すばらしい日々【オル相】 何もかもはいっぺんにやって来た。
昨日と今日は地続きで、右から左にさばくのが精一杯で、眠ると言うより限界が来て落ちる、という言葉の方がしっくり来た。家に帰る暇もなければ寝袋にすら辿り着けず、しゃかしゃか鳴る素材を枕にして誰かの足音で目覚めるような有様で。
病院で手術後の麻酔が効いた状態のあの人をちらりと見ることができた。目が覚めるまで付き添うような暇はなかった。
それから、病院には一度行ったきりだった。
あの日のように包帯でぐるぐる巻きにされたオールマイトは、ベッドを起こしてテレビを見ていた。
大部屋から個室に移ったと風の噂に聞いてようやく重い腰を上げた。一度だけ尋ねた際には同室の緑谷の前で天気の話と連絡事項以外会話を交わす気はなかったし、近寄れば気が緩むのがわかっていたからしたくなかった。
終わったかもしれないがまだ終わっちゃいない。
これ以上の犠牲を出すわけにいかない。
世界が動いたあの日から一週間が経ち、二週間が経ち、俺は今日、入院している恋人の見舞いに来ている。
「……入ってもいいですか」
ドアを開けて覗き込みながら声を掛けた。オールマイトは来客に気付き、こちらを見てはにかんだ。酸素は取れ、点滴はしていたけれどベッドの周りで電子音を発していた機械類はほぼ姿を消していた。首に巻かれたコルセットも見当たらず、病衣の合わせの中に浮いた鎖骨が陰影をくっきりと浮かべて肌色を覗かせていて俺は視線をそこから外した。
「うん。どうしたの?何かあった?」
わざわざ俺が病院まで来るのには理由がある。当然の反応をされ、いえ、と曖昧に濁して近寄った。
消毒薬の臭いが強い。褪めた青の病院着は顔色の悪さを際立たせているようでざわついた心がまだ鎮まらない。
「お加減はどうですか」
「一応リハビリは始まってるけど、どうだろうねえ」
布団の上から太腿を摩るオールマイトの口調はのんびりとしている。
「動かなかったら引越し含め色々考えなきゃいけないかもね。退院はまだ先だけど」
そこに悲しみの気配は微塵もない。
「そうですか。必要なものがあればサポート科含め繋ぎは取れます。言ってください」
「うん」
沈黙をボリュームを抑えたテレビの音声が打ち消す。復興現場から中継するリポーターの映像をオールマイトはリモコンで消した。真っ黒な画面を一瞥してオールマイトは俺を不思議そうな顔で見る。
「で、何かあった?」
「……」
俺が言葉を濁しているのを察して促してくれる優しさは相変わらずだが、怪我人であるオールマイトに負担をかけたくなくて上手く言葉が紡げない。
何かを言いかけ、何も縁取れず口を噤み、幾度かオールマイトの顔を見ては痩せた胸元に視線を落とし、また意を決しては萎む俺を、オールマイトは黙って見守る。
「……特に、何も、ありません」
言葉足らずと自覚はあったが捻り出せた言葉はそれだけだ。椅子に腰掛けて太腿に乗せた拳を握り込み、俺は何故ここに来たのか、今更後悔し始める。
「相澤くん」
オールマイトが俺を手招きした。腕を固定していたギプスは先に外れたらしく、ぎこちない動きに胸が詰まる。
「はい」
招かれるまま、上半身の落下を防ぐ柵のぎりぎりのベッドに浅く腰を下ろした。オールマイトは微笑んでいる。最後にこんなに近い距離で顔を見つめたのは、もう一ヶ月も前のことじゃないかなんて考えたりして。
「抱き締めたいんだけど、いいかな」
そんなことに許可はいらないと反射的に言い返しそうになった。ここがどこか知っているし、オールマイトの配慮は俺の感情など窺わない。圧倒的にオールマイトの言葉が正しくて、何も言わずに攫って欲しいという俺の我儘がこの場にはそぐわない。
「……お願いします」
体重移動も不便そうなオールマイトの様子を見て、俺は自分から体を寄せた。繋がれた管に影響がないように必要以上に気を遣う。オールマイトは点滴の入った腕をベッドの上に置いたまま、自由なもう片方の腕で俺の肩の下辺りから腕を巻きつけて抱き締めた。
消毒薬と知らない洗濯石鹸の病衣と、これでもかとのりのきいたシーツが発する様々な非日常な空気の奥にオールマイトの匂いがする。
視界が一瞬で潤んだ。
都合のいい時だけドライアイを忘れる目だ。
「生きてて良かった」
「あなたも」
「……ねえ、キスはだめ?」
魅力的な誘いだった。互いしか見えない近さでは、問いかけの眼差しすら断るには魅力的過ぎて困る。委ねる狡さを許して欲しかった。
だって、自分から仕掛けたらきっと止まれない。
飢えている自覚があるから。
オールマイトは俺が黙って目を閉じたことで了承と取ったのか、直ぐに唇は触れた。乾燥した部屋の中でかさかさに乾いて、ところどころ皮が捲れてこちらに刺さるような、そんな唇を受け入れて、離れてくれるのを待った。
最悪、追いかけて押し倒して煽って喰らって貰うのは、ひょっとしたらもう出来ないかもしれない。一抹の寂しさはあったけれど、生きていたからそれ以上を望むのはやめようと思った。
「ふふ。かわいい顔してる……私もね、君に逢いたかったよ。忙しいのわかってたけど、来てくれないかなって思ってた」
「来るのが遅くなってすみません」
「優先事項は山積みだろ。君が疲れてしまう前に私を思い出してくれて嬉しいよ」
俺の頬を人差し指の側面で擽るように撫でて、抱き合っていた体が離れる。それを合図に俺は椅子に戻った。
まだ体に残るオールマイトの感触を忘れないように抱き込めば、オールマイトはゴホゴホとむせる。
「どうかしましたか」
「今直ぐ退院したくなった」
「無理ですね」
「やっぱりだめだよ、ずっと君のこと我慢してたんだ。一回触ったら歯止めが効かなくなるなぁ。ああ!」
俺と似たようなことを子供っぽく言うから、俺はなんだか卑屈になりかけた毒気が抜かれてしまって、軽く笑う。笑ってから、顔のそんな筋肉を使ったのが久しぶりだと言うことに気付いて無言で目を見開き、それからもう少しだけ大きく笑った。
「髪伸びたねえ」
「床屋に行ってる暇もありませんでしたしね」
「じゃあ、後ろ向いて」
突然何を言い出すのかと訝る俺にオールマイトはサイドテーブルの引き出しを開けてブラシを手にしている。
「なんですか」
「ん?リハビリさせて貰おうと思って」
オールマイトはそう言うと、座り直した俺のうなじと髪の間に手を入れて決して早いとは言えない手つきで髪を梳り始めた。
「これから暑くなるしね、それでなくとも君のヒーロースーツは黒い長袖長ズボンで通気性に秀でてるとは言えない。せめて髪型くらい涼しくしておいた方がいいと思うぜ」
オールマイトの声が意味のある言葉として頭に入って来ない。長い指が髪を梳き、頭皮に近い部分に触れるたびに妙な心地良さに気を取られて仕方なかった。
「アレンジは簡単だからさ。君は器用だから覚えられるだろ?」
まとめた毛束を捻ってゴムで留める。うなじを空気が通り抜け、一気に涼しくなった。分け目を変えられて頭のてっぺんから左側にかけてむずむずして落ち着かない。
「はい出来た!」
オールマイトは俺の出来に満足そうに頷いてブラシを引き出しに戻した。
「ううん、かっこいいな。世界が相澤くんのかっこよさに気付いちゃうな……いやでも季節的にその髪型の方が合理的だ!」
サムズアップとウインクで太鼓判を押され、俺はそうですねと承諾した。
「折角飾ってもらいましたが自分でできる自信ないんで早めに退院してください」
「君の朝の時間を私に五分くれるってこと?」
「俺を合理的な装いで送り出したいのならね」
「でもそれって一緒に住んでる前提じゃない?」
「勝手にやっていいならリフォームしときましょうか。寮は直ぐ出来ますし、必要ならマンションも」
「……俄然やる気が出てきたよ」
「猿もおだてりゃ、ですね」
オールマイトは人差し指を立てて左右に振る。気障な否定が似合うのはどうにかして欲しい。
「私が君のために頑張らないわけがないだろ」
「努力はご自分のためにどうぞ」
「甘えているのさ」
「知ってます」
他人のためにこそ頑張れる人を正論の前に突き出す俺に甘えていると繰り返す言い訳は、俺のためにある。
「あまり長居をしたら我慢ができなくなりそうなんで帰ります」
「我慢できなくなってもいいのになあ」
その言葉に一瞬だけ俺が出してしまった、デリケートな部分への関心。オールマイトはニヤリと笑って俺のシャツの裾を引いた。
「取り敢えず今夜試してみようかな。朗報がお知らせできるといいんだけど」
「……置いてけ、って?」
汗ばむ陽気とは言わないが、移動距離がそれなりに長く朝から着ているこのシャツを触媒に?
俺が肩から背負ったデイパックにこれから向かう学校のロッカーにストックしておくTシャツが入っていると見抜いているからこそのおねだりに俺は負けましたと始まってもいない勝負にさっさと白旗を上げ、その場でシャツを脱いでくしゃくしゃのままオールマイトの手元に差し出した。シャツを受け取りながらも、新しいシャツをバッグから漁っている俺の上半身をオールマイトは愛玩物でも眺めるような目つきを向けている。
「お元気そうで何よりです」
明らかに入るはずがないサイズのシャツを看護師やら他の出入りの人間に見つかったらどう言い訳するのか想像したが、多分俺がその場に居合わせることはないから頭の中から追い出した。
「じゃあまた」
「君が私を忘れた頃に」
「その前に退院するって言えないんですか?」
「迎えに来てくれる?」
「お呼びとあらば」
キリのない会話は去り難い気持ちの現れだ。俺は立ち上がって椅子を隅に片付け、オールマイトの頭を腕の中に捉えて額に軽く唇で触れた。
「なあにそれ」
てっきりキスをされると思って閉じた目を不満げに開けて、可愛く、しかし甘ったるく拗ねた声色に俺は口角を上げる。
「焦らした方が燃えるでしょう、お互いに」
俺だってパンツの一枚も貰っていきたいところなのを強奪しないだけ褒めて貰ってもいいくらいだ。そう軽口を聞けばオールマイトはげらげらと笑って、いててててと傷口を押さえている。
「笑わせないで」
「本気です」
「愛を感じる」
「そりゃようござんした」
それじゃ、と手を振った。
またね、と手は振り返された。
『次』はそう遠くないし、多分その前に喧しい朗報が届くはずだ。俺はそれを待ち侘びる。