ノンフィクション・フライデーナイト「ひとやさん、ただいまっす」
「おう、おかえり」
迎え入れた獄の自宅の玄関の淡いオレンジのライトが、獄の柔い笑顔を照らす。
慣れた様子で十四は玄関に靴を脱いで揃えた。そして勝手知ったるさまでリビングに進んでいく。
獄は十四用のコーヒーを入れるためにキッチンへと向かった。出会ってすぐの頃は牛乳にスプーン山盛りの砂糖が必須だったのに、時が経ち24になった十四に用意するものは乳白色も甘味も混ざっていない、大人の黒のみだ。
『金曜の夜は、獄の家で夜を過ごす。』
多忙を極めるふたりが、こうと決めたわけでもなく自然に生まれたルールである。
不特定多数の人間との関わりがある十四は金曜の夜に予定が入ることも多い上に、バンドの練習が金曜の夜遅くまで箱詰めになることも多い。獄も数分単位で手帳の予定が埋まっている人間なので、金曜の夜だって関係なく事務所にいることだってあるし、お客との会食で遅くまで外にいることも多い。
しかし金曜は獄は外泊はしないし、十四は自宅にも帰らない。どんなに遅い時間になっても、行き着く先は二人とも獄の家だ。お互いがお互いに会いたいという純粋な感情だけでなんとなく行き着いたこの習慣。それが心地よくって、二人とも小さな努力をしてこの家に帰っている。
「こんなに早くに金曜日帰れたの久しぶりっす」
「先週でかい箱でライブやったばっかだからな。お疲れ」
「えへへ、ひとやさんも来てくれてありがとうございましたっす。ちゃんと見えてましたよ」
「……時間作れたからな」
そう言って、ぶっきらぼうに獄の手から十四へとマグカップが手渡される。十四専用のマグカップに入った、淹れたてのブラックコーヒー。それをいとしく受け取った後に、十四は自分が座ったソファーの右隣をぽんぽん、と叩く。獄が十四と付き合って、十四が獄の自宅に定期的に来るようになってから新調した二人がけのソファーだ。
「はい、ひとやさんの予約席。今日は時間作れたんで、久しぶりにイチャイチャしたいっす。自分、ひとやさん不足でどうにかなりそうっすよぉ…」
「……予約席って、お前なあ…ここ俺の家だし俺のソファーだっての。それに…イチャイチャ、って…」
「だって最近金曜でも遅くなっちゃって…ひとやさんの寝てるとこにこっそり入るだけで寂しかったんですもん」
「わかった…わかったから……座ればいいだろ」
獄が渋々十四の右隣に座った。途端に十四が獄の方にぎゅん、と体を向け、獄の方へ十四のキラキラとした視線が突き刺さる。
「えっ嘘だろこの状態でしばらくいろってか」
「だめっすか。いつもみたいに映画見るのもいいっすけどいちゃいちゃしたいっす」
「…いつもみたいに映画見ようぜ…」
ええ、という十四の声を無視して、獄はスマートリモコンを起動してテレビの液晶をつける。
獄は十四を嗜める方法を理解している。もう長い付き合いだ。十四は最初こそうるさいが、集中する時は集中する。自身が音楽を職業にしているからか映画や芸術への関心は獄より強い。物語に一度入ると最後まで物語に感情移入してのめり込むから、最終的に映画に飽きてしまった獄より物語の本質を深く理解している時もある。
ひとやさぁん、と腕を掴まれるのも無視して、獄はスマートリモコンの操作を進める。月額の映画見放題システムのボタンを押して、トップページのおすすめ欄をスクロールする。人気俳優の主演作から、大ヒットした漫画の実写映画。興行成績上位の人気作。途中で飽きてしまいそうだな、と惰性でスクロールしていたときだった。
「この映画、初めて見たな」
「『ノンフィクション・フライデーナイト』…洋画みたいっすね」
外国籍、鼻の筋が通った美しい銀髪の男性が追われている…何かを追っているようにも見える場面がトップ画面として出ている。その画面の真下にある映画のジャンル説明には、『サスペンス』『洋画』と文字が写し出されていた。
「…サスペンスか」
「これにしますか? ひとやさん」
「ん…他が微妙だからな…今日はこれにするか」
「サスペンス…ドキドキするっすね! どんな映画なんっすかね」
さっきまであんなにぐずってたのに、こいつ…と、獄は呆れながらも再生ボタンを押した。まあ、ころころと変わるこいつの感情に振り回されるのもひさしぶりだし。たまにならいいか、と獄は数ミリ十四の側に体重を移動した。
画面が起動する。映画の制作会社のロゴが出てくる。以前十四とともに見た映画で見たことがある会社名のロゴ。以前見た映画も相当作り込みされていたし、制作予算がカツカツのチープな制作会社ではない。
視線を持て余した獄はちら、と視線を十四の元へずらした。ばち、と目があって、にこ! と効果音が出そうなほど満開の笑顔を向けられた。世の女性を騒がせて、貢がせて、恋をさせてそれで生活をたてている四十物十四が、たった今無償でただ一人の恋人のために最大級の笑顔を向けている。こんな40過ぎたおっさんに向ける顔ではないだろうに。獄は体温が急に上がるのを自覚して、視線を逸らす。出会ってから、付き合ってからももう長いのに、いつまで経っても獄は十四の笑顔にめっぽう弱い。出会った頃はずっと下を向いて泣いていた少年だったから、今上を向いて誇らしく笑う青年に育った、というだけで誇らしい。自分に向けるべき笑顔ではないとも思いつつ、愛しくって。それと、少しの独占欲で腹の中がぐるぐるとしてしまうのだ。
そんな獄はもちろん無視して、映画が始まった。
男ふたりが並んでソファーに座っている。ひとりは銀髪の髪の男。少し長い髪の毛から覗くブルーの瞳に、男たちの正面にあるテレビの液晶が反射する描写が描かれる。もうひとりは黒髪の男。少し癖っ毛で、肩まではかからない短髪だ。ソファーの上で体育座りをする形で、ポップコーンを食べている。
『リンボ、行儀が悪いぞ』
少しむっと眉を曲げた状態で、銀髪の男が酒の入ったグラスを持ち上げた。
『オルデキムのけちんぼ。今日のお仕事疲れたんだもん。ちょっとぐらい許してよ』
頬を膨らます黒髪の男。リンボ、と呼ばれた男性は反感の言葉とは裏腹に、足はちゃんとソファーの下におろした。そしてニコニコとリンボという男の緑の瞳が、オルデキムと呼ばれた銀髪の男に詰め寄った。
『イライラしてるの、オルデキム』
『別に…』
『オルデギムはわかりやすいからなぁ』
そういうと、黒髪の男は銀髪の男にキスをした。獄の隣でひゃあ、と声が聞こえてきたので、十四は今赤面して顔を覆っているのだろう。安易に想像がつく。普段はもっと過激なことを獄にしているはずなのに、いつまでもこのようなシーンで赤面する十四を獄は複雑だが愛しくも思う。再び画面に注目すると、ふたりの男はソファーで事をしそうな体勢になっていながらも、冷静に会話をしていた。
『…リンボ……借りてきたビデオを見るんじゃなかったのか、返却期限明日までだろ』
『そうだった…! 見終わったらまたイチャイチャしようね、オルデギム』
『うるさい』
この画面の男達、まるで今の獄と十四のようだ。ふたりの外観といい、今起きているシチュエーションといい。偶然だろ、と獄は隣の十四に視線を移動した。ソファーの隣、クッションを抱きしめたまま早くも画面の虜になっている十四。…偶然だ、そう言い聞かせて獄もまた画面に視線を向けた。
画面の物語は進んでいく。リンボという青年はカフェの店員で、オルデギムという男の家に居候している20代前半の男。すらりとした細身のモデル体型と、甘いベビーフェイスで常連の女性を虜にしている。対してオルデキムという男は銀行員で、そこそこの役職についており金には困らなさそうな男。リンボとオルデギムは恋仲で、各々の生活を過ごしながら同じ屋根の下に集う彼らは、ソファーの上で穏やかなふたりだけの愛を育んでいく。
「…なんだか、サスペンス…? というより、恋愛映画みたいっすね」
「…そうだな」
十四が獄の肩に寄りかかる。寄りかかった十四からは整髪剤と香水の香りがした。
リンボとオルデキムの日常はゆっくりと過ぎていく。週に何回か休日が被るふたりは、リンボがビデオを借りて見てはオルデギムがそれを返却する。
その翌週も、その翌週も。
『……リンボ』
『なあに、オルデキム』
『…この映画、先週も見なかったか』
『…同感。タイトルは違うはずなのに、何だか同じような気がするよ』
リンボとオルデキムが見ているのは、「ふたりの男が映画を見ている」映像だった。同じくふたりがけのソファーで。淡々と男達が映画をふたりで見ている。その様を、リンボとオルデキムが見ている。獄の背中に、悪寒が走った。まるで、今の自分達のような絵だったのだ。
『来週は俺が借りてくるよ。俺が借りてくるなら内容も変わってくれるさ』
『わかった。お願いね、オルデキム。』
そしてオルデキムがビデオ屋でビデオを借りる様子が画面に映った。冬物のロングコートの内側に颯爽と借りたビデオを入れて、帰路に着く。
『…また…同じ内容なのか…』
『…流石にちょっとおかしいね、』
画面の中の彼らは困惑してビデオを抜いた。確かに、さっきのビデオとは違うパッケージが出てくる。
『エッチなビデオでもこの内容になるのかなあ』
『リンボ』
『ごめんって、怒らないで』
『……』
『明日、僕の同僚に頼んでビデオを借りてくるよ』
画面の中の場面が転換する。銀行のビルの窓際で、オルデギムがコーヒーを飲み、タバコを吸っている。そこにファイルを抱えた女性が寄ってきた。
『ご機嫌はいかが、オルデキム。』
『……最悪だよ』
『あら、何かあったのかしら』
『……信じられるか、恋人と見る映画がずっと同じ内容なんだ。俺達はソファーに座って映画を見るんだが、俺たちをそっくりそのまま写したような映画をずっと見させられてるんだ。どんな映画を借りてもだ』
『…それって、ストーカーとかじゃないの?』
『…は? ストーカー…』
『貴方のパートナーって、モテるでしょう。常連客にビデオ屋の店員がいれば工作は可能よ。貴方達の家に監視カメラを仕掛けて、同じような映像を作って、ビデオとして提供することは可能じゃないかしら』
『…そ、そんな…』
『ストーカー…?』
場面はリンボとオルデギムの自宅に移った。オルデギムの手の中にはビデオテープのケースが握られている。立ち上がったままのオルデギムの横のテレビの中ではまた、男たちが映画を見る姿が写しだされていた。
『そうだ、リンボ…心あたりあるか』
『…ない…! ないに決まってるよ!』
『…そうか。…この不快な行動をする奴が誰か俺は確かめたいんだが』
『それって、危険じゃない…?』
『許せなくないか。せっかくの休日の楽しみを不愉快にさせられているんだ』
『僕はオルデギムのことが好きだから…大切だから、危ない目には合って欲しくないよ。もうビデオを借りなければいいじゃないか』
『そういう問題じゃないだろう!』
怒鳴り声を上げたオルデギムに、リンボは肩をびくつかせた。
『…っ…すまない…頭を冷やしてくる』
場面は引きのアングルになり、ふたりの家を映し出す。電柱の影に、女性のワンピースのような布切が写った。
獄が何を思ったのか十四は悟ったか否か、獄の太ももに乗せられたままの獄の手の甲を包むように十四の手が重なった。
リンボとオルデキムの状況は解決しない。ふたりはビデオを借りるのはいつからかやめていた。ビデオだけではなく、民間放送までがジャックされてしまい、通常のチャンネルを見ようとしても同じ映画が流れる。男ふたりが淡々と映画を見る映像。日に日に画面の男たちも会話がなくなっていく。日に日にリンボとオルデギムの仲も険悪になっていく。
『ねえ、オルデギム。また…犯人を探しにいくの』
『…何か問題があるのか』
『…しばらく、オルデキムとお話しできてない』
『…仕方ないだろ、お前のためでもあるんだ。お前に何かあれば、カフェの常連が悲しむだろう』
『…オルデキム…ねえ、ここのソファーの隣は君の予約席なんだ。君がいないとダメなんだよ』
途端、急にオルデギムとリンボの間にあるテレビが起動した。
『…ノン…フィクション』
ノイズが混ざる液晶に、大きく映る「non-fiction」の文字。画面はふたりの自宅を映し出す。その近くにある電柱の影に、フード付きのワンピースをきた女が睨むようにふたりの家を見つめている。
『この女か…!』
『オルデキム!! 危ないから…行かないで、頼むから!』
『すぐ戻るから、お前は待ってろ』
力強く閉められた玄関の音。それを聞いて、リンボは膝から崩れ落ちた。
『ねえ、オルデキム。このソファーの隣は、君しか座れないんだから。はやく…帰ってきて』
オルデギムは雪が降る世界に飛び出していく。それを待ち受ける女の手には、ナイフが握られていた。
─ぶつん!
「…!」
「ごめん、ひとやさん…ちょっと、怖くって切っちゃった。」
ごめんなさい、という十四の手にはスマートリモコンが握られている。目の前の液晶は真っ暗だ。もう映画も、何も写しては居ない。呆気に取られた青い顔をした獄の顔だけが写っている。
「…大丈夫だ。なんだか…他人事じゃないような映画だったな」
「サスペンスっていうより、後半ホラーだったっすよ…怖かったっすね、ひとやさん。コーヒー淹れ直しましょうか」
「……いい…大丈夫だ。…ちょっとだけ、隣にいてくれないか」
十四は獄の空気が読める。長い付き合いだ。獄は表情でこそ出さないが、代わりに全身で表現してくれる。自身が言葉で闘う職業だからだろうか、自分の本心を言葉で出してしまうとそれが事実となって尾がつく。本心はなかなか言ってくれないのだ。代わりに顔や、空気や態度で示してくれるのだけど。それが十四は愛おしくって、好きになった。
…もう長い付き合いだ。何度も何度もこのソファーでさまざまな物語を見てきた。獄は、意外と情に弱い。バットエンドは割と引きずってしまう。
「…俺らも今、誰かに見られてる、利用されてる物語の役者なのかもしれねえな」
「…哲学的っすね!?」
「俺らがもし。もしだ。誰かにとってのフィクションだったらどうする」
「む、難しいっすね…?でも自分はフィクションじゃないし、それに…ひとやさんのピンチに黙ってお家でまってるなんてことしませんよ! …勝手にひとやさん刺されちゃう時もあったけど…ひとやさんが危険だってわかってる状態で、大人しく待ってるなんてしません! 自分だって強くなったし、修行もしたし、戦える。ひとやさんだって、そうでしょ? 自分がピンチのとき、傍観者じゃなくって、実際に何度も…助けてくれたもの。」
十四がまっすぐに獄の目を見る。ソファーの上、向き合って握った獄と十四の手と手は、確かにお互いの体温が流れていた。
「確かに、自分達は誰かにとってのフィクションかもしれない。でも、いまひとやさんと自分がここにいること、ひとやさんの目の前にいる十四もノンフィクションでしょ? それとも、ひとやさんは自分の気持ちもノンフィクションだっておもう?」
ふるふる、とひとやが首を降った。それを見て十四は安心したように、勝ち誇ったように微笑んだ。
「ひとやさんと自分の気持ちは、画面の中の人たちにも負けない。絶対ここからひとやさんをひとりにはさせない。大丈夫だよ、ひとやさん。
ここは未来永劫ひとやさんの予約席なので!」