ネモフィラ「理人様〜! ここ行きましょう!」
三月の下旬、春休みに入ったであろう九子がもう当たり前のように、いや、もう日常の一つになっててもおかしくなかったが、理人の事務所に来て早々に手に持っていたチラシを理人に差し出す。差し出して渡した後、いそいそと事務所のキッチンへと行き、引き出しから急須と茶筒を取り出すと、やかんに水を入れて火にかける。これも見慣れた光景、言ってしまえばルーティンと化した行動だ。それよりも、理人は渡されたチラシに目を通す。それには、青い可愛らしい花───ネモフィラの写真が映っており、ネモフィラ祭りと書かれていた。行きましょうとはこういう事か、と理人ははぁ、と軽くため息を吐く。
「理人様、お茶どうぞ」
明るい声で九子はお茶をテーブルに置く。そしてニコニコと笑って理人を見る。
「隣町なんですけど、ネモフィラが綺麗に咲いてるようで……理人様! 一緒に行きましょう!」
「……」
いつもだったら小言を言うのだが、黙り込んでチラシを見つめていた。そして頭をガシガシと手でかくと、九子の方へ顔を向けた。
「行ってもいいけど」
理人のその一言に、九子はぱぁ、と笑顔になってその場でぴょんぴょんと跳ねながら喜んだ。
「理人様〜! いつ行きますか! 明日ですか!? きゃぁ〜! 理人様とデート……」
「明日は仕事があるし……明後日ならいいけど」
「明後日でも大丈夫ですわ! お洋服も選ばなきゃ……髪の手入れも……きゃぁ〜!」
そう言って喜んでいる様子を遠く眺める理人、これは何言っても浮かれているなと思いつつ九子が淹れた茶をすする。自分と出かけてそんなに楽しいものだろうか、と九子の気持ちが未だに分からずにいた。分かろうとしていないのもあるのだろう、彼女の自分に向けてる気持ちは学生特有の、年上の大人がカッコイイだとか、好きをカッコイイと勘違いしているだけだと思っていた。
そもそも、恋愛として好きというよりか、最近の言葉で言うならば、推しというものだろう。勝手に推されても困るのだが、と思いつつ自分がどんな小言を言っても気にしてない様子の彼女にも慣れてしまいそうだった。とりあえず今は、明日の仕事と明後日の出かけを考える事に思考を向けた。
日にちは過ぎて、出かける日となった。空は真っ青な青空が広がっており、気温も昨日の寒さとは違って、陽の光が暖かく春の日差しと言っても過言ではなかった。電車で隣町まで行き、ネモフィラが沢山咲いている会場へと足を運ぶ。一面に広がる、青空にも負けていない、目に映る青の光景に九子ははしゃいでいた。理人も、チラシで見ていた風景と違うように見え、じっと見つめていた。
「ネモフィラと理人様……まるで絵画ですわ……」
そう呟いたかと思うと、カメラを向けて一心不乱と言ってもおかしくないほどに理人を撮っていた。相変わらずだ、と理人は呆れた様子で見つめていた。そして、九子を呼ぶように手招きをする。
「理人様?」
「俺ばっか撮っても飽きるだろ、ほらこっち」
理人がそう言うと、辺りを見回して声をかけれそうな人を探すと、カメラを持って丁度目についた相手へと駆け寄る。二言話した後、相手がカメラを持ってこっちへレンズを向けた。
「ほら、隣」
「り、り、理人様とツーショト……」
「興奮して暴れるなよ、あと鼻血も出すなよ」
「はい!」
その会話を聞いてどんな関係なんだ……と相手に思われてそうだな、と理人は苦笑いをしそうになる。そして撮った後、理人と九子はお礼を言ってカメラを受け取った。すると、九子は指を指して理人に言う。
「理人様! アイス食べましょう!」
「別にいいけど」
そう言って屋台の方へと行く、屋台は数個ありネモフィラの花びらのようなアイスが売られていた。まるで花束のようなアイスだな、と理人は思いつつ、九子を待たせると買いに行った。理人は食べようとは思わなかったのだが、仕方ないなと二人分購入し、九子の所へと戻る。
「可愛らしいですわ……あ、理人様……お金」
「別にいい、甘えとけ」
「理人様……!」
「はいはい、食べろ食べろ」
九子にアイスを渡すと、理人も一口食べた。口の中に広がる甘さに、たまにはこの甘さも食べていいなと思いつつ、九子の方を見た。九子も、アイスが美味しかったのかニコニコと笑っていた。すると、九子は理人を見るやいなや、固まってぷるぷると震え出した。
「なんだ、どうした」
「り、り、り、り、理人様……! その顔は卑怯ですわ……! カメラ……! 撮れなかった……! もっと目に焼き付けたかったですわ……!」
「どうしたお前……」
自分は普通に九子を見ていただけなのだが、どうやら相手からしたらそうじゃなかったらしく、挙動不審が似合うほどに慌てていた。そんな九子の反応が慣れている自分にも呆れそうになりつつ、アイスを食べる。
お土産を買いたい、という事で土産屋に入る。ネモフィラモチーフのお土産が数多くあり、九子は楽しそうにお土産を選んでおり、理人はそれをみつつ何となく歩いていた。ふと、ある物に目が止まり、それを手にする。すると、たまたま近くにいた中年の店員が理人に声をかけてきた。
「彼女さんのプレゼントにしますか?」
店員はニコニコと笑いつつ理人をみる。否定しようとしたが、何故か逆らえずなし崩しに買う。まぁいいかと思いつつ、お土産を選び終わって買ってきた九子が駆け寄ってきた。
「理人様! お待たせいたしましたわ!」
「別に待ってないから、電車の時間あるからそろそろ行くか」
夕方、土産屋から出ると丁度夕焼けが見えてくる。青空だった空は夕焼けのオレンジ色に染まりつつあり、それに合わせてネモフィラもオレンジ色に染まって、綺麗だった。
「わぁ……綺麗ですわ……!」
「……綺麗だな」
理人はそう呟いた後、九子に土産屋で買ったものを渡す。
「……これは……?」
「開けていい」
理人にそう言われ、包みを開ける。開けた時、九子は表情を変え、バッと理人を見る。
「理人様……! これ……!」
「……まぁ、お前に似合うんじゃね?」
それはバレッタだった。白いリボンのデザインで、ネモフィラの花の飾りが小さく着いていた。リボンと言えば九子だなと見ていた時に店員に声を掛けられ……の流れに繋がったのだ。
「一生大事にしますわ!」
「はいはい、電車来るから駅行くぞ」
「はい!」
夕焼けに染まる道を二人歩く、理人からのプレゼントで鼻歌交じりに歩く九子を横目に、理人は少しだけ微笑んだ。その微笑みは、昼間アイスを食べていた時に九子に見せた優しい微笑みと一緒だった。