港町に夜逃げした猗窩煉逃げるように実家を出た後、辿り着いた町は港が近く潮の香りがする田舎だった。


　猗窩座と杏寿郎が勢い任せに飛び出したあの晩、二人そろって無性に地平線から昇る太陽が見たくなって、渋る猗窩座を宥めながら「何処でもいいから海の方へ」と強くねだったのは杏寿郎だった。一番最初に朝陽を見た町で暮らすことになるだろうと、どちらともなく決意をしながら、それでも口には出さずに宛てもなく車を走らせた。

　築年数が自分の年齢をゆうに超えているアパートは、曰くつきでない限り理由の説明が出来ないほど家賃が安く、その割に空室ばかりが目立っている有様だ。田舎町のおんぼろなんてこんなもんだ、と仲介人の前でも遠慮なく猗窩座が呟いていたのを思い出しながら、潰れたタバコの箱を握った杏寿郎がガラス窓を開く。キュルキュルと甲高い音が響き、すぐ足元でうたた寝に興じている猗窩座が起きてしまわないかと寝顔を覗き込むも、存外図太い神経をしている青年はすうすうと規則正しい寝息を続けていた。

　海が近く、晴天の今日も風が強い。煙草を吸うとき位は換気をしよう、と二人で暮らす際に一番最初に決めた約束ではあったものの、海風が強く吐いた煙は全て自分の顔を撫でて部屋の中に散っていく。工業地帯が近い港町は、海の香りだけではなく工場から立ち上る独特な刺激臭も一緒に風に運ばれてくる。風向きによってはとても窓を開けられたものではないので、そんな時は二人で決めた約束も反故にして、吐いた煙で燻製にでもなるんじゃないかと言った具合に副流煙を燻らせる。

　二人が初めて出会ったのも、空気が淀んだ、燻製室のように副流煙の満ちた部屋だった。
　目立つ珊瑚色の頭髪をした青年は、床に這い蹲って倒れる男性の手の甲に火が点いたままの煙草を押し付けていた。まるで灰皿で火を消すかのように、何の躊躇いもなく、また何の感慨もないようだった。
　それを目の当たりにした杏寿郎は、目を背けたくなるような光景であるにも関わらず、力ない呻き声を上げる男性に足を乗せる加害者があまりにもつまらなそうな、冷たい顔をしてるのが気になって「せめて愉しそうにすれば良いものを」と的外れな感想を告げていた。
　そんな現実味のない夜に、珊瑚色をした鬼のような青年… 猗窩座によって、杏寿郎は煙の味を教えられた。


　肺いっぱいに煙と海風、仄かに感じる工業排気を吸い込んで、ゆっくりと吐き出す。杏寿郎が紫煙を味わう一息の間に、足元で寝そべる猗窩座は浅い呼吸を二回繰り返す。
　出会ったのも、二人揃って出てきたのも、夜半だった。杏寿郎も猗窩座も、見事に昼夜が逆転している生活をしていて、眠りの深い猗窩座は日中にこうして惰眠を貪ることが半ば趣味のようだった。
　転落防止に備えて付けられているベランダの柵に、蜘蛛の巣が張っている。話し相手が寝転げてしまった暇つぶしに、その幾何学模様に紫煙を吐き掛けて風圧で蜘蛛を揺らして過ごす。人間に対して、抵抗もできないか弱く、小さな命を脅かす。

　室内に伸びたベランダの影が、刻々と動いて流れていく。
　こうやって自堕落に生きて、何度目の夕焼けだろうかと遠い日の記憶を思い返しながら数えてみる。あの日みた冷え切った猗窩座の表情を思い出したくて、今一度転がったままの寝顔を見下ろす。不摂生と、不規則な生活の賜物、青白く血色のない猗窩座の顔にベランダから伸びる影が這っている。狭い額から目蓋を通り、頬へカーブを描いてこめかみへ。等間隔で並んだ柵の影が、まるで幾何学模様のように寝顔を飾り付けている。

　死んだように目を瞑ったままの猗窩座の顔を見下ろして、鳩尾が火種を蓄えたようにチリチリと痛むのを感じた。


「絶対に離さない、君の命が尽きるまで。」