。
それなのにしばらくは無言で見つめられ、その間も何を言われるのかと若干びくびくしているうちにこちらが限界になってきた。
「えっと……。ど、どのへんがダメだったのかな……」
「全体的にだけど?」
聞きたくはないが気にはなるので恐る恐る聞いてみれば、返ってきた言葉はこれだ。ついカチンときて、目線だけでなく顔ごと見上げる。
「全体的にって……っ! どこがどうダメとか言ってくれないと、わからないよ!」
ムキになって声も大きくなってしまった。
メロルドのことだ。難癖をつけて何でも否定してくるのだろう。とは思いつつも、きっと否定するにはそれなりの理由があるのだとも予想がつく。
が、それでも言い方ってものがある。ムスッとしたまま睨んでいると、メロルドの腕が持ち上がった。
「んむッ」
むにっ。そう音がつきそうな動きで、アゴ側からほっぺたを掴まれる。ほっそりした指先が、何回も頬の肉を揉みしだいてくる。
「ぅ、……っ、ちょ、な……っ」
「いや〜、なんか膨らんでたから、こうしたら萎むかなって。って、なにコレ。大福みたいじゃん」
ムニムニと揉み続けるうちに柔らかい感触が楽しくなってきたのか、何故だか喜ばれ始める。いつまでも頬を押してくる指に、必死に頭を振って逃れた。
「もうっ! なんなんだよ!」
毛を逆立てる猫のように威嚇すると、ニヤニヤ笑っていたメロルドの顔がふと真顔になる。
またそうしてしばらくは無言で見つめられ、落ち着かなさに視線を泳がせてしまった。
顔を背け俯くと、その視線の先にある鍵盤に白い指が伸びてきた。
トン、と鍵盤が一つ、下りる。鳴った音は『ラ』。
「……僕ね、聴覚が鋭いんだ」
椅子のすぐ後ろに立っているメロルドは、腕を伸ばしているので上体を屈めているのだろう。耳のすぐ近くから声がする。
こんなに近くでメロルドの声を聞くのは初めてだった。自然と鼓膜が震える。
「だから、音の変化なんてすぐ気付くんだよ」
もう一度、同じ鍵盤に置いた指に力を入れる。今度は先ほどより少しだけ、強い音だった。
「もちろん、その音に乗っている感情の変化もね」
声だけでなく、話す度に唇が耳殻を掠め、余計に鼓膜が震えてしまう。すべての神経がそこに集中しているかのように、熱が集まって行く。
それから、背中に感じる重み。
まだ鍵盤に置いたままだった左手にももう一本の腕が伸びてきて、指の上から白鍵を押さえられる。
「さっきピアノを弾きながらさ。なに考えてたの〜?」
背中にメロルドの体重と体温、耳許には口調のわりに、意外と優しい声。
温かい背中と重ねられた指は、子どもの頃に初めてピアノを教わった時のようだ。しかしあまり体格は変わらないので、すっかりメロルドの腕の中にいる状態になっている。
完全にキャパオーバーになって声にならない。首から上が茹だったように熱くて、あ……とか、う……とか、上手く言葉も出てこない。
口をぱくぱくさせている様子を見て、耳許で小さく微笑う吐息が聞こえた。だから、とりあえずそこから唇を離して欲しい。擽ったいのか、身体が小さく震えた。
「ま、どうせ主のこととか王国のことでも思い出してたんでしょ」
「へ!? な、なん……で、っ!?」
「ホームシックも分かるけど、そういう時に一人になるのは逆に悪手じゃない? 余計に淋しくなっちゃうんじゃないの?」
言われる内容がズバリすぎて驚いて振り返ると、本当に近くに、たった数センチほどの距離にメロルドの顔があった。
ブルーオパールのように不思議な色の瞳が、真っ直ぐにこちらを見つめている。
「それくらいのこと、音でバレバレなんだよね」
静かにそう呟く瞳は微かに細められていて、声の通りに表情も、普段より優しい。そんな顔をしてくれると思っていなかったので、つい、優しい、大好きな主のことを思い出して涙腺が緩みそうになった。
……音。それだけで、本当にそんなにもいろいろなことを分かってしまうのだろうか。
日々の様々なものに思い出は紐付いているけれど、特にピアノは特別だった。
弾いている姿。
教えてくれる時間。
こちらが弾いているのを見て、聴いてくれている時の笑顔。
上手く弾けなかった時に励ましてくれた声。
誰かの演奏を一緒に聴いて、感想を言い合った時のこと。
ピアノにまつわるすべてのことが、大切な思い出を呼び起こす。まるで今日あった出来事のように、すぐに思い出せることがたくさんある。
胸が苦しくなってきて、鼻の奥がツンと痛い。見つめていたメロルドの瞳がぼやけたと思った瞬間、突然デコピンされた。
「痛……っ!!」
「思い出に浸るのは良いけど、心配させないでよって話なんだよね」
突如襲ってくる痛みに額を手で押さえると、メロルドの声はいつもの声に戻っていた。
手のひらの下で、ぱちくりと瞬きしてしまう。それはつまり、心配してくれたってことなんだろうか。
涙目になっているのは痛さでということにして、おでこをさすりながら改めてメロルドを見上げる。
「……メロルドは、ピアノの音だけでそんなにわかるんだ……」
「まぁ、そうだね。すごいでしょ〜?」
聞いてみればそんなドヤ顔が返ってくるので、数回ぱちぱちと瞬きをしてから、一つ頷いた。
「…………うん、すごいよ」
素直にそう感想を伝える。自然と笑えた。
それなのに、今度はメロルドが目を丸くしたまま固まっている。想像もしていなかった反応に何か変なことを言っただろうかと首を傾げていると、やがて何とも言えない微妙な表情になって乱雑に前髪をかき混ぜられた。
「わ、わわ……っ!? は? な、何!?」
「そういうとこ、ほんと気に食わないんだよね……」
ため息混じりに呟く声がするが、こちらはとにかくその手から逃れるのに必死だ。
何とか止めてもらって前髪を直そうとしていると、はたとメロルドの様子に気付いた。
口元に手をやり、あらぬ方向へ目を向けている。心なしか頬が赤い気がするが、ピアスが並ぶ耳は確実に赤くなっていた。
「……? もしかして…………照れてる……? 自分で言ったのに……?」
不思議そうにまた首を傾げてしまう。つい口から出た言葉にメロルドはしかめっ面をし、またデコピンをされた。
「痛い! だから、なんで!? なんでデコピンするんだ……っ!?」
「そういうデリカシーのないとこも腹が立つ」
さっきより容赦ない指に痛みで抗議するも、再度おでこを押さえている間にメロルドの声が移動しているようだ。
すぐに身体を横から押され始める。何ごとかと潤んでぼやけている視界で横を見遣れば、狭いピアノ椅子に何故かメロルドも座ろうとしてきていた。
「もっとズレてよ。僕が座れないでしょ」
「へ? なんでメロルドも座るんだ!?」
ぐいぐい押しやられている間に、真横に座ってしまう。訳が分からず混乱しているうちにメロルドの細い指が鍵盤の上に置かれた。
「言ったでしょ。さっきの曲、全然ダメだったって」
こちらを見てくる表情は、すっかりいつも通りに戻っている。
「元々楽しい曲なんだから、あんな辛気臭い感じで弾かれたら聴いてる方も嫌になっちゃうんだよね」
どうやら先ほどの曲のダメ出しの続きらしい。
たしかに、楽しい思い出ばかりがある曲だ。どの国でも、子どもが一番最初にダンスを踊る曲かも知れないというくらいには有名な曲。この世界の住人ならば誰でも知っているだろう。
「僕がお手本を見せてあげるよ」
言うや否や、いくつかの鍵盤を押さえ最初の音を鳴らした。
「連弾、できるでしょ?」
そして不敵な笑みで、問うてきた。
こちらが目を見開いている間に軽く冒頭だけ弾き始めているので、え? え? と動揺したままそんなメロルドを見る。
「め、メロルド、ピアノ……弾けるのか!?」
「弾けないとは言ってないよね。むしろ僕にできないとでも思ってた?」
スキップするように、音が踊り始める。すでに少しずつ、しかし本気ではないだろう軽い感じで弾き始めようとしているので、慌てて鍵盤に向き直る。
「のんびりしてると、置いてっちゃうから」
ニンマリと笑う顔は、実にメロルドらしい、最強の騎士の名の通りの顔だったので。
「ああ! 負けないよ!」
大きく頷いて、両手を鍵盤へと置く。
せーの、という合図と共に、二人で音を奏で始めた。
一人で弾くピアノの音ではなくなったと、レッドブーケの騎士たちと領主が様子を見に来た時には。
とても楽しそうに笑顔でピアノを弾く二人の姿があったのだった。
おしまい。