sensory adaptation 雨の夜が明け家族とも一夜の相棒とも別れて、僕は日常に戻ってきた。妹を取り戻すことは出来なかったから、今までと全く同じという訳にはいかないだろうけれど、とにかく僕は一人生き残ったわけだ。それに意味があるかはまだ分からない。それでも、とりあえず僕がやらなければいけない事がまだ残っている。向こうで両親と共に旅立つのを見送った妹の現世での抜け殻に病院で対面し、身体も両親の元へと送り出した。その日は青空にふわりと薄い雲が浮かぶ、良く晴れた日だった。この世のしがらみを全て捨てて軽くなった妹は、きっと両親と共に穏やかに笑っているだろう。そうであって欲しい。
追われるように過ごした日々が終わってふと気が付くと、これからどう生きていけばいいのかすら何も考えつかなくて、自分が空っぽになったように感じた。ほとんど物の無い空虚な部屋を見回して、置きっぱなしになっていたパスケースに目が止まる。すっかり忘れていた。あの夜の相棒の形見、最期に託された家族への伝言。これを片付けなくては。彼とは出会いから最悪で途中も色々あったが、最終的にはその関係は悪くなかったと思う。結局のところ、僕にとっても彼にとっても失うものばかりで、得るものの少ない結果だったとしても。
世話になった恩を返さなければと、返却手段を考えてみて、あまりにも手掛かりが少ない事に唖然とする。僕は彼の本名すらも知らない。中には写真しか入ってないし、失礼を承知で写真をケースから出して裏をめくってみても、そこには何も書かれてはいない。詰みだ。彼も彼だ。こんな大切な事を頼むなら、眠りにつく前に名前くらいは名乗っていって欲しかった。KKというイニシャルしか分からないのではどうしようもないだろう。意外と無責任だな、と呟いてみても勿論反論する声は聞こえない。
どうしようかと思案した結果、このまま見なかった事にするのはあまりにも不誠実に思えて、出来る限りのことをすることにした。彼の情報を得る手段が皆無な訳ではない。とりあえず彼がアジトと呼んでいたあの場所に行ってみることにした。あの日から少し時間が経ってしまったけれど、犯罪に関わっていたわけでもないので、そんなに急いで退去する必要はないはずだ。あれだけの機材を運び出すのも大変だろうし。もしかしたら、仲間の誰かが居るかもしれない。そうすれば事情を話して情報を貰うなり、形見を託すなりすればいい。そう考えて、記憶を頼りにその場所を訪れることにした。
記憶では封印されていた扉は今は鍵すらかかってはいなかった。あれからずっと出入りがないのか、単に中に人が居るときは鍵をかけない無用心なのか判断がつかない。静かに侵入した方がいいか、あえて物音をたてた方がいいのか、悩みながら玄関に入って結局普通の音量でドアを閉めると、話し声はしないが人の気配はする。ちょっと考えて声をかけることにした。勝手に入るのはさすがに気が引ける。
「……すみません」
思ったより発した声は小さくて、これでは聞こえないだろう。もう一度、と息を吸った時、奥からバタバタと足音がこちらに向かってくる。躊躇いのない足音は随分と無警戒だ。やはり無用心ゆえの無施錠かと思った。
「暁人!」
その声を聞くまでは。
目の前にその姿を見ても信じられなかった。生きてるとは思わなかったから。
「……KK…?」
まさか彼が、KKが生きていて、更にはこんなに歓迎してくれるとは思わなかった。会った瞬間、何も言わずにいきなり抱きしめられるなんて予想外だった。あの夜の印象ではそういう反応をするような男だとは想像出来なかった。実際に会ってみなければ分からないものだ。もっとこう淡々とした感じだと思っていた。
背は自分よりほんの少し高いだろうか、背中と腰に回された腕はがっしりと筋肉がついていて僕より太い。力も強くて肺が圧迫されている。頬にあたる無精髭が痛い。苦しくて、両側でだらりと垂れていた腕を持ち上げてKKの肩を掴んで押し返す。
「ちょっと、もう、苦しいんだけど」
「あ、悪い、つい」
僕の愛想の無い対応にも特に気を悪くした風もなく、
「あの時は世話になったな、元気だったか?」
右手を僕の頭に伸ばし、髪をぐしゃぐしゃにしながら撫でてくる。随分と気安い態度だ。
促されて、モニターやらのひしめく奥へと進む。あの時と同じかそれ以上に散らかった部屋には、他に人は居なかった。
「もうすぐエドが来る。オマエの事は前に話したが、興味があるようだったぞ。状況に対する適応力が高いって感心してたからな」
目につくのは所構わず置かれた雑多な物や書類の山。机の上の灰皿は吸い殻でいっぱいだ。強烈な煙草の匂いに思わず顔をしかめる。
「窓、開けていい?」
答えを待たずにさっさと窓を開け、外の新鮮な空気を吸い込む。こんな部屋にずっと居たら、僕の肺まで真っ黒になりそうだ。
「思う存分、吸えてるみたいだね」
山盛りの灰皿に目を向けながら言うと、
「あぁ、今はな。誰かさんのせいであの時はずっと禁煙だったからなぁ」
「他人の身体で勝手に煙草吸おうとする方がおかしいだろ」
こっちは非喫煙者なんだぞ。
「ちゃんと我慢してただろ?」
「コンビニで買い物するたびに隙あらば要求してくるのは、我慢に入るのか?」
どうでもいいやり取りをしているうちに、ここに来た目的を思い出した。ポケットからパスケースを取り出し、KKに差し出す。
「これ、返すよ」
KKは少しの間、無言で見つめた後、それを受け取った。
「家族にはもう会ったの?」
「いや、まだだ」
「せっかく戻って来れたんだから、ちゃんと話した方がいいんじゃない?」
「……あぁ、そうだな」
僕にはもう家族はいないけど、KKにはまだやり直せる可能性がある。だって、生きてるんだから。
「やっぱりオマエに預けて正解だったな」
「何、急に…」
「オマエは本当にいい相棒だよ、暁人」
じっと僕の目を見ながら、こちらに手を伸ばしてくる。思わず身を引いてKKの手をかわす。何故だか触れられるのが怖かった。KKはちょっと笑って、伸ばした手を引っ込める。
「オマエは律儀な男だからな、手掛かりを探すためにいつかここに来ると思ってた」
……たった一晩の付き合いで、一体僕の何が分かるというのだろう、この男は。けど、結局こうして彼の思惑通りにのこのこ僕はやって来た訳だから、その分析はあながちハズレでもないのだろう。自分ではよく分からないけれど。
「……じゃあ、用事も済んだし僕は行くね」
踵を返して玄関へと向かう僕をKKが慌てた様子で追ってくる。
「なんだよ、もう帰るのか?」
「あぁ、あんたからの預かり物も返したし、もう用はないだろ?」
玄関のドアを開けようと出した手は空振りし、開いた向こう側に立つ人物。眼鏡をかけた外国人男性、多分、彼がエドだろう。
「おう、エド、ちょうど良かったな、コイツが暁人だよ、例の」
後ろから楽しげなKKの声。しまった。どうやら帰るタイミングを失ったらしい。
「初めまして、伊月暁人くん。僕はエドだ。あの時は世話になったね。君の協力には心から感謝している。早速だが、君に会えたら是非とも確認しておきたい事柄がいくつかあるんだ」
レコーダーから流れる音声と共にぐいぐいと中に押し戻される。すれ違いざまに見たKKのニヤニヤ顔に無性に腹が立った。
結局、僕は男二人に押し切られ、今後もアジトに足を運ぶことになってしまった。バイト代を出すからと、僕を被験者とする適合者に関する調査と資料整理などのいわゆる雑用の担当としてだ。正直面倒なので、出来れば断りたかったがKKからの見えない圧力がそれをさせてくれなかった。あの手この手で逃げ道を塞いでくる様は、さすがは熟練の元刑事といったところか。一介の学生の身である僕が敵うはずもなく、しぶしぶ承諾させられた。週に一、ニ回程度でいいと言われたので、最悪、徐々にフェードアウトしていけばいいか、と自分を納得させる。
どっちにしろ、学生の間だけの話だ。卒業して就職したらこんな事に付き合ってる時間はなくなるだろう。僕はちゃんと生きていかなきゃいけないんだから。
あれから何度かアジトに行って乱雑な調査報告書をファイリングしたり、地獄のような室内を掃除したり、何だか良く分からない検査を受けさせられたりした。KKは居たり居なかったりだけど、居れば必ず親しげに僕をかまってきた。けれども僕は、あの時と違って明確な質量を伴った存在となったKKにどうにも馴染めなかった。
心理的物理的両方でやたらと距離が近いのもそうだし、何よりも苦手だったのは彼の身体に染み付いた煙草の匂いだ。かなりのヘビースモーカーなのだろう、服にも髪にも纏わりつくようなあの独特の匂いがどうしてもダメだった。周りに喫煙者がいないからか、慣れない煙草の匂いがどうにも不快で仕方ない。頭痛さえ誘発してくる。吸うのを止めてくれ、などと言える立場ではないので、せめて室内で吸うのはやめてくれと頼んだ。
僕が居る時はさすがに控えてくれてはいるが、普段吸っている匂いが部屋中に染み込んでいて、限界だった。部屋のいたる所に消臭剤を設置し、スプレー式の消臭剤を部屋の布類に吹きかけまくりながら頼み込む僕に、鬼気迫るものを感じたのか、KKは室内での禁煙を約束してくれた。
アジト内の煙草の匂いも少しだけ薄れて、僕もそれに慣れて来た頃、思うように進まない就活に僕は少しだけ疲れていた。作業を終えベランダに出て柵に寄りかかりながらぼんやりと空を眺めていると、
「なんだ、元気ないのか」
いつの間にか戻ってきたKKに背後から声をかけられた。
「別に。いつも通りだけど」
振り返ることなく、これもいつも通りに素っ気なく返す。あまり、距離を詰めてきて欲しくないのだ。でも、さらにこれもいつも通りにKKは一切構わず、
「そんなことないだろ、なんかあったのか?」
僕の隣に並んで立ち、顔を覗き込んでくる。鬱陶しい。踏み込んでくるなよ。
「うるさいな、何もない、大丈夫だよ」
放っておいて欲しかった。必要以上に関わって欲しくない。いつか失くしてしまうものなら、最初から手にしたくないんだ。
「オレはそんなに頼りにならないのか?これでもオレはオマエを心配してるんだ、オマエに頼って欲しいんだよ」
「……まだ相棒のつもりなのか?僕はもう、とっくにそんな関係は終わったと思ってるけど」
強い口調で突き放す。今はもう、この世界に僕たち二人きりな訳じゃない。KKには彼が守るべき家族がいる。僕とは違うんだ。
この場から出て行こうとする僕の腕をKKが掴む。
「今のオレにとって、オマエはただの相棒ってだけじゃねぇ」
振り払おうとしても、僕の力ではびくともしない。
「オマエに言われて、思い切って家族に会いに行ってきたんだ。会ってはくれたさ。でも復縁なんて何があっても無理、だとよ。ま、薄々分かってたけどな」
きっとつらいであろう話を、意外にも淡々とKKは告げる。
「アイツにそう言われた時、自分でも意外な程冷静だったよ。以前のオレだったら、んな事言われたら頭に血が上ってたんだろうがな、──オマエのおかげだよ」
「え、……僕の…?」
思い返してみても、特にKKに対して何かをした記憶はない。あの時も、その後も。全く心当たりがなくて首を傾げる。
「オレの、どうしようも無く駄目な所も知ってるオマエが居てくれるから。例え誰にも必要とされなくても、オレはオレとして存在しててもいいんだって思えるようになったからだよ」
その言葉は今まで聞いたことがないほどの優しい声で、思わず見てしまったその表情もとても穏やかなものだった。この人はこんな表情も出来たんだな、と驚いてしまう程の。
「暁人はよく頑張ってるよ、いい子だな」
そう言って抱きしめてくれたKKからは、やっぱり煙草の匂いがした。でも、それは前ほど嫌な匂いじゃなくなっていた。
それからは、何となくアジトへ行く回数が増えた。我ながらチョロいなとは思うけど、やっぱり人は誰かに必要とされたり、必要とするものなんだなと実感する。KKと一緒にいる時間が長くなるにつれて、彼に対して『好き』だと思う事が増えていった。ちょっとしつこい位に僕を構ってくるのも楽しいと思えるようになったし、悩みがあれば相談するようにもなった。彼の仕事を手伝えるのは嬉しいし、頼りにされたいとも思う。
以前は『嫌い』だった煙草の匂いも、いつの間にか彼の存在の一部として『好き』に変わっていて、最近は彼が燻らす煙さえも綺麗だと感じるようになっていた。何よりも、煙草を吸うKKの姿は格好いいと、そう思えるくらいに。
今日もまたベランダで、僕の方に煙が流れないようにと気を遣いながら煙草を吸うKKの姿を隣で眺める。ゆらりと昇る紫煙が空に揺蕩う。
「煙草吸うのにわざわざついてくるなんて、オマエも物好きだな」
「KKを見てるのが好きなだけだよ」
「やっぱり物好きじゃねぇか」
あれからKKの喫煙量は少し減ったようだ。僕と居る時は以前ほど煙草を吸いたいと思わなくなったらしい。精神安定剤としての効果は煙草より僕の方が上なんだそうだ。素直に嬉しいと感じる。
「あんなに嫌がってたのに、本当に変わった奴だな」
言いながらKKが僕の頬を撫でる。煙草の匂いの移ったその手は、今では僕の大好きな手だ。その上に自分の手を重ねて、ほうっと息を吐く。そこから伝わる温もりに心が安らぐのを感じる。
KKがまだ半分ほどしか吸っていない煙草を灰皿に押しつけて火を消した。自由になったその手で、僕の空いている頬に手を伸ばし、両側から挟み込んで顔を近付けてくる。
「暁人」
低い声で名前を呼ばれて、煙草の味のするキスにはまだ慣れないな、と思いながら目を閉じた。