ユートピアあ、と思った時には遅かった。
「狂児!」と叫ぶ小林の声が聞こえたと同時に、体が勝手にぐらり、と傾く。無意識に右脇腹を抑えた手が生暖かく濡れ、指の隙間から赤いものが溢れ出す。傾く視界がスローモーションになっていく中、このままやと地面に頭ぶつけてまうな、頭打つんはさすがにあかんよなあ、それ以前に腹に穴開いとるから意味あれへんかもしれんけど、と狂児は他人事のように考えながら少し体を捻った。まず肩からコンクリートに着地して、そのあとぶつけた左肘から「ぽきん」と間の抜けた音がした。人を殴る音は鶏肉を捌く音に似てるけど、骨が折れるんはポッキーみたいな音すんねやな。知らんかった。ポッキー、しばらく食うてへんな。パフェに刺さっとるやつ食いたいわ。死ぬ前はどうでもええこと思いつくもんなんやな。走馬灯とかうせやん。まあええか。
もう一度「狂児!」と呼ぶ声がして、それから誰かの悲鳴と足音とサイレンが遠くに聞こえた。
「お前、そんな体張った冗談とかいらんから」
「…はあ」
「はあ、て今日なんの日か知っとるか」
「今日…」
「エイプリルフールや。さっき書類書いてて気付いたわ」
病院のベッドの上、麻酔から目覚めた狂児が目にしたのは白い天井と、それからベッド脇のパイプ椅子に腰掛けた小林だった。体を横たえたまま、目だけで病室を見渡す。それから三角巾でつられた自分の左腕を見た。
「入院したん、生まれて初めてです。あ、生まれた時以来でした」
「そんな細かいことええねん。名前、書けるか?」
差し出されたボールペンを狂児は受け取る。小林はサイドのスイッチを操作してベッドの上体を起こした。そして狂児は備え付けられたテーブルの上の入院承諾書に目を落とす。ペン先が「成田狂児」と動くのを見ながら小林は続けた。
「あのクソが。素人がびびって弾撃ちよって。ああいうんがいっちゃん厄介やわ」
「あれ、どこで手に入れたんでしょう」
「出入りしとったクラブの知り合いから買うたらしいわ。改造銃やったな。一般人に当たらんで良かったわ。いうてお前に当うとるけど。しかしお前もアホやなあ。あんな堂々向かってって。死ぬやろ」
「そうですね」
「そうですねちゃうわ」
「銃、持ってるとは思わなかったんで」
「ああいう時はチャカやなくても刃物持っとるかもしれん言うたやろ」
早朝、多重債務で首の回らなくなったという男のアパートへ小林と共に向かった。狂児が玄関を蹴破った瞬間、中にいた男は全てを察したのか真っ青な顔をしてすぐに二階の窓から飛び降り、外に張っていた組の仲間も振り切り逃走した。
「あいつ学生時代、地元の代表で陸上のインハイでたらしいで」
「そら足早い訳ですね」
「おかげで早朝マラソンする羽目なったわ。市民ランナー3人抜きしたで」
路地裏まで逃げたのを追い詰め、「来るな!!」と叫ぶ男を無視して狂児がすたすたと距離を詰めた瞬間、相手は後ろ手に隠していた銃を発砲した。
「お前撃ったあと、ガタガタ震えよって泣きながら警察連れてかれたわ」
小林の顔見知りの警官から聞いたいくつかの話を、狂児はぼんやりと聞いていた。
「来るな言われても近づかんとなんもでけへんな思って」
「やからってあんなすたすた近づくんはあかんわ。野良猫触るんももっと慎重にやるやろが」
「野良猫、アニキに寄ってきますもんね。あれなんでやろ」
「猫と子どもには好かれんねん。それよりほんまに気いつけや。お前のやり方やとすぐ死ぬで。こういう仕事やけどいつ死んでもええのんと、いつ殺されてもええのは別もんやからな。お前アホな死に方だけはしなや」
「気ぃつけます」
狂児のいつもの淡々とした受け答えを聞きながら、ふうと小林はため息をついた。
「もうちょっとお前はこの世に未練作ったほうがええわ。女でも金でもなんでもな」
「未練…」
少し眠たそうに呟いた狂児を見ながら、小林は席を立った。
「しばらく病院暮しなるやろて、たまにはゆっくりしときや。ここなら上げ膳据え膳でのんびりできるわ。退院したらまた働いてもらうからな。それまで腹の穴ちゃんとふさいどけよ。あとその腕も先生にちゃんとくっつけてもらい」
「はい」
「着替えいるな。あとなんや欲しいもんあるか?買うてきたるわ」
眠たげに何度か目を瞬いてから狂児は答えた。
「ポッキー食べたいです」
「なんでやねん」
小林は怪訝な顔で狂児を見たあと「ちょっと待っとれ」と言って病室を出ていった。それから少しして買い物袋をぶら下げ戻ってきた。歯ブラシとタオル、髭剃り、下着の替えをいくつかとポッキーを一箱をテーブルに置いた。
「ありがとうございます」
「アニキにパシリさせるてお前も偉うなったな。買うてきたけど、お前腹縫うとるんやからまだすぐは食われへんからな。傷口からポッキー生えて来るで」
「はは、いてて」
「笑うんも気ぃつけや。縫うたばっかりやからな。モツも出てきよるぞ」
小林は着替えや歯ブラシを棚にしまいながら続けた。
「俺んとこの爺さんがな、戦争中にフィリピンに出征したんやけどジャングルん中で撃ち合いなって相手から弾食うて腹に穴開いたんやて。軍医にこらあかん一晩持たへんで言われたらしいんやけど、爺さんひたすら寝て、傷もなんとか塞がったら、今度は飯食ってまた寝て繰り返したらあっちゅうまに治った言うてな。そん話ガキん頃何べんでも聞いたわ。まあデタラメな爺さんやったから話盛っとるかもしらんけど、いつでもどこでも構わんとそういうん出来る奴が一番長生きするんやろな」
もう一度狂児を見てから「また様子見にくるわ。お大事に」そう言って小林は帰って行った。静かになった室内で、棚に置かれたポッキーの赤い箱を狂児は眺めた。先程小林に言われたことを思い出す。
この世に未練がないのかと言われたら、ないのかもしれない。死ぬのも面倒だけど、生きるのも面倒だ。畳の上では死なれない稼業。道端でも、海でも山でもどこでもそこが死に場所になる。そもそも人の形のまま死ねるのだろうか。わからないけど、それすらどうでもいいような気がしてきた。
夜半に熱が上がり始め、回診にきた医師に解熱剤を処方された。虚ろな意識のなか、点滴が一滴、また一滴と規則的に落ちるのを見ながら眠りに落ちた。
気がつくと狂児は生まれ育った家の居間にいた。目の前には母親が座っている。腕の中にはまだ赤ん坊の自分が抱かれ、眠っていた。なんでこの視点なんやろ不思議やな。俺あそこにおんのに。幽体離脱てこんな感じかな。そう思っていると母親が呟く。
「もーオトンほんま信じられへんわ。勝手にあんな名前書き換えよるなんて」
俺の書き換えられた出生届を握りしめ、京一兄ちゃんと入れ違いにそそくさと役所へ出かけていったじいちゃん。一部始終をすぐ横で見ていた京子姉ちゃんがオカンに話してすぐに発覚したらしいが、後の祭り。帰ってきてからこっぴどくじいちゃんのこと叱ったし、オトンも仕事から帰ってきてから「えっなんで?なんでそんなことなってん?画数変わってまうやん」と言っていたらしい。そらそうやんな。なんの事故起きたか思うわ。それこそ、冗談みたいな日やん。いうかオトン画数考えてたとかうせやん。やって京一、京子の流れなだけやったやろ絶対。
「まあ、でも狂児もかっこええか。なんや強そやなあ。なー狂児くん」
京ニになるはずだった俺をあやしながらおかんは笑いかけた。オカン昔から細かいこと気にせえへんな。
「狂児くん眉毛はオトン似やけどお父さんに似て男前やな」
おかんにも似とるけどな。眉毛も。遺伝てすごいな。玄関の開く音がして「ただいまー」と京一兄ちゃんの声が聞こえた。
「京一おかえり。ほら狂児、京一兄ちゃんが帰ってきたよ〜」
「狂児寝てんの」
「お昼寝してるよ。あ、京一冷蔵庫におやつあるよ。プリン」
「やった!今日な、公文で狂児の字習ったよ」
「あらほんま。ちゃんと書けた?」
「書けたよ。簡単やったわ」
「お兄ちゃん狂児の字もう書けるて。すごいなあ」
「狂児もはよプリン食べられるようなったらええのにな。一緒に食べたいわ」
ふたりが狂児の顔を覗き込む。いつの間にか自分は母親の腕の中の赤子になっていた。腕の中で辺りをを見渡すと、兄の姿はなくそこは産婦人科の受付だった。
母子手帳の記名欄を確認した受付の女性が少し驚いたような顔をしたのを見て、おかんはにこっと笑った。「かっこええでしょ」
「成田さーんおはようございます。検温の時間です。お熱計らせてくださいね〜」
元気のいい看護師の声で目が覚める。熱は下がっていた。
翌日から入れ代わり立ち代わり組の兄貴たちが見舞いにやってきた。
「狂児お前看護師のお姉ちゃん達からえらい人気やて聞いたで〜夜中にのっかられてへんか」
「兄貴エロビの見すぎです。やけど何人かにメアド聞かれました。ミクシィも」
「教えたんか」
「一応」
「かわええ子いたら教えや」
「はあ」
病室には退屈しのぎ用にと皆から持ち込まれた週刊誌や携帯ゲーム、テレビカードがうず高く積まれていった。
一週間たってベッドから起き上がり、動けるようになると狂児はリハビリがてら院内を散歩するようになった。病院一階の携帯が使えるエリアに行くと、携帯電話を取り出す。折り畳みを開き電話帳を検索し、通話ボタンを押す。4コールののち、懐かしい声がした。
「もしもし、狂児?」
「オカン?久しぶり」
「久しぶりて久しぶりすぎるわ。掛けても留守電になったり圏外なったりばっかで死んだか思ったやない。あんた元気にしてるん?」
「元気やて。ちょっと怪我はしたけど」
「怪我?!あんた危ないことしてるんやないやろね」
「ちょっと撃たれただけやから」
「は?!ちょっと撃たれるてなに?そんなんにちょっともなんもないやろ」
「ほんまに大丈夫やて」
「大丈夫てほんまやの?」
「電話かけて話せるくらいには元気やから」
電話の向こうから「はー」とため息がしてから「たまには家に顔出しや。京子も心配してんねんで」と和子は言った。
「俺ヤクザやけどええのん」
「当たり前やろ。何言うてんの」
「うん。わかった。またな」
電話を切り、ポケットに携帯をしまう。
ついでに売店で飲み物でも買おうと病院のロビーを歩いていると、前を大きな鞄を荷物を肩にかけた持った女性が歩いている。その腕の中から「ふぇ」と泣き声が聞こえた。
「あらあら、どないしたんー?これからお家帰るんやで」
女性がその場に立ち止まり、体をゆすりながらあやしていると、鞄の上に乗せていたタオルが床に落ちた。
「あの、これ落ちましたよ」
「あ、ありがとうございます」
狂児を振り返り女性はタオルを受け取ると、頭を下げた。赤子はまだ腕の中でぐずっている。
「あの、」
「え?」
「荷物、大丈夫ですか。良ければ持ってますけど」
女性は狂児の吊り下げられた左手を見た。
「でも、腕」
「あ、せやった。忘れてた」
「忘れてたて」
そう言ってふふ、と女性は笑う。
「利き手は使えるんで」
狂児は右手をあげて見せた。女性は少し逡巡したあと、肩から荷物を降ろした。
「すみません。ほなちょっとだけ。でも無理せんと下置いてもろても大丈夫なんで」
「帰らはるとこなら外まで持ってきましょうか。タクシーですか?」
「ほんとすみません。助かります。あ、じゃあそこ置いていただいたら。待ち合わせしてるんで」
病院の外に出ると、入り口脇にあるベンチを女性は指さした。荷物を置くとその隣に女性は腰掛け、なんとなく狂児も隣に座る。春の暖かい日が差し、どこからか薄いピンクの花びらが飛んできた。地面にもいくつか花びらが落ちていて模様のように見えた。
そういや組の花見大会出られへんかったな。そう思っていると赤子の頬に花びらが一枚落ちる。頬の産毛が日に当たり透明に光って見えた。
「ちっさ…」
赤子の顔を見て、そう呟いた狂児の言葉に母親は微笑みながら桜の花びらを指先でつまんだ。
「ほんまにありがとうございました。この子、この間産まれたばっかりで」
くるみを少し開くと赤子が顔を覗かせた。
「聡実、ほら、お兄さんにこんにちはーて」
「さとみちゃん?ですか?」
「君、です。男の子」
ふふ、と笑った目尻が赤ん坊と似ている気がした。閉じていた目がふいにぱちりと開くと、茶色の澄んだ目が狂児を見た。
すごいな、どこもかしこもぴかぴかやんな、狂児は赤子の顔を見ながらそう思う。
「まだ出生届だすのこれからなんですけど、名前は決めてて」
「さとみくん、どんな字書かはるんですか」
「聡いに実るで聡実です」
「ええ名前ですね」
「ありがとうございます」
そういうと母親は眩しそうに笑った。
「お兄さんは腕、怪我されはったんですか?」
「ちょっと事故で腕折って腹縫いました」
「えっ、お腹まで?そら大変やないの。ごめんなさい、そんな重たい物持たせてしもて」
「いえ、俺が持ちましょか言うたんで。それにちゃんと縫うてもろてるんで大丈夫です」
「縫ってるいうて破けるんよ」
「破けるんですか」
真剣な面持ちで言う母親に狂児は聞き返した。
「そうよ。昔私盲腸やったことあるんやけど、うちのお父さんと付き合おうとる頃でね、縫った直後やいうのにお父さんアホなこと言って笑かしてきてね。大笑いしたらズキズキーなってね。破けそうになったのよ。やから気ぃつけなあかんよ」
「はあ」
「お手洗いも笑うんも気張り過ぎたらあかんのよ。ゆるくしといたらええわ」
「ゆるくですか」
「そうよ。手術しはったんならお兄さんまだ入院中?」
「はい。エイプリルフールに色々やってもたんですけどアホやなってアニキに言われました」
「あらおんなじやわ」
「え?」
「この子エイプリルフール生まれなんです。聡実くんお兄さんとお揃いやねえ」
そう話しかけると、何を言われたのか分かったように、赤子はふにゃふにゃと笑った。
「お兄さんみたいに優しい子になってくれたらええんやけど」
「いや、俺は、」
狂児が言いかけると、遠くから「おかーさーん!」と呼ぶ子どもの声が聞こえた。
「あら、うちの子帰って来たわ」
祖母らしき女性と幼稚園の鞄を斜めがけにした子どもが音を鳴らしながら子どもが駆け寄って来た。
「正実おかえりー、今日幼稚園どうやった?」
「歌うたったらな、先生にほめられてん。な、お母さん赤ちゃんはよ見して」
「よかったなあ。ほらー聡実、お兄ちゃん学校から帰ってきたて。おかえりーて」
正実と呼ばれた子どもは母親の腕の中を覗き込むと、にこーと笑った。
「僕の弟かわええなあ」
「かわええねえ。正実もこんなちいちゃかったんよ」
正実は隣にいる狂児に気づくと、母親の服の裾をひいた。
「なあお母さん、この兄ちゃんだれー?」
「このお兄さんな、さっきお母さん困ってた時助けてくれはったんよ」
「ふうん。ありがとな。兄ちゃん腕ぐるぐるしてんのんかっこええな」
正実は狂児の吊られた左腕を見た。
「かっこええかな?」
「かっこええよお!ええなあ僕もそれしたい」
「こら正実、アホなこと言わんの。お兄さん怪我してはるんやで」
「痛いん?大丈夫?」
「うん、大丈夫。ありがとな」
ベンチから降り、その場にしゃがむと、正実と目線を合わせる。
「ボクの弟かわええな」
「ええやろー」
にこーと正実が笑うと、下の歯が二本抜けていて狂児は思わず「ふはっ」と笑いが出た。
「なんー?」
「自分歯、抜け替わりやんな」
「せやで。歯な、おとなの歯がはえるからその前のがぐらぐらーてして抜てん。な、お母さん」
「せやね」
「おとなの歯はえるんはええんやけどな、カルピス飲むとな、こぼれてまうねやんか。はよはえてほしいわ」
そう言って抜けた歯の隙間からからにゅっと舌を出すのを見てまた狂児は「ふはっ」と笑うと、脇腹がひきつるように痛んだ。
「あ、いて、」
「あっ!大丈夫ですか。もー正実あんまり笑わせはったらあかんのよ」
「いえ、大丈夫ですんで。ボクそら大変やな」
「せやねんで。ぼく大変やねん」
大げさにそう言う正実にまた笑いそうになった時「狂児ー」と呼ぶ声が後ろからした。
「あ、アニキ」
「なん、散歩かお前」
「まあそんなとこです。あ、俺のアニキです」
「どうも」
母親達に頭を下げた小林を正実は見上げた。
「おじさんかっこええなあ。それサングラスいうんやろ。僕知ってるねんで」
「おーボク賢いなあ。せやでサングラスいうんよ」
正実が小林と話している横で「あの、きょうじ、さん?」と呼びかけられた。
「はい?」
「ほんまにありがとうございました。体お大事にね。無茶したらあかんよ」
「はい力まんときます」
狂児はふ、と笑った。
「ほな、正実そろそろ帰ろか。ごはん食べて帰ろ?」
「パフェ食べたい!」
「パフェはご飯ちゃうやん。ほらお兄さん達にさよならーて」
「ほな兄ちゃん、またな」
そう言って正実は手を振った。「またな」という言葉に狂児はふは、と笑う。
「うん、正実くんほなまたな」
話しながらタクシー乗り場に向かう三人の後ろ姿を見ながら、小林は狂児に話しかけた。
「なん?どちらさん?」
「さっきそこで知り合うて、ちょっと話してて」
「お前ちびっ子にもモテよるんか。範囲広いな」
「アニキもモテはったやないですか。あと猫にもモテはるし」
そして小林は「ほい」と袋を手渡す。
「着替え持ってきたで」
「ありがとうございます。退院、月末くらいには出来そうやて今朝先生に言われました」
「そらよかった。アニキ達も喜ぶわ。ほな退院祝いしたるて。何欲しい」
狂児は少し考えてから口を開いた。
「ほなパフェ、食いたいです」
「パフェぇ?さっきのちびっこと同じこと言いよるやん。5歳児か」
「腹打たれた時に食いたいなー思うてたの、思い出しました。ポッキー刺さっとるやつがええです」
「なんで腹打たれてポッキーやらパフェやら食いたなるねん。ほんまお前変な奴なあ。まあええわパフェな、でかいの食わせたるからきっちり完食せえよ」
「腹から生クリーム出てきたらあかんので普通のんでええです」
狂児が後ろを振り返ると、母親と手を繋いで歩いて行く正実も振り返った。手を振ると正実もばいばいと大きく手を振った。
「聡実くーん、頭ちゃんと乾かさんと風邪ひくで〜」
風呂上がり、真っ先に冷凍庫の棒アイスを取り出し咥えた聡実の頭を狂児はタオルごとくるんだ。そして向かい合わせに座り足の間に挟み込むと、聡実の頬に唇を落とした。
アイスを咥えたまま「頭拭くかどっちかにしてや」とくすぐったそうに聡実は言った。
「聡実くん俺にもアイスちょうだい」
「ん、」
口先に差し出されたアイスは無視して、聡実のひんやりとした唇にむしゃぶりついた。薄く開いた唇に舌を差し込み、聡実の舌の上に溶けたミルクを吸い上げる。鼻から抜ける「んん、」と言う甘い声を聞きながら腰を抱くと、聡実も片手を回してきた。しばらく口の中を堪能している聡実の左手が狂児の右脇腹をこづいた。
「っは、ちょ、もーこっち食べや。いうか溶けてもうてるし」
「えー?」
狂児は手に握られたアイスにしゃくと音を立てて新しい歯型をつけた。そのまま聡実の手の甲に伝ったものを舐め取る。聡実はまた狂児の右の脇腹を撫でた。
「なん、聡実くんこそばゆいわ」
「そういえば狂児さんてここ、傷あんねんな」
脇腹の一箇所をさわさわと撫でながらそう言った。
「んー?古傷いうやつよ」
「これ、打たれたん?」
「むかーしな。まだやくざなったばっかくらいん頃。下手こいてな」
「…痛かってん?」
痛さは忘れてしまったけど目の前の聡実が痛そうな顔をしていると少し、傷がうずく気がした。
「そんな痛なかったよ」
「ほんまに?」
「ほんまよ」
聡実の指先がまた傷跡に触れた。でこぼこの、丸い跡をなぞる。
「なんやクレーターみたい。月にあるやつ」
「ほんまやね」
狂児は聡実の口に咥えたままの棒を歯の隙間から抜き取ると、ゴミ箱にほかった。
ふ、と狂児は思い出す。あの時、母親の腕のなかにいたあの子の名前なんやったかな、たぶん聡実くんと同い年くらいの。昔の記憶をたぐり寄せていると、聡実の目が狂児を見た。部屋の明かりを受けて澄んだ白眼の部分がきらきらと光る。
「狂児」
「うん?」
「怪我、もうせんといてな」
狂児はしばらく聡実の顔を見てから、湯上がりの暖かい肌を胸に抱いた。
「うん。やって、聡実くん置いて死なれへんもん」