第39回猗窩煉ワンドロ「寝癖」「背伸び」「地獄のエビフライ」 仄暗い室内でも陽だまりのように明るく佇む少女の頬が、みるみると涙に濡れていくのを見届けてこれが夢だと気が付いた。
夢だと理解した今でも泣いていた少女のことが気がかりで、直ぐに傍へと駆け付けてその冷えた頬を拭いたかったが、閉じた目蓋に陽が射し、再び眠りへ落ちることを妨害する。
夢に見た光景は、目蓋の裏側に透ける暗闇へ塗りつぶされて、徐々に少女の姿を朧げにした。
*
「おはよう」
起き抜け一番の発声は、僅かに掠れて普段の勢いの半分もない。開いているか怪しいほど、申し訳程度にしか持ち上げられていない睫毛が今にも下目蓋へ接触してしまいそうで、寝癖もそのままにどうにかこうにかベッドを抜け出たといった様子に同居人の声に笑みが含まれる。
「おはよう、杏寿郎」
「ん、…?」
凝り固まった肩を馴らすように、両手を天井へ向けてあげると手の甲へ慣れない感触がある。眠気まなこがようやく開かれ、見慣れたはずの天井がその様子を変えていることに気が付く。
「花を吊るしているのか」
リビングの壁から壁へ麻紐を渡し、小分けにした紫色の小花の束が等間隔で吊り下げられていた。どの束も茎を麻紐でまとめられて、小さなブーケになっている。
「エビフライだ」
「?」
不意に触ってしまったせいで、ゆらゆらと不規則に揺れる麻紐を指先で摘まみ動きを止める。花と関連付かない総菜の名称に、普段から突拍子もない同居人、兼、恋人の頭の中を薄っすらと心配しながら顔を見る。
「お前が、エビフライみたいだって言っていた花だ」
よほど訝しげな顔をしていたのだろう、直ぐに補足が加えられて先日のやり取りを思い出す。恋人、素山の家族を訪問した際に見かけた花がエビフライに似ていると言い出したのは紛れもない自分からだった。
「……。ああ!あのエビフライか、逆さまになるとまた印象も違うものだな」
「フレンチラベンダーな。」
小さな庭で作業をしていたのは恋人の兄嫁で、年季の入った道場である素山家に、草花の彩りと親しみやすさを添えていた。
花も恥じらうような少女に「地獄で食べるエビフライはこんな色かもしれない」と誰に言うでもなく洩らしたひとり言を拾われて、その瞳に涙が浮かぶほど笑わせてしまったことも思い出した。
*
朝陽とともに訪ねて来た兄夫婦から、爽やかな朝の空気とラベンダーの香りが立っていた。剪定して省いた花を届けにきた、という兄の言葉には夫婦となった今でも切っ掛けがなければ妻と二人連れ添って出歩くことも出来ない軟弱さが透けていた。
「エビフライの恋人によろしく」
「ひとの男をエビフライ呼ばわりするな」
「煉獄さんの御髪のほうが、エビフライに似ているのに…ふふ、おかしいわ」
「ひとの男をエビフライ呼ばわりするな」
芳醇に香る紫色の花を受け取り、追い払うように片手で風を切る。
花を焼き付けたように煌めいた女の瞳が眩しいものを眺めるように細められ、睫毛の先に朝陽が反射してきらりと光る。