【HQ】one day more 北極から始まった世界弾丸ツアー最終日。サンパウロのマーケット見物に来た俺と西谷はフードコートで少し遅めの朝食を摂っていた。
様々な国で多種多様の食事を経験したけれど、お洒落なレストランよりもこうした屋台で周囲の喧騒に耳を傾けながらの食事の方が断然落ち着くし気軽で楽しい。俺はプラスチックの青い皿に盛られた肉と豆をつつきながら買い物客や呼び込みで賑わう市場を眺めた。
二時間かけてうろついても足りないほど大きな市場には、カラフルな野菜や果物、新鮮な肉の山、目の前で捌かれる名前もわからない川魚など、どの店を覗いても目を奪われるような光景が広がっていて、手にしたカメラは何度もシャッター音を立てていた。
土地が違えば人も違うし、並ぶ品物の種類も違う。
けれどその一方で、初めて訪れた土地にいながら目の前で広がる景色にデジャヴを抱くこともこの旅行を通して幾度かあった。人の営みは案外どこも同じなんだなとありきたりの感想を抱きながら再びシャッターボタンを押す。帰ってから写真を見比べてみるのもきっと面白いだろう。
『帰ってから』…………そう、帰る。
北極が俺の希望を通した俺たちの旅の始発点なら、サンパウロは西谷が選んだ終着点だった。『日本の裏側はブラジルって言うでしょ!』とのことだったが、俺としては南極の方が収まりがよかった気もする。まあ、主に金銭的な理由でそれは断念せざるを得なかったのだけど。
明日の俺の日本帰国でこの二人旅は終止符を打つ。そう思うと名残惜しくもあり、物足りなくもあった。世界の広さを行く先々で実感しながら、目にしたのはそのほんの一端でしかないのだ。
とはいえ同じくらいに日本が恋しくもあった。特に醤油と生卵と米だな、と中央で小山になったご飯をスプーンで崩す。細長い白米は見た目も風味も日本ではあまり馴染みがないものだったが、油で炒めたり、こうやって豚肉の脂やソースと絡めるといくらでも食えるくらいに旨いのだと俺はもう知っている。
こういうのを自分で作ってみるのもいいな。最近は海外の輸入食料品店とか増えてるし――なんて考えながら頬張っていると、向かいの席でミルフィーユみたいなハムを挟んだ分厚いサンドイッチをぺろりと平らげた西谷が皿を脇に押しやりながら「この後はどうします?」と身を乗り出した。
「行きたいところとか、土産買い足したいとかありますか? 付き合いますよ」
「そうだなあ……」
昨日は到着早々なにかに急かされるように博物館や教会を慌ただしく観光したから、今日はぶらぶらとサンパウロの街を散策して旅の終わりを惜しみながらゆっくりと過ごしたいような気がする。
そう考えながらも俺の意識は目の前で動く唇に吸い寄せられていた。細かなパン屑が付いている。視線に気づいたのか、西谷の小さな舌先がぺろりと唇を舐めるのを目にした瞬間、腰の辺りがぞわりと疼く。俺は慌てて口の中のものを呑みくだした。
かつては部活のチームメイトかつ先輩と後輩という間柄だった西谷と付き合うようになって数年が経つ。とはいえ俺が好きだと告げて、西谷が思いの外すんなりとそれを受け入れたのはお互いが卒業してからで、俺はすでに上京していたし、西谷は宮城にいて、そしてあっという間に海外へと飛び出して行った。だから深い仲になったあとも離れていた期間の方が長いし、躰を重ねたのなんて片手で数えられる程度。最後にアイツを抱いたのなんて何年も昔のことだ。
この弾丸ツアーで連日連夜を一緒に過ごす最中、チャンスは何度もあったと思う。でも毎日のようにふたりで未知の土地での冒険に繰り出しては、時間も体力も使い果たして泥のように眠る夜を繰り返していたから結局行動に移せないままだった。
――というのは言い訳で、それ以上に躊躇いがあったのだろう。キスやハグ程度の愛情表現は俺からも西谷からも時折示していたけど、どちらもそれ以上を求めることも求められることもなかった。
いまでも恋仲といえるかあまり自信がないし、西谷はもう性行為を望んでないかもしれないと思えば手を出す勇気も持てずにいた。俺の迂闊な行動で、せっかくの旅行を気まずい雰囲気にしたくなかったし。
けれど、この旅が終わるということは西谷とも当分お別れということだ。それを自覚した瞬間、信じられないほどの情欲が全身を駆け巡る。
躊躇は一瞬。とはいえがっついているように見えるのは避けたいから、俺は殊更慎重に口を開いた。「――今日の西谷の時間、全部俺にくれないか?」
「俺の時間、っすか……?」
予想外だったのか、西谷が戸惑ったように呟いた。
食事を進めながら行儀悪く左手を伸ばして、テーブルに置かれたその右手に指先で触れる。びくりと震えたが引っ込められないのをいいことに、俺はそのまま指から手の甲へと掌を滑らせた。ひと回り以上に小さい西谷の手は俺の手の中にすっぽりと隠れてしまう。
人差し指と親指で容易に摑める手首をそっと握って、指の腹で骨の形をなぞる。それを見下ろす顔をちらりと窺えば、嚙みしめた唇を弛めて、西谷は小さく息を吐いた。
「旭さん、もう俺とのセックスに興味なくなったんだと思ってました」
西谷の露骨な言い様に俺は思わず苦笑した。わざとらしい言葉選びだが、そのあけすけな態度の裏に彼なりの気恥ずかしさが隠れていることはそれなりに長い付き合いで知っている。
「そんなことあるわけないだろ」
「でも実際、手ぇ出してこなかったじゃないですか」
「出したかったけど、俺も西谷はそういうの興味なくなっちゃったかもって思ったんだよ。それにお前と過ごしているだけで毎日楽しくて楽しくて、充分満足していたし」
「で、今になってヤりたくなったって?」
アンタずりぃな、と言って西谷の顔がくしゃりと歪む。泣かせたかとギョッとしたが、一瞬後に彼が笑っているのだと気がついた。西谷の手がゆっくりと持ち上がって、俺の手のひらを指を絡めるようにして握り返す。いわゆる恋人繋ぎというやつだ。
できるだけ顔には出すまいとしたけれど、どうしてもだらしなく弛んでしまっている気がする。誤魔化しついでに最後のひと匙を頬張っていると、繋いだ手が引っ張られて柔らかな感触が手の甲に触れた。
ちゅっと音を立てて顔を上げた西谷は、スプーンを咥えたまま固まる俺にしてやったりとでもいうような笑みを浮かべた。
「じゃあ先に宿に帰ってるんで。三〇分くらいぶらぶら買い物でもしてから来てください」
「あ、うん……えっ、なんで?」
手を繋いだまま、スツールから立ち上がった西谷を見上げる俺は随分間抜けな顔をしていたんだろう。ぶはっと吹き出すと、西谷の空いた手が俺の背中を陽気に叩く。
「久しぶりだし、俺にも色々準備が要るんですよ」
それじゃ、と手が解かれて西谷はあっという間に市場の雑踏に消えていった。残された俺は溶けた氷でだいぶ薄くなってしまったジュースを呆然と啜る。
――準備ってことは……準備ってことか。
思考停止状態の頭でそんなことを考えていると、ヒュウ、と隣のテーブル席から口笛が聞こえた。振り向けば賑やかに歓談していたラテン系の若い女性が三人、笑いながら俺に向かって揶揄うような仕草やサムズアップをしてみせる。
ブラジルには日系人が多いとはいうが、日本語の会話がどこまで聞こえていたのかはわからない。けれど繋いだ手やキスなどから西谷との親密な関係を察したのだろう。
たちまちに血の気がひく。堂々と行動してしまったが、そういえばブラジルでは同性愛は問題なかっただろうか。違法ではなくても暴行や殺害事件に巻き込まれる場合もある。念のため日本を出発する前にざっと調べていたけれど、大っぴらに恋人同士として振る舞うこと自体なかったから旅行中はあまり気にすることもなく過ごしていた。でも、マレーシアやシンガポールのような国では刑罰があったし、エジプトのように明確な違法行為ではなくても逮捕される可能性が高いといわれている国もあった。ブラジルは……どうだったっけ。いまの様子では、そこまで不安がらなくても大丈夫なのだろうけど。
俺が浮かべたぎこちない笑顔は違うふうに受け取られたようだ。彼女たちは口々に「リラックス」と言って笑うと自分たちのお喋りに戻っていった。
西谷が心配だ。三〇分と言っていたけど、一〇分くらい早めに戻ってもいいだろうか。ぐずぐず考えるより先に携帯を手に取る。数回の呼び出し音で不安に思う前に西谷は出た。背後から喧騒が聞こえるってことは、まだ外にいるのだろうか。
『アンタ意外と耐え性ねえな。それともなにか忘れもんでもありました?』
「そういうんじゃないけど、なんとなく気になっちゃって。もう宿に着いた?」
『まだです。必要な物あるんで、ちょっとドラッグストアに寄ってて……そーいやちょうどよかった。コンドームって一番でっかいやつでいっすかね?』
「海外の基準だろ? Lで充分だよ」
『んじゃあXLにしときます』
「過剰評価やめろよな。ブカブカだったら俺がだせえじゃん……」
『俺が保証しますって。旭さんにLは小せえですよ』
ケラケラと無邪気な笑い声を最後に電話は切られた。会話の内容は不本意だったが、西谷が言うならそうなのかもしれないとも思う。なにせ俺の息子のサイズを身を以て知っているんだから。でも記憶違いの可能性もあるし、念のために自分でLサイズのコンドームを買っておくことを心に決めて、空になったグラスを置いて席を立つ。隣テーブルからの「Bye」と見送る華やかな声に「Have a nice day」と返しながら手を振ると、西谷から言われた通りに精がつくような何かと、飲み物と、ついでに身内へのブラジル土産を考えながら俺は市場へと戻っていった。
続く