夏休みの影菅 こうしくんは2km先の神社へ向かって、時速8kmで早歩きしていましたが、7分後、もと来た道を時速5kmで引き返しました。さて、問題です。こうしくんはなぜ途中で引き返してきたのでしょう
玄関の扉をあけ、脱ぎ散らかした靴は揃えず、少し目を丸くして「忘れ物?」と顔を覗かせた影山の脇を通り抜けてソファへ倒れ込むこうしくんこと、俺。
「ラジオ体操の当番が俺じゃなかったからでーす」
突っ伏した状態のまま叫んだせいで、俺の悲鳴はクッションに吸い取られて「もごもごもご」という音になった。聞こえなかったはずだが、何かを察した影山がキッチンで冷蔵庫から取り出した水を注いでいるのがわかった。静かな足音が近づいてきて、コップが差し出される。俺は「置いといて」と言おうとして、またクッションに声を吸われ、「もご」という間の抜けた音が口から出た。コト、とテーブルにコップが置かれる音がして、ソファが少し沈む。
どういうわけだか、夏休みにはラジオ体操というものがある。子どもの頃にもあった。そして今もある。夏休みにも関わらず早起きを強制されることに文句を言いながらもスタンプを集めていた子どもは、夏休みなど関係なく児童よりも早く起きてラジオ体操を監督し、子ども達にスタンプを押す教師になった。辛い。当番制のため、毎日ではないのが幸いだが、シフトを間違えると悲劇だ。
今日は起きたら結構ギリギリの時間だったので、顔を水で濡らすと、その辺にあったくしゃくしゃのシャツに着替え、バタバタと玄関に向かった。先に起きていた影山が「寝坊?」と言いながら冷えたシャインマスカットを俺の口に2,3粒詰め込んでくれたのを頬に蓄えて、時速8km(推測)で向かったのだ。でも、途中で気付いた。あれ──今日、俺の当番じゃないかも。立ち止まってスマホに保存していたシフト表と照らし合わせてみれば、今日の日付の横には「鈴木」の文字があった。貴重な休日だったのに、無駄に早起きしてしまった。無駄に早歩きしてしまった。背中にかいた汗が憎い。頂き物のシャインマスカットを味わわずに食べた自分が憎い。
「寝る?起きてるなら飯ちゃんと食えば」
すぐ隣で影山の声がする。クッションに声を吸われないように顔だけ横にずらして「くやしい……このまま寝るのも、ただ起きてるのも」と呟く。影山は少しだけ笑った。
「ここから取り戻したい……普通に過ごすだけじゃ嫌だ……影山なんとかして」
「俺、走りに行くけど一緒に来る?」
「ないだろ。この世にある選択肢の中で最もないやつだろそれは」
「そんなになくはないと思う」
「ついていけるわけないだろお前に」
「じゃあ違うことする」
「何すんの?」
影山は小首をかしげてうっすら微笑み口を開いた。
「気持ちいいこと」
◇
「48、49、50!」
ボールが空を舞う。大きく枝を広げた木から朝の光が射していた。
半ば騙される形で公園に連れて来られた俺は、元金メダリストと対人パスをやっていた。バレーボールクラブの顧問を長年やってはいるのだが、自らボールに触れる機会はそう多くない。はじめは感覚を忘れていることに戸惑い、ボールがあちこちに飛んでいくたびに影山がフォローに入るのを申し訳なく思った。
「だんだん思い出してきたわ」
なおざりにならないよう、指先まで丁寧に動かしてボールを押し上げる。軽く心地よい音とともにボールが弧を描く。「ね、」と相槌を打つ影山の表情は穏やかだった。
「俺とやっててさぁ、楽しい?あんま手応えなくない?」
「そんなことない。楽しい」
「ほんとかぁ?」
「バレーやってんの、好きだから嬉しい」
「俺が?俺がバレーやってるとお前がうれしいの?」
「うん」
「はは、なんじゃそら」
俺がパスしたボールを、影山がテレビでよく見ていたあの綺麗なフォームで返す。それを両手の指先で受ける。気まぐれに名前を呼んで、「はい」と声をあげて──何も言わなかったけど、お互いきっと、かつて高校生だった自分たちのことを懐古していた。
久しぶりに汗をかいた。心地よい疲労感ではあったけど、とにかく暑かった。身体を動かしたから、というより太陽がかなり照り付けていたからだ。公園の樹木からはぐわんわんとセミの大合唱が響いている。
もう帰ってシャワーを浴びて、飯食って寝たい。額に伝う汗を腕で拭いていたが、影山は涼しい顔で寄り道していこう、なんて言う。
「ええ?もう俺腹減った……」
蓄えていたエネルギーはシャインマスカット3粒だ。もうとっくに燃料切れである。
「後悔させないから」
思わず笑った。それは俺が何かを強引に通したい時、影山によく言うセリフだったのだ。実際、影山がそれで後悔したことがあるかは知らない。
「そう言われちゃな……」
手を引かれるまま、俺たちは商店街の方へ歩き出した。
「気持ちいいこと」と影山が言い出したときはそれはそれはドキドキしたものだった。お前、そんなこと言うキャラじゃなかったじゃん。でもリビングで微笑んだ影山は寝室には行かず、物置からボールを取り出してきたものだから「あ、そーゆーことね。まあわかってましたけどね」の顔をせざるを得なかった。こいつにとってバレーは気持ちいいことなのだ。異議はない。だから「気持ちいいこと」の伏線はとっくに回収されたと思っていた。
影山の“寄り道”先は、商店街の一画にある古い建物だった。この街で昔から経営している銭湯だ。ガラガラ、と横開きの扉をあけると、思っていた以上にモダンな空間が広がっていた。聞くところによると、店主が息子に変わったタイミングでリノベーションしたらしい。番頭さんにチケットを渡し、タオルを一緒に購入し、中に入った。昨今のスーパー銭湯のような場所とは違い、あくまでも昔ながらのシンプルな風呂屋だった。昔の面影を残した空間はどこか懐かしくもある。シャワーで汗を流し、一番大きな湯舟に浸かる。
「ああああぁぁ~……」
湯に沈んでいくとともに、身体から気の抜けた声が洩れ出た。気持ちいい。すべての不快感が一掃され、身体の凝りが解けていく。足を伸ばし、風呂の淵に頭をのせて全身の力を抜くと、それだけで昇天しそうになる。この国に生まれてよかった。
チラリと横目で見た影山はきちんとした姿勢で湯に浸かったまま濡れた髪をかき上げている。整った横顔に濡れる白い肌。間近で見るにはあまりにも生々しく、引くほど色っぽかった。
「なんなのお前……」
呆けた顔のまま思わず呟くと、影山が小首をかしげる。
「かわい子ぶるな」
「ぶってない」
両手に湯を含ませ、顔に向かって水を飛ばすと影山が手で防ぎながら笑う。
「はぁ~、気持ちいいことかぁ……」
「後悔しなかったろ」
「うーん……苦しゅうない……」
窓から差し込む光に反射して、天井に揺らぐ水面が映っている。ちゃぷ、ちゃぷ、と水音が心地いい。時計はまだ12時前を指していた。目を閉じる。
「寝ないで。溺れる」
隣から影山が俺の肩を揺さぶる。
風呂上がりの牛乳のうまさを思い出した。商店街を歩きながら先ほど買ったばかりのコロッケにかぶり付く。ザク、と嘘みたいな音がして、口の中いっぱいに油のうまみが広がる。
「幸せすぎる……もう我慢できない、帰ったら絶対ビール飲む……いや、今買っちゃおうかな」
さっきの店に戻って、コロッケを買い足そうか。立ち止まって振り返る。少し先を歩いていた影山が、俺を呼ぶ。
「こーちゃん」
前に向きなおると、影山が手を差し出している。昼飯入んなくなるから、と苦笑交じりに立っていた。コロッケは諦めて、駆け足で進む。
「この手なに?手つなごってこと?」
「いや、飲み終わった牛乳ビン預かるってこと」
「昼飯の時、ビール飲んじゃおうかなぁ」
影山は飲んじゃえば、と言う。
「夏休みなんだし」
終わり