なけなしのwonder3ふと、何かの気配で目を覚ました。辺りはまだ暗く、常夜灯の淡い光に部屋の輪郭が浮かび上がる。
傍らのベッドに藍曦臣の姿は無かった。枕もとに置いたスマホの時刻表示は午前五時半を示している。
——こんな時間にどこへ……。
トイレかと思いしばらく待ってみたが、彼が戻ってくる気配は無い。心配になった江澄は布団を抜け出し、部屋のドアを開けた。
リビングから明かりが漏れている。ほっとして中に踏み入ると、ソファーにぼんやりと座っている白い影に声をかけた。
「……こんな時間にどうしたんだ」
「ああ、すいません、起こしてしまいましたか」
「いや、ちょうど目が覚めて……貴方こそ」
顔を上げた藍曦臣の目元には昨日のような隈こそなかったが、やはり精彩を欠いている。ため息をついて、江澄は彼の隣に腰を下ろした。
「……眠れないのか」
「もともと朝は早いんです。気にしないでキミはまだ寝ていてください」
淡く微笑む姿に、不意に脳裏に「亥の刻就寝、卯の刻起床」の文字が浮かんだ。
リビングも程よく温まっているし、どうやら習慣らしいと安堵して、それなら、と江澄は大きく伸びをする。
「いや、俺も起きる。目が覚めてしまったし」
「なら、コーヒーでも入れましょうか」
「ああ、ありがとう。俺は顔を洗ってくる」
冷たい水で顔を洗い、昨日のワイシャツとスラックスを身に着ける。硬い襟の感触に、早く帰って着替えたいなと思った。
——藍曦臣は大丈夫だろうか……。
一応食べることは出来るようだし、シャワーも浴びて、わずかでも眠れたのだから、そのうち元に戻るだろう。いい年をした大人なのだから——そう思いながらも、前世での「閉関」の時の憔悴しきった様が思い浮かんでしまう。
——一応昼までは居てみるか。
なんなら、明日も休みだし、様子を見に来てやってもいい。
どうせ乗り掛かった舟だと、江澄は鏡の中の自分に向かって小さく頷いた。
藍曦臣の入れたコーヒーと昨日買って来たおにぎりの残りで早めの朝食を取る。藍曦臣は食事中は寡黙で、ほとんど口を利かなかった。江澄も、相手が話さない限り事の次第は聞かないと決めていたから、何とも静かな食卓だった。
それでも藍曦臣の様子はだいぶ落ち着いているし、食べる量も昨夜よりも多い。そのことに安堵して、江澄は当たり障りのない話題を振ってみることにした。
「貴方、今日はどうするつもりなんだ? 仕事は?」
「今日と明日はお休みです。元々在宅でも出来る仕事なのですが……」
そこでふと視線を手元のカッブに落とした。
「毎日、事務所へは顔を出していましたね……行けば、阿瑶に会えたので……」
声の響きにはわざと気づかぬふりで、江澄は顔を顰めた。
「そりゃ、羨ましいな。俺なんか行きたくなくても行かなきゃならない。毎朝、満員電車に揺られて」
ふふ、と小さく藍曦臣が笑った。それに気を良くして、江澄はなおも続けた。
「ここからだと近いんだがな。いっそ、越して来るか」
「え……」
藍曦臣が驚いたように顔を上げて、一瞬おかしな空気が漂う。
「あ、いや、冗談だ、もちろん」
「……そうですか」
なごみかけた雰囲気が再び気まずいものに戻ってしまって、江澄は己の失言を後悔した。
——よく知りもしない相手に急に距離を縮められたら、そりゃ警戒するわな。
前世で知人だったからつい気安くしてしまったが、相手にとっては一度会っただけの他人だ。それも、弟のパートナーの義弟という、なんとも微妙なポジション……。
——よくよく考えてみれば、魏無羨とも血のつながりは無いんだから、ほんとにただの他人なんだな……。
その事実がなぜか思いのほかショックで、そのことにも江澄は混乱した。
「コーヒーもう一杯入れましょうか」
やはり気まずいのか、藍曦臣がおもむろに席を立つ。
「ああ、お願いする」
応えて、江澄も手にしたカップを差し出した。
キッチンへと向かう背中に隠れてそっとため息をつく。
——なんだろう……このもどかしい気持ちは……。
前世での自分たちは余程親しい友人だったのだろうか。そうだとしても、今世で同じ関係になれるとは限らないし、仮に同様になるとしても、それには時間が必要だ。
——ともかくも出会ったのだから。
これからは、なるようになるだけだと江澄が気を取り直したとき。
ピンポーン!
軽い音を響かせて、玄関のチャイムがなった。
「こんな時間に誰でしょう? 晩吟、申し訳ないけど出てくれますか」
手が離せない藍曦臣が肩越しに振り返る。軽く返事をして、江澄は壁際のインターホンへと向かった。
「どちら様でしょう」
江澄の声に、画面の向こうの顔がこちらを向く。それはまたしても、記憶にある顔だった。
「え、聶宗主!?」
「ん? 誰だ? おまえは。なんで俺の名前を……いや、それより曦臣はどうした、いないのか?」
「明玦さんですか?」
インターホンから流れる声に、藍曦臣があわてて玄関へと向かう。やがて連れ立って現れたのは聶明玦——前世での四大生家の一派、清河聶氏の前宗主だった。江澄よりもはるかに高い位置にある双眸が鋭い眼光を放ってじろりとねめつける。
「おまえは?」
「あ、俺は、江晩吟です。あの……高校の時、懐桑と同級だった……」
「ああ!」
途端に、視線が和んだ。
「確か、魏無羨とかいうのと一緒にウチのとつるんでいた奴か。懐桑からよく名前は聞いていた」
「はい……お久しぶりです」
聶懐桑とは前世同様学友だった。その彼にも兄がいたことを今の今まで忘れていた……。
——懐桑からもあんまり兄貴の話題は出なかったからな。
とすれば、今世の彼は前世ほどこの兄貴の頭痛の種ではなかったという事か。
「懐桑、今、どうしていますか。卒業してから会ってないので……」
「相変わらずだ。美大を出たはいいが、なかなか芽が出なくてな。今じゃ体のいいプータローだよ」
そう言いながら、明玦の目は優しかった。
確か前世ではこの兄弟も凄惨な運命を辿ったはずだが、今世ではそこそこ平和にやっているらしい。
「ところで、アイツの同級生がなぜ曦臣の家にいるんだ?」
「実は忘機の伴侶が魏無羨でして。それで旅行中の二人に代わり、彼が私の様子を見に来てくれたのです」
端的に状況を説明する藍曦臣に、聶明玦ははっと大きく肩を揺らした。
「そうだ! 曦臣、おまえ!」
おもむろに向き直り、がっしりと肩を掴む。
「大丈夫か、金光瑶、あいつ——」
「申し訳ありません」
彼の名に、藍曦臣が頭を垂れる。
「なんでおまえが謝る。悪いのはあの男だろう」
「阿瑶だけの責任ではないです」
言って、彼は今度は江澄へと向き直った。
「キミにもいい加減事情を説明しなければいけないよね」
とりあえず座りましょう——そう言って、曦臣は二人をリビングへと促した。
新しく聶明玦の分のコーヒーも入れて、藍曦臣はソファーに腰を下ろすと改めて向かいの江澄へと向き直る。
「キミと明玦さんが知り合いだとは驚きました。世間は狭いものだね。この人は私の上司——というか、共同経営者です」
「正しくは俺とコイツと金光瑶が、だ」
彼の傍らで、苦虫を噛みつぶしたような顔をして聶明玦が言った。
「俺と曦臣は大学時代からの友人でな、一緒にIT関連の合同会社を立ち上げたんだ。もっとも、俺は実務はからっきしなんで曦臣にまかせっきりなんだが」
「たまたま、学生時代に私が考案したプログラムに明玦さんが興味を持ってくれてね。出資をしてくれたのが始まりなんだ」
「思った通り、そいつが当たってライセンス料でだいぶ儲けさせてもらった」
にやりと明玦が笑う。
「で、新たに商品開発をと思って雇ったのが金光瑶だ」
「とあるセミナーで出会って、話しをするうちに友人になって。とても優秀なので私が明玦さんに紹介したんです」
「確かに有能な男だったが……」
言って聶明玦が眉根を寄せた。
「頭同様口先も達者だった。それでつい営業面を任せてしまったのが失敗だった」
「……すいません、私が人付き合いが苦手なばかりに」
忌々し気な口調に、藍曦臣が顔を曇らせる。その様子を見て、とりなすように明玦が言い継いだ。
「いや、俺も家業の方にウエイトを掛け過ぎて、会社にろくに顔も出さなかったからな、ヤツに任せきりにしていた、俺の責任だ」
そういえば聶家は食肉の卸業を営んでいると、懐桑に聞いたことがあったな——考えながら、江澄は口を開いた。
「で? 金光瑶は何をしたんです?」
「曦臣が開発中だったプログラムを盗んで、ライバル会社に売ったんだ」
答えることが出来ず、俯いてしまった藍曦臣の代わりに、聶明玦が言った。
「それって、訴えることとかできないんですか」
「プログラムの著作権は証明が難しい。たまたま似ているだけと言われたら反論は出来ないし、ましてや先に商品化されてしまったら、真似したのはこっちだということになりかねん」
怒りも露に聶明玦は唸るような声音で吐き捨てた。
「現にアイツはライバル会社が商品を発表するまで何食わぬ顔で会社に居座っていた。狡猾な奴だ。おまけに、ことが発覚した途端、代行会社を通じて『退職します』などと言って来た! どこまでも人を小馬鹿にしやがって——」
激高のままに振り下ろした拳に、テーブルの上の茶器が大きな音を立てる。その不穏な音で我に返った聶明玦は、自身を落ち着かせるように大きく息をついた。
「まあ、それに関しては俺にも落ち度がある。さっきも言った通り、会社は二人に任せきりだったからな。金光瑶の裏切りも、昨夜曦臣から連絡をもらって知ったんだ」
「すいません」
明玦の言葉に、藍曦臣は顔伏せたまま小さく頭を下げた。
「明玦さんには何度もお電話をいただいていたのに、返信せずに……それで、阿瑶は?」
「連絡を受けた日にアイツのアパートへ行ってみたが、とっくに引っ越した後だ。もちろん電話も繋がらん……いったいいつから、曦臣を——俺たちを騙していたのか……」
苦々し気な口調で吐き捨て、聶明玦は傍らの藍曦臣を労わるようにその手に触れた。
「おまえの方は大丈夫か? 昨夜電話をもらった後、すぐに駆け付けようと思ったが、遅かったしな。まあ、こんな時間に来るのも非常識だろうが、おまえなら起きていると思ったから」
「お気遣いありがとうございます」
「ともかく、早急にアイツの居所を突き止めて、おまえの前で土下座させてやる」
「明玦さん」
俯いていた藍曦臣が顔を上げた。
「もういいんです。彼だけのせいじゃない、私にも落ち度はあった」
「何を言う! たとえどんな事情があろうと、奴がしたことは犯罪だ」
明玦の言葉に、江澄も「もっともだ」と内心で頷く。しかし藍曦臣は頑なに首を振った。
「阿瑶が本当は開発の方の仕事をしたがっていたのを私は知っていた。彼が私たちの会社に入ったのも、そっちの仕事をしたかったからです。なのに、私は阿瑶に自分のプログラムを触らせなかった。度々くれたアドバイスにも耳を貸すふりをして、結局は無視した。彼が不満を募らせたのも無理からぬこと……そのくせ、信頼していることを示すために、ろくなセキュリティー対策もせずに席を外したりして……彼に悪心を起こさせたのは私です」
そう言って彼はさらに深く頭を垂れた。
「私の軽率な行動のせいで、会社に、とりわけ明玦さんに、大きなご迷惑をおかけしました。すいません」
「……もともとあの会社は、本業の方の税金対策に始めたものだ。損失は出るだろうが、それは気にしなくていい」
鷹揚に明玦が言って、長い息をつく。
「それよりも、曦臣、俺はおまえが心配だ。もう忘機もいないのだろう? この先一人で大丈夫か」
——なんだかなぁ……。
目の前で、心配も露に藍曦臣の肩を抱く聶明玦を見て、江澄は内心呆れていた。今はショックで色々心許ないとは言え、藍曦臣はいい年をした大人だ。そんな彼に、聶明玦の態度はあまりにも過保護過ぎる。もしやこの二人は、ただならぬ関係なのか——そんな邪推を抱きそうになった時、明玦が名案を思い付いたというように顔を上げた。
「そうだ、おまえ、江晩吟!」
「はい!?」
不意に名を呼ばれ、不埒な想像をしていた後ろめたさも手伝って、声が裏返る。そんな江澄に、明玦は畳みかけるように口を開いた。
「独り暮らしか? 今、どこに住んでいる? 勤め先は?」
眼光鋭く矢継ぎ早に繰り出される質問に、江澄は反射的に答えた。
彼の答えに、明玦が大きく口角を上げる。
「そうか、なら、丁度いい。おまえ、しばらくここに住んで、曦臣の様子を見ていてくれないか」
「は!?」
「こいつは優秀だが、何かに集中すると寝食をおろそかにする悪い癖があってな。これまでは金光瑶が食事に連れ出してくれたり、面倒をみてくれていたんだが……」
言い淀み、眉間に皺を刻む。
「もともと、学生時代から生活能力の低い男だ、独り暮らしをするというので心配していたんだが、本人はこれを機に自立すると言うし、まあ、俺もそろそろ身の回りのことぐらい出来んといかんなと……しかし、金光瑶の件で考え過ぎたり自分を責めたりしやしないかと心配だ。俺はこいつの叔父貴に恩があってな、こいつの事を頼まれている。勿論、俺もちょくちょく様子を見に来るが、万が一の時に、誰か傍にいてくれれば——おまえにも悪い話ではないだろう?」
「え、いや、だけど——」
しどろもどろに言いながら、江澄は向かいの藍曦臣に視線を送った。先ほどの反応から、彼が止めてくれないかと期待したのだ。よく知りもしない男と急に一つ屋根の下なんて、藍曦臣だって困るだろう。
ところが。
「晩吟、キミさえ良かったら、そうしてくれるかい?……やっぱりまだ、独りでいるのは辛いんだよ」
「ぐっ……」
可愛らしく小首を傾げ、藍曦臣がためらいがちに口を開く。昨夜のことを思い出し、江澄は言葉を詰まらせた。それに追い打ちをかけるように明玦が更に言い継いだ。
「おまえの勤め先は蓮花塢食品と言っていたな?」
「……はい」
「ウチの取引先の一つだ。そういえば、担当者がもう少し値段を下げてくれとか言っていたな。おまえさえ良ければ、少しくらい融通してやってもいいんだが……」
——それは反則だろうが!
内心の思いは口には出さず、江澄はしぶしぶ頷いたのだった。