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    善獪

    #善獪
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    どうせなら笑って死ねれば良かったね注意 現パロ つらい 何でも許せる人向け






     ⚡︎

     終わりは音もなく始まる。そして、始まりが終わっていくのもまた、音もなく静かな夜のことだった。

     仕事辞めてきた。そう言って獪岳は、割引シールの貼られた惣菜パックをどさどさと炬燵の上に置いた。笑ってもないし、怒ってもない。仕事辞めてきた。その言葉には、何の感情も乗せられていなかった。だから俺はそのとき、なんて声を掛けたらいいのかわからなくて、結局、そっか、ってありきたりな相槌しか打てなかった。十二月末、世間が数日前のクリスマスムードをすっかり忘れ、年の瀬に浮かれる夜のことだった。
     コンビニ、スーパー、駅前の百貨店にあるショーウインドウ。どこもかしこも来たる年越しに備えた品揃えで、道行く人々は餅や煮豆の類を脳死で買わされていた。大通りに面した交差点の信号が青になると、視覚障害者用の誘導音が鳴り、眩暈がするほどの会話の群れが地響きのように鼓膜を震わせる。
     ピヨ。ピヨ。今年何観る。紅白かな。初詣どこ行こう。ピヨ。ピヨ。えー私はガキ使がいい。年越し蕎麦は。お婆ちゃんが着付けしてくれるって。やだよ毎年ワンパターンじゃん。もう買ってあるよ。ピヨ。ピヨ。着物何色。鴨蕎麦。そうだけどさ、他に観るものないじゃん紅白つまんないし。赤にした。ピヨ。ピヨ。美味しそう。つまんなくないよ。
     ピコーン。
     喧騒の膜を破るように、スマートフォンの通知が鳴る。それは俺にとって救いの音になった。暗雲の中をすぱんと割る雷のような、暗闇走り抜けるタイヤを切り付けるアスファルトのような……なんていうかそんな感じに、俺の鬱屈とした心をすっかり晴らしてしまった。液晶画面を確認する。送信元は獪岳だった。へえ珍しい、獪岳からメッセージなんて。実際、俺と獪岳のトークルームは俺からのメッセージが画面の九割を占めている。獪岳からのメッセージは俺のメッセージ百文字に対して「了解」の二文字だけだ。いびつなトークルームの最下層、ついさっき着信したメッセージの文面はいつもの文字数の二倍だった。
    『もう無理』
     ああ。またダメだったか。
     さ、し、し。し、か、た、な、い、よ。変換。仕方ないよ。獪岳は悪くないって。また探そう。俺も一緒にハロワ行くからさ。送信。既読。……返事はない。怒ってはなさそうだけど、機嫌は悪そうだ。うーん、酎ハイでも買って帰ろう。
     ――獪岳は仕事が出来ない。いや、こう表現すると語弊があるか。獪岳は一身上の都合で半年以上仕事が続けられない。どれだけ楽な仕事でも、どれだけしんどい仕事でも、等しく半年以内に辞めてしまう。今回もその連絡だった。恐らく、辞めてやるよと啖呵を切った直後の連絡に違いない。文面にライブ感が漂っている。
     大体、獪岳は我慢がきかない。昔、獪岳が大学生だったころ二年間続けた塾講師のバイトでひどい辞め方をして以来、ずっとだった。今回もそうだ。じいちゃんの剣道道場に通っている子供の親御さんの勤め先の口利きで雇ってもらった宅配ドライバーの仕事を、わずか二ヶ月で辞めた矢先なのにさ。やっぱり、ダメだったか。
     理由は大体、人間関係であることが多かったけど、性に合わないとか、仕事がつまらないとか、クズみたいな理由で辞めてくることも多かったから、俺はもうそういうもんだと思って諦めていた。じいちゃんもさ、諦め悪いよな。未だに獪岳のために仕事探してあげてるんだよな。そういうところが嫌がられてるんだって、いい加減気付いたほうがいいのにな。
     しかしまあ、今回も無理だろうとは思ってたけど、思ってたより早かったかな、ギブアップ。年末に募集のあった年賀状配達の短期バイトだったのに、決められた期間すら満足に勤められないとは思わなかった。えっと、先週初出勤って言ってたから、これで辞めたら一週間保たなかったってことになる。わあ、最速記録更新したかもね。
     ていうか今辞めるってことは、年末年始ずっと家にいるってことだよね。うわやだわ、俺今年こそ静かな大晦日が過ごせると思ってたのにさ、獪岳が家にいるなら絶対ガキ使観るじゃん。笑いもしないくせに。俺、やなんですけど。
     気がつけば、駅前の雑踏は遠ざかっている。家から一番近いコンビニに到着した俺は、自動ドアをくぐって買い物カゴを手に取った。缶酎ハイと、ポテトチップス。それから、肉まんとおでんも買って帰ろう。ご立腹でご帰宅される獪岳に、少しでも機嫌を直してもらわなければならない。そしてもう少し仕事を続けてもらわなければ。
     誰もいないカウンターに、重たくなったカゴを置く。しばらく待っても誰も出てこないので、カゴを数センチ持ち上げてから、落っことすみたいにしてもう一度置いた。思ったより大きな音が出た。けど、効果はあったみたい。カウンターの奥から、顔の中央に奇妙な刺青の入った男が現れた。いかにもやる気のなさそうな店員だった――ていうかよく雇ってもらえたな。対コンビニ強盗時のみ時給分の能力を発揮しそうなアルバイトが、大口を開いて欠伸をしながら商品のバーコードを読み取っていく。欠伸中に俺と目が合っても、噛み殺すような素振りは一切ない。そうなるといっそ逆に清々しかった。
    「千と六十円になりまああす」
     間延びした語尾に、敬語がひどく不釣り合いだ。
    「あっ。あの、二〇六番ひとつ」
     チッ。舌打ちしながら壁の棚に手を伸ばし、煙草を一箱レジに通す。金額が変わり、画面には一、五四〇円と表示されていた。普通ならここで「お値段変わりましてナントカカントカ」というセリフの接客マニュアルがあるはずだけど、店員は無言で俺の支払いを待っている。いやまあ、頼むタイミングミスった俺が悪いから、別にいいんだけどさ。
    「二千円お預かりいい」
     いちいち癇に障る語尾だった。俺こんな先輩が働いてるようなバイト先絶対無理。もしここで働いてたら俺きっと、店長に言ってシフト被らないようにしてもらうだろうな。でも獪岳だったらむしろ、こういう変な人がいる職場のほうが馴染めそうな気がする。類友っていうか同じ穴の狢っていうか、変人同士仲良くなれそうじゃんね。そんなことを考えながら、お釣りを数える男の指先をぼうっと眺めていたら、肉まんとおでんを買い忘れてしまったことに気がついた。でももう、今更だな。遅すぎる。
     小銭とレシートを受け取り、店を出る。ビニールを剥ぎ、銀紙を引きちぎれば、メンソールの匂いがつんと鼻腔をくすぐった。一本目、茶色のフィルターを摘まんで取り出し、咥えてすぐに歯を立てる。内蔵されたカプセルを潰せば、更に爽やかなミントの香りが喉から鼻に抜けていった。
     大学は正直、思ってたより楽しくなかった。じいちゃんが行けっていうから奨学金借りて仕方なく通ってるけど、そうじゃなかったらとっくに辞めている。女の子とは仲良くなれないし、かといってサークル活動は性に合わないし。あんなの、お金と時間が有り余ってる人の行くところ、だと思う。
     俺より二年早く大学に進学した獪岳は、一年生の秋にはもう退学届を出していた。たぶんプライドが許さなかったんだと思う。ずっと行きたがっていた大学の入試当日、獪岳はインフルエンザになって三十九度の高熱を出した。そのせいで獪岳は行きたくもない滑り止めの大学に入学金を振り込む羽目になってしまったのだ。じいちゃんは何でもいいから卒業だけしてくれって言ってたけど、獪岳はその言いつけを守らなかった。勝手に退学届を出し、今は仕事を転々としながらその日その日を生きている。
     咥え煙草のフィルターが、ちりちりと音を立てて燃え尽きる。足元の砂利道に投げ捨て、靴底で火を消した。ボロい軽自動車ばかり停まっている駐車場で不法投棄したって、誰に咎められることもなかった。寂れたアパートの外階段は、履き古してすり減った靴で踏みしめても結構大きな音が鳴るみたいだ。溜め息を吐きながら、俺はドアの前で項垂れながらポケットに手を突っ込んだ。指先に、硬いものが触れる。五年前、獪岳とお揃いで買ったキーリングだった。

     夢を見ていないときの睡眠は、こわい。
     深くて暗い谷底へ向かって、真っ逆さまに落ち続けているみたい。夢を見ることが出来なかった日の夜は、いつも目蓋の裏でそんなことを考える。何もない。誰もいない。その空間に、果てはない。ただ、闇がどこまでも広がっている。それだけ。意識を手放すことが出来ない俺はずっと、寒くて暗い、隙間風の吹いている場所にいる。
     ゴソゴソ、耳障りな物音で目が醒める。いつまでも地面に辿り着かない崖下に落ちて数時間、ようやく意識を取り戻すことが出来て少し嬉しかった。
    「おかえりー」
     玄関に人の気配を感じる。電源の入っていない炬燵に潜ったまま、俺は音の発生源に向かって声を掛けた。テレビの右下に表示されたデジタル時計は、午前零時過ぎを知らせている。
    「あれ? 今日獪岳夜勤じゃなかったの」
     音の主はやはり獪岳だった。あぁ、とかまぁ、とか、歯切れの悪い相槌ばかりを繰り返しながら、ナイロン素材の上着を乱暴に脱ぎ、適当に丸めて傍に置く。動作の一つ一つに、がさがさと喧しい効果音が付属して鬱陶しかった。
    「仕事辞めてきた」
     そう言って獪岳は、割引シールの貼られた惣菜パックをどさどさと炬燵の上に置いた。何これ? 最後の晩餐のつもりですか? え、もう無理ってそういうこと? 辞めたよって報告? 帰ったら愚痴るから聞けよって意味かと思ってた。アンタの「もう無理」ってつまり、バイトバックレ宣言ってことですか、そうですか。
    「アンタさ、何言ってんの? まだ一週間も経ってなくない?」
     反射的に咎めるような言い方をしてしまい、はっとする。こういうとき、獪岳はすぐ逆上して俺の頭をぶん殴るのだ。偉そうな口をきくな、カス、そして旋毛に刺さる指の関節……あれ? 珍しい。今日は何か変だ。何もしてこない。それどころか、笑ってもないし、怒ってもない。あいつら全員気に食わねえから、辞めてきた。その言葉には、何の感情も乗せられていなかった。だから俺はそのとき、なんて声を掛けたらいいのかわからなくて、結局、そっか、ってありきたりな相槌しか打てなかった。


     ⚡︎

     破綻と崩壊は、いつもセットでやってくる。毎年、クリスマスとお正月がセットでやってくるのと同じように。
     郵便局の短期バイトを辞めてから数ヶ月、獪岳に再就職の兆しは見られなかった。それなのに飯だけは一丁前に食べやがるので、俺が少しずつ家に備蓄しておいたカップ麺やレトルト食品の類は全て獪岳の胃袋の中へと消えていった。つまり無職のタダ飯喰らいが家にいて、その状態がもうずっと続いているというわけだ。あいつはいつになったら働くんだ、なんてじいちゃんは憤っているけど、そんなの俺に聞かないで欲しいし、そんなの俺のほうが知りたいよ、切実に。じいちゃんだっていつまでも元気なわけじゃないんだし、冗談抜きで獪岳が働いてくれなきゃ俺たち人生終わっちゃう。
     俺の人生――即ち、俺が大学と家とバイト先を行ったり来たりするだけの日々が終わったのは、それからすぐのことだった。
     人が死ぬ姿。大体は、病室でたくさんの人に看取られる中、静かに息を引き取る様子を想像すると思う。獪岳は碌な死に方しないとして、俺もじいちゃんもそうやって死んでいくんだと思ってた。だけど、人って案外あっさり死んじゃうものらしい。
     平日の昼過ぎ、空き教室で四限が始まるまで時間を潰しているときだった。誰もいない教室へ、遠慮なく着信音が鳴り響く。知らない番号から掛かってきた電話に、びっくりしてちょっと声が出た。そもそも電話なんて滅多に掛かってこないんだもんな。深呼吸しながら、通話ボタンをタップする。出たら警察で、桑島慈悟郎さんのご家族の方ですかって言うから、頷いた。あとから、頷かなけりゃよかったって思ったけど、それで結末が変わるんなら苦労しないよな。
     急性心不全。それが、じいちゃんの命を奪った犯人の名前らしい。とにかく急いで警察に来てくれって言うから、四限には出ずに病院へ向かった。獪岳にも一応連絡を入れておいたけど、きっと来ないだろうと思った。
     喫煙者でしたか、いいえ、糖尿病でしたか、いいえ。そうですか、彼は肥満でもありませんから、生活習慣からくる心疾患ではなさそうですね。過労、ストレスからくる高血圧が原因かと思われますが、詳しいことは何とも。淡々と説明を続けているこの人を思い切りぶん殴ったって、じいちゃんが生き返るわけではない。だけどどうしてもじっとしていられなくて、俺は自分の頬を力一杯殴った。
     目は醒めない。これは現実で起こったことなんだ。

    「――死んだ? 爺が?」
     は、と息を区切って吐くように、獪岳は笑う。
     帰宅してすぐ、警察で受けた説明の内容を獪岳に報告した。急性心不全。ストレス。詳細不明。じいちゃんは死んだ。もう生き返らない。二度と会えない。間違いなく。獪岳は俺の話を聞く傍ら、炬燵に寝転がってテレビのリモコンを片手にザッピングしている。夕方帯のニュース番組はどのチャンネルも同じような特集ばかりで、俺にとってはただの雑音だった。
    「ちゃんと聞いてよ」
     獪岳の手からリモコンをひったくり、テレビの電源を切る。突然静まり返ったリビングに、獪岳は少し気まずそうな顔をした。真正面から俺の目を見るのがそんなに嫌かよ。
    「……嘘吐くな、カス」
     嘘じゃない。嘘なわけない。鞄の中で皺くちゃになった死体検案書を広げて見せると、獪岳の表情からようやく笑みが消えた。
    「ね。嘘じゃないでしょ」
     獪岳は俺の手から検案書を奪い、一つ一つの項目へ目を通し始めた。その項目の全てが、じいちゃんの死を現実だと告げている。どうしよう、じいちゃん死んじゃった。どうしたらいい? あんなに良くしてくれたのに。路頭に迷っていた俺たちを拾ってくれて、育ててくれたのに、何の恩返しも出来ないまま死んじゃった。これからどうしよう。俺も大学辞めなきゃいけないかな。でももう二年以上学費払っちゃってるし、途中で辞めたからってそれが失くなるわけじゃない。どうしよう。ねぇ、どうしよう。
    「テメェ、ちょっと黙れ」
     涙声になりながら獪岳に助けを求めたけど、よっぽどうるさかったのか、猛烈な勢いで顎を殴られた。舌を噛んだらしく、口の中では鉄の味が広がっている。俺の泣き言はそこで強制的に終了された。
    「ブツブツブツブツうるせーな。しばらく黙ってろ。チッ、あの糞爺、妙なタイミングで死にやがって。これから生活どーすんだよ。遺産は、遺言は。見つからなかったのか」
     獪岳は、じいちゃんが死んでも自分の身の上ばかり心配している。なんだか心臓がふわふわして、足元が急に寒くなったような気がした。ねぇ、獪岳は悲しくないの? なんでそんな、自分のことばっか考えられんの。じいちゃんが死んだってこと、理解出来ないのかな。死ぬってことはさ、もう会えないってことなんだぜ。もう会えないってことはさ、もう二度と、じいちゃんと笑い合ったり出来ないし、もう二度と、殴られたり怒られたりもしないってことなんだぜ。
     獪岳は舌打ちと悪態を交互に繰り返しながら、ばかみたいにずっと検案書と睨めっこしていた。
     ふと、スマートフォンのメッセージアプリを確認する。獪岳に送った内容は、今も未読のままだった。


     ⚡︎

     あれから、三ヶ月ほどの月日が経った。
     結局、直接の原因はわからないまま、死んだじいちゃんは数万円で骨になった。本当はきちんと葬儀を執り行って、道場の教え子たちにも挨拶してもらいたかっただろうけど、生憎俺たちにはお金がなかったので、とりあえず地域の火葬場で焼くだけ焼いてもらうことになった。小さくて白い壺の中に収まったじいちゃんは今、テレビの隣で埃を被り始めている。
     ごめんよ、じいちゃん。俺たち、じいちゃんが残してくれていたお金は、受け取らなかったんだ。難しいことはよくわからなかったけど、司法書士とかいう胡散臭い人間が言うには、じいちゃんの道場はかなり築年数が古く、修繕費や相続税、それから今後払っていくべき固定資産税のことを考えると、まとめて相続放棄したほうがトータルで安く済むって話だった。だから、じいちゃんの持っていたもの全てを取り上げられた俺たちには、じいちゃんと過ごした日々の思い出だけが残されている。
     あれ以来、じいちゃん関係の書類や手続きで忙しくて、大学もバイトも行く時間がなかった。忙しい飲食店だったからか、数日無断欠勤したせいでバイトは辞めることになった。大学も退学して奨学金の返済を始めなきゃいけないところだったし、ちょうど良かったのかも知れない。最後に受け取ったバイト代は先月で底を尽きたのに、再就職先はまだ見つかっていない。獪岳に至ってはハローワークにすら足を運んでいなかった。
    「腹減ったな」
    「もう冷蔵庫の中何もないよ。マヨネーズと醤油しかない」
     暦上はもう初夏と呼ばれる時期だというのに、我が家のリビングではまだ炬燵が幅を利かせている。電源の入っていないそれから数週間ぶりに這い出た獪岳は、冷蔵庫からマヨネーズを取り出してティースプーンの上に搾り出した。そしてその上から醤油を一滴垂らし、舌で舐め取り嚥下する。それを二、三度繰り返し、満足したのか再び炬燵へと戻っていった。
    「アンタのそーゆーとこ、本当尊敬するよ」
     こんなにわかりやすい嫌味にも、返事は戻ってくることはない。消費するエネルギーが枯渇しているからなのか、獪岳はもう既にすうすうと寝息を立て始めていた。

     知識って、大切だよな。俺全然知らなかったんだ。お金がなかったり働けない人を、国が助けてくれる制度があるんだって。でもさ、仮に知ってたとして、獪岳はそういう制度を利用してくれたかな。へえ、そんなのがあるのかって言って、病院へ行って診断書もらったり、役所で手帳を申請したり、自分が働けない人間ですってことを証明したり。獪岳は、そういう行動を恥だと思う節がある。もちろんどれも恥ずかしいことじゃないのに、なぜか獪岳はダメだった。どうしても、自分のプライドが自分の人生の邪魔をしてるみたい。
     色々調べなきゃなって思っているうちに、携帯の電波が止まった。そりゃそうだ。三ヶ月も支払いが滞っている。この調子だと、電気もそろそろ止まりそうだ。ガスは先月から止まっているのに、獪岳はまだ炬燵の中にいた。
     俺は不思議と、頑張ってない獪岳を見ると安心してしまうようなところがあった。いや、働けよって思ってるよ、思ってるけどさ、別に無理して働いて変な道に足を踏み入れるくらいならさ、この狭いアパートで俺と二人で死んでくれたらいいって、思っちゃってる部分があって。だから俺はずっと家にいる兄貴に働けって言えないでいるし、兄貴が働いてないのに俺が働いて養うのも何か相手のプライドを傷つけてしまうような気がして、なかなか前に進めない。普通の感覚を持ってる人が聞いたらきっと呆れて笑うんだろうな。いや笑えないか。俺たちは二人で、ぼんやりと死に向かっている。
     俺も獪岳もお腹ぺこぺこなのに、ドアポストの胃袋は満杯だった。別に羨ましくなんてないですけどね。何の気なしに取っ手を引いてみる。中からどさどさと落っこちてきたのは、色とりどりの封筒だった。それぞれの表面には、重要、警告、至急開封の文字が躍っている。俺はそれらをまとめてベランダに放り投げ、それからジッポライターのオイルを手に取り後を追った。ずっとコンロの横に転がっていた、いつ買ったのかも覚えていない代物だ。
     灰皿代わりにしていた缶入り煎餅の箱に、束ねた督促状を投げ込んでいく。夏の焚き火は、小さいころ行ったキャンプ以来だろうか。そう思うとちょっとだけワクワクしている自分がいる。古びて匂いのきつくなったライターオイルは、音もなく封筒の上をするすると滑り落ちていった。
     ポケットから煙草と百円ライターを取り出し、そっと火を灯す。フィルター越しに聞こえる、ちりちり葉っぱの燃える音。ベランダの向こうは、日が落ちたばかりなのにまだ少し明るかった。
     缶の中から一枚のハガキを拾い上げ、角に煙草の火を当てる。油をよく吸った紙はよく燃えた。そのまま封筒の海に松明を投げ込めば、瞬く間にベランダはキャンプファイヤーの雰囲気に。俺はなんだか楽しくなってきて、無意識のうちにマイムマイムを口ずさんでいた。


     ⚡︎

    「ねぇ獪岳」
    「あ?」
    「俺、死ぬまでに一回やってみたかったことがあってさ」
    「黙れ、喋るな。喉が渇く」
    「結婚式って知ってる?」
    「当たり前だろうが。テメェはカスな上にアホなのか?」
    「俺ね、結婚式行ったことないの。だから獪岳と結婚式やりたくて」
    「どうしようもねぇな。あーいうのは男と女がやるもんなんだよ」
    「仕方ないじゃん。今ここには俺とアンタしかいないんだから」
    「誰がテメェと結婚するかよ。地球がひっくり返ったってしねぇよ、カス」
    「いいじゃん。真似だけ、ね? お願い。二度とわがまま言わないから」
    「気色悪ィな、お前……何だこれ、輪ゴムか」
    「うん。これ、指輪の代わり。で、ゴミ袋被って」
    「は、これでベールのつもりかよ」
    「うん。ケーキも買ってきたから、あとで食べようね」
    「どこにそんな金隠してたんだ、テメェ」
    「まぁまぁ、どうでもいいじゃんそんなこと。こういうのは気分が大事なんだから。さ、目瞑って」
    「は。お前、まさか」
    「……獪岳。目、瞑ってよ」
    「嫌に決まってんだろうが。殺すぞ」
    「えー」
    「何がえーだ、死ねカス。あと、輪ゴムより良いのがあるだろ」
    「え、何? 獪岳指輪持ってんの?」
    「ほら、これ」
    「あ、そっか! 俺たちお揃いのキーリング持ってたじゃんね」
    「忘れてたのかよ」
    「キーリングを指輪に見立てるっていう発想がなかった」
    「輪ゴムのほうがないだろ」
    「獪岳って頭いいね」
    「テメェがアホなんだろ」
    「それもある。さ、獪岳目瞑って」
    「だから嫌だって言ってるだろうが」
    「えー、ケチ。バカ。クズ」
    「鬱陶しいな。バカはテメェだカス」
    「お願い。早く目ェ瞑って、兄貴」
     だってさ、獪岳が目を瞑ってくれないと、俺、罪悪感に押し潰されそうなんだよ。


     ⚡︎

     五年前。
     じいちゃんがまだ生きてて、俺も獪岳もまだ高校生で、何もかもが崩壊する前のこと。俺たちの仲は最悪で、見兼ねたじいちゃんが「二人で遊びに行ってこい、仲良うなるまで帰ってくるな」って小遣いをくれたことがあった。
     俺は映画を観に行きたくて、獪岳は何か物を買いたがった。曰く、物は売れるから後で自分の小遣いの足しになる、って悪知恵を働かせてのことだった。
     俺は仕方なく折れるふりをして、駅前の百貨店でキーリングを買おうと提案した。有名なブランドでも、キーリングならじいちゃんにもらった小遣いで買える値段だし、売るにしたって値崩れしづらい。思惑通り、獪岳は俺の提案を飲んだ。
     俺と一秒でも隣を歩きたくないと文句を垂れる獪岳をなんとか宥め、ブランドショップでキーリングを購入する。革製のチャームが付いた、シンプルなキーリングだった。
    「このカス、殺されてえのか」
     出来上がったキーリングを見て、獪岳はなりふり構わず怒鳴り散らした。週末の午後、百貨店の正面玄関は家族連れで賑わっている。
    「誰に断ってイニシャル刻印なんかしてんだ、テメェ。死ね、殺してやる」
     何発殴られたって、俺は全然平気だった。だって、俺を殴ったところで、もうこの文字は取り消せない。返品も出来ないし、売ろうにも買い手が制限されてしまうせいで値段を付け難い。煌びやかな飾り文字で「Z&K」と刻印された、革製のチャームが付いたキーリング。俺の思惑通り、この世でたった一つの、手放せない宝物になったわけだ。デパートの玄関ロビーでサンドバッグ状態になっていた俺は、怒り狂った獪岳が警備員に止められるまでずっとヘラヘラ笑っていた。
     今日に至るまでずっと俺はこんな調子だったので、いつかは獪岳に殺されるんだろうって思って生きてきた。むしろ、その日を心待ちにしているような節もあった。俺はアンタが嫌いだし、アンタも俺のことを嫌ってる。それって同じ気持ちってことだし、向きが変わればお互いを見つめることだって出来るでしょう。いきすぎた憎悪は、もはや愛情に近い。それが家族愛ってやつなのかなあ、普遍的な愛がわからない俺には、見当もつかないけれど。
     アンタがどうかは知らない。でも、俺はアンタのこと殺してやりたいって思う。憎いからじゃない。家族だから。大切だから。愛してるから、殺したい。
     このままここで生き続けたって、いつかは終わりが来る。俺がもしここで死んだら、アンタはどうやって生きてくの。プライドばかりが邪魔をして、自分の人生すら上手く操縦出来ないアンタが、一人になって生きていけるわけない。俺がいなくなったら、アンタは一人になる。一人になったらアンタは絶対に罪を犯す。だから俺は今のうちにアンタを殺さなくちゃならない。アンタを罪人にしないために。アンタを幸せなまま死なせるために、殺すんだ。
     俺さ、たぶん誰よりも、幸せっていうものに憧れてたんだと思う。ドラマや小説でよくある普通の幸せっていうものが、本当に幸せなのかなって確かめたくてさ。家に帰れば恋人や家族がいて、毎日一緒にご飯を食べて、記念日やお祝いごとのときはご馳走を用意して、それからくだらないことで笑うんだ。でもさ、それって本当なのかな。本当にテレビで見るみたいな光景が、みんなにとっての幸せなのかな。人はみんな、それぞれ違う見た目をしているのに、どうして幸せだけが同じようなカタチに当て嵌められているのかな。ねぇ、それっておかしくありません? やっぱり変だよね。俺さ、アンタの言う通りバカだから、幸せのやり方わかんないんだ。だからこんなやり方でしか出来なかった。合ってるのか間違ってるのかわかんないけど、これが俺なりのやり方なんだ。ごめんね。こんなこと望んでないよね。知ってる。知ってます。だけど、もう無理なんだ。ごめんね。許してちょうだいね、兄貴。


     ⚡︎

    「――続いてのニュースです。今朝、都内のアパートから二十代の男性二人の遺体が発見されました。公共料金の集金に訪れていた男性から警察に通報があったようです。現場の神崎アナウンサーに中継が繋がっています。神崎アナウンサー?」
    「はい。現場の神崎です。こちら、警察による捜査が終わり、住宅街には静けさが戻ってきていますが、依然として発見現場となったアパートの玄関周辺にはブルーシートが掛けられています。こちらは単身者向けの二階建てアパートになっていて、二階部分の一室に二人は住んでいたようです。二人は戸籍上、同じ人物に養子として迎えられた血の繋がらない兄弟で、近隣住民の話では非常に仲が悪く、普段からトラブルが絶えない関係だったそうです。このアパートも父親名義で借りていたそうなのですが、彼らの養父は数年前に既に他界しており、それ以来家賃も未納になっていたそうで、何度も督促状を送ったが無視されてしまった、と建物のオーナーの方から話を伺うことが出来ました」
    「神崎アナ、事件の具体的な内容について、警察から発表はありましたか?」
    「現場の関係者によりますと、死因はどちらも一酸化炭素中毒だということです。遺体は部屋の中心で折り重なるようにして倒れており、どちらも頭にゴミ袋を被っていたことから、ドライアイスによる一酸化炭素中毒死が疑われていますが、入手経路など、詳しいことはまだわかっていません。ベランダからは何かを燃やしたようなあとが発見されているようですが、こちらは事件とは直接の関係はないようです。警察は事故死と殺人、両方の側面から捜査を行うべく、本日中に捜査本部を設置する方針です。また詳しいことがわかり次第、お伝え致します。現場からは以上です」
    「神崎アナ、ありがとうございました。えー、皆さんもドライアイスの扱いには充分気をつけてください。では、次のニュースです――」
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