一体何がきっかけになるか分かったものではない。
ましてや、それがどこに転がっているのかさえも。
マヒアの頭に偉人たちの名言集にでも載りそうな二行が現れた。そんな寸言が生み出された原因は手の中にある。
ソレとの出会いは、「さて今から帰るか」とバックを背負ったマヒアが校門を出ようとしていた時のことだった。
まるで『君のためにやって来たんだよ』と言わんばかりに足元へと舞い降りたソレ。誘われるように手に取って裏や表をざっと見る。軽い興味本位のはずが、気づけばじっくりと目を通していた。
「……まぁ、ほら。一応さ。今暇してるし、ね」
そう、マヒアは暇を持て余していた。大分近い将来にテストという地獄が始まるのだが、彼の中ではたった今から暇を持て余すことになった。日頃から授業態度は悪くないし、多少別のことに時間を取ったところで問題はないだろう。マヒアは内心でうんうんと頷く。
自分に言い訳するようにして手元のソレをポケットへ突っ込むと何事もなかったかのように帰路を歩き出した。
※ ※ ※
「手が止まってるぞ」
横からの指摘でマヒアはハッと瞬きをした。文字が羅列されていなければならない目下のノートは、残念ながら最初の三行しか黒く染まっていない。マヒアは「うあー」と無意味な叫びを上げて天を仰いだ。
「調子が悪いのか?」
隣には同じくノートを広げたアイヴスが座っている。手元には生真面目な文字が並ぶ理想的なまでに余白の少ない帳面。羨ましい限りである。
淡々とした響きだが心配が滲み出ている声にマヒアは首を振った。体調不良ではないが別のところに意識が向いているのは確かである。自覚があるので筆記用具の先で額を叩き活を入れていると側で立ち上がる気配がした。
気を悪くしたかと慌てて見上げれば優しい色をしたアイスブルーとかち合う。太陽光を取り込んで光る瞳は青いステンドグラスのようであった。
「ちょっと飲み物買ってくる」
断ってから財布だけを持ち立ち去っていく。荷物が残されているから多分見捨てずに帰ってきてくれるだろうと安堵に息を吐いた。
気分転換に周りを見渡せばカフェテリアには自分たちと同じように勉強道具が広がった席が目立つ。テストの日程が近づいている証拠だ。皆、憂鬱そうな雰囲気で公式や世界の仕組みを頭に叩き込んでいる。
一人だとサボってしまうから、とアイヴスに監視役を頼んだのはマヒアであった。
まだ日があると高をくくっていたら、いつの間にか日数が数えるほどに差し迫っていた。
(どうしてこうなった‼︎いや、ごめんなさい。分かってます。自業自得です)
マヒアは焦りに焦っていた。何一つ手をつけていなかったからである。下手したら試験範囲すら把握していなかった。
現状に窮した末、藁にも縋る思いで帰り支度をしているアイヴスの服の袖を掴んでいた。引き留められた方は突然の事に驚いていたが、無言で見上げるマヒアの目に切羽詰まった状況を見たのだろう。「カフェテリアでいいな?早く行かないと席がなくなるぞ」と笑って承諾してくれた。
そして、緊急勉強会が催されたのである。
とはいえ、快く付き合ってくれてはいるが本来アイヴスは一人でも勉学に勤しむことができる人間だ。もしかしたらこれからどこかで黙々と励もうとしていたのかもしれない。焦燥から助けを求めてしまったが、今更ながら邪魔をしたのではないかと一抹の不安に襲われ始めていた。しかも頼んできた本人は集中力が散漫ときている。
後悔の念に頭を抱え込んだマヒアの近くでトンッと何かが置かれる音がした。見れば白い湯気が立つカップがちょこんと鎮座している。
「紅茶、大丈夫だったよな?」
次に聞こえたのは空席が埋まる音だった。その手にも白いカップがある。ということはマヒアの元にあるコレは……。
「買ってきてくれたの?」
「ついでだ。気にするな」
急いで己の財布に手をかけたマヒアだがアイヴスは手振りで要らないと告げてきた。しかし、それは道理に合わない。勉強に付き合っているのはアイヴスの方であり、奢るというならマヒアの方である。アイヴスが支払うのはおかしい。
そんな心情が漏れ出たのだろう。眉尻がすっかり下がったマヒアの顔を見てアイヴスが可笑しそうに吹き出した。
「何か誤解があるみたいだから言っておく。誘ってもらえて助かってるのはこっちだ。最近一人だとどうにも気が乗らなくてな。だから声をかけてもらえて良かった。紅茶はその礼」
ニッと笑ってもう一口飲むとこの話は終りだと視線を教科書に落とされてしまった。言い切られてしまったら二の句が継げない。しばし逡巡した後で素直に「ありがとう」と受け取る。それを聞いたアイヴスは満足そうに微笑んで再び教科書に目を戻した。
ここまでしてもらっておきながら専念できないなどとは言えない。マヒアはありがたく紅茶で一服してから気合いを入れてペン先を滑らせた。
紅茶のおかげか、猛省が効いたのか。気もそぞろだったのが嘘のように教科書の内容を頭に入れる。時間もそこそこ経ち『これは笑えないほどヤバい』から『これならどうにかなりそう』まで自信がついた頃、アイヴスがポツリと「腹が減ったな」と独りごちた。
「食べる物でも買ってくるか」
「あ」
思わず、といった調子で声を上げたマヒアに椅子から腰を浮かせたアイヴスが振り返る。
「ん?何か持ってるのか?」
「あー……。えーっと……まぁ、うん」
歯切れの悪い返事をしつつマヒアがカバンの中身を引っかき回す。中から茶色い箱を取り出すとアイヴスがニヤリと意地の悪い顔つきをした。
「なるほど。色男は違うな」
「残念ながら自分用です」
本日限定のネタで揶揄するアイヴスに、いじけた口調でマヒアが返した。
二月十四日。この日はどんな事情であれチョコレートや花を持っているだけで恋事につなげられてしまう。心躍る日である一方で厄介な日でもある。
「からかってるけど、そっちはどうなのさ」
アイヴスは苦笑するだけで明言を控えた。代わりにジェスチャーでマヒアの手にある箱を催促してくる。
渋々と言った雰囲気を醸しつつ教材でいっぱいになったテーブルの上に箱を置き、マヒアがリボンを解いて上箱をパカリと上げた。
そこには均等な大きさに切り分けられたナッツチョコレートが整然と並んでいた。
「外装も中身も綺麗だな。高いところのやつか?」
「いや、全然大したことないよ。なんか段々楽しくなっちゃって」
「楽しく?」
「選ぶのが、ね。この時期って色んな種類のチョコレート売ってるから。そんなことより、ほら食べよう」
ズイッと箱を前に押しやると遠慮のない大きな手が長方形の菓子をさらい、一口目を囓った。途端に口元が綻んでいく。
「美味い」
「そう?」
「あぁ。もう一つもらっていいか?」
「いいよ。一つと言わずたくさん召し上がれ」
気に入ったようでザクザクと音を立てながら面白いように口の中に入っていく。マヒアが機嫌良く頬袋ができるのを眺めているとアイヴスが手を止めた。
「マヒアは食べないのか?」
「え?あ、あぁ。うん、食べる」
アイヴスに倣って一つに歯を立てる。もう何十回も舌で味わう慣れた味だ。感動も何もない。強いて言えば今までで一番出来がいいというくらいだ。マヒアはもぐもぐと顎を動かして思う。
(アイヴスが好きだって言ってたナッツ入れたのは正解だったな)
アーモンド、ヘーゼルナッツ、マカダミア。値は張ったが全部入れて良かった。マヒアは表に出さずに自作を賞賛する。
マヒアが勉強を疎かにした理由は何を隠そうこのチョコレートであった。
きっかけは校門で拾った例のアレ。正体はこの時期よく見かける、購買意欲をくすぐるために配布されるチョコレートレシピだった。
それを目にして真っ先に浮かんだ人がいる。それでマヒアは陥落した。長いこと仲のいい友人だと思い込もうとしていたが、もう自分の中で答えが出ていたのだと痛感したのである。
ならば、とアイヴスへの焦がれる想いを受け入れることにした。するとどうだろう。あれほど重かった気持ちが少しだけ楽になったのである。
楽になった反動からか、マヒアはレシピを機にチョコレートづくりにのめり込んでしまった。
初めは初心者向けの簡単なものからだった。それが作っていくにつれて凝り性が顔を出し、アレンジを加え始めたら止まらなくなっていった。仕舞いには箱の設計・組立からスタイリッシュなリボンの結び方など細部にまでこだわりを見せる始末となる。
作り手は後に語る。相手の好きなものを盛り込んで作る作業工程はとても楽しかった、と。
しかし、こんな状況を狙っていたかと問われればマヒアは全力で首を横に振る。信じてもらえないだろうが偶然の成り行きなのだ。試験勉強に参っていたのは本当だし、それを口実にアイヴスを掴まえたかったわけでもない。
そもそも渡すつもりなんて一切なかった。作っておいて、と思われるかもしれないが最終的には自分の胃に収まる予定だったのである。
気持ちを認めたからといって想いを告げる決心がつくわけではない。認めただけでもマヒアの中では大きな前進だった。
けれど、ここまできたら折角の恋愛系イベントに乗っかってみたくなった。告白する気がなくとも、いや、なかったからこそ想いを込めたチョコレートを持って気分に浸りたかった。
なので、この展開はマヒアからするとまさかの大団円なのである。予想外とはいえ意中の相手に食べてもらえたのだから。
(日頃の行いがいいからかなぁ……)
なんて呑気に喜んでいると箱の中身を半分以上も食べていた口が「なぁ」と問いかけてきた。
「このチョコレート、どこで売ってるんだ?」
聞かれるとは思っていなかった質問にマヒアはピシッと思考を停止させる。
「え?」
「気に入ったからまた食べたいなと思って」
今更、自家生産なんて口が裂けても言えない。
無邪気に言うアイヴスに「どこだったっけなぁ」と時間稼ぎに空惚けてみせる。冷や汗を流して打開策を巡らせる必死なマヒアに更なる爆弾が投下された。
「こんな、何から何まで俺好みのチョコレート見たことないぞ」
そう言って嬉しそうに笑う氷海の瞳はどうやら全てを見透かしているようだった。見惚れるほどの美貌は蕩ける笑みで観念しろと訴えてくる。
マヒアが自棄になって製造元を割るのにそう時間はかからなかった。
【END】