「すみませんが、知らない人です」
眼の前の女性はパスケースの中の写真を一瞥すると冷たくそう言い放った。
突然おしかけてしまい…と僕が言い切る前に扉は閉められガチャリ鍵の音。取り付く島もないとはまさにこのこと。
郵便ポストに入れておこうか…いや、あの態度だ。きっと迷惑になるだろう。
ふぅっと息を吐いて、パスケースを胸ポケットに仕舞い、来た道を戻る。
じわじわと焼けるような日差しを浴びながらバス停への道をトボトボと歩く。
右手にかかった靄は日差しの分を差し引いても明らかに薄くなっている。そして体、特に右半身がやたらと重く感じる。
流石に今のは堪えたよな…。
──────
「おはようさん」
目を覚ますとどこからともなく聞き慣れた声がした。
視線を動かし周りを見渡すが誰もいない。
変わりに目についたのは見慣れぬベッドのフレームに無機質なカーテン、そして点滴。どうも病院のようだ。
外はまだ暗い。
長い一夜の記憶を辿る。あれは夢だったんだ。走馬灯にしてはちょっと忙しかった気がする。渋谷から人が消えたと思ったらKKって幽霊に殺されかけて、最後は世界の崩壊を止めるって。KK、意外といい人だったな。もっと話したいことがいっぱいあった気がする。
もう少し夢の余韻に浸ろうとシーツを引き上げようとしたところでいきなり僕の右手が僕の頬を抓った。
割と痛い。
「人が挨拶してんのに無視すんな」
──────
バスの時間まで少しあったので手前のコンビニで涼むことにした。
ここは煙草の一本でも吸ってあげようか。慰めになるかはわからないけど。
右半身に住む亡霊になんと声をかけていいのか分からないまま、和歌コーラとアイスを籠に放り込む。いつもだったら「腹下すぞ」くらい言ってくるのに。
再び日差しの元へ出てバス停へ向かう。棒アイスの袋を開けようとしたところで右足が急に歩みを止めた。
「──!!」
「────せーん!!」
「すみませーーーーん!!」さっきの女性だ。
「あの、写真ですが」大粒の涙をこぼしている。「やっぱり頂いても良いですか……」
慌ててパスケースを胸ポケットから取り出し手渡すと、KKの奥さんはそれを抱きしめるようにして胸に押し当てる。「……ありがとうございます」
KKの奥さんが落ち着いたところでようやくKKからの伝言を伝えることができた。瞳に再び浮かぶ涙をなんとか止めたくてKKの活躍っぷりを3割増しで語る。袋の中のアイスはすっかり溶けてしまった。
「……あの人は何でも自分で抱えてしまうから」
寂しそうに笑う顔に僕の右手が触れようとして、止まる。
───
「それで、久しぶりに会った感想は?」他に乗客のいないバスに揺られながら右手の靄に訊ねると「……あいつも変わってねぇな」と靄が笑った。また会いたい?と重ねて問うと靄はしばらくゆらゆらした後「未練はない」ときっぱり言った。
未練がなくなった、ということはこれでKKとも本当にお別れか。渋谷の夜から数えてたった半月の付き合いだったけど。
……それでもKKがいなくなると寂しいよ、思わず本音が口から漏れてしまう。
薄くなりかけていた靄が突然濃くなる。
窓から差し込む夕日に照らされた右手が温かい。
「……オレにもまだ未練があるらしい」
靄はそう言うと僕の右手で僕の頬を撫でた。