【HQ】タクシードライバー 私は車田轍、三十六歳。都内のタクシー運転手として働いている。運転手になるために与えられたかのような名前の通りの人生、というわけでもなく三度の転職を経てこの業界に入って早幾年。ベテラン運転手にはまだ遠く及ばないが、それなりに様々な人たちを乗せてきた。同じくらいに様々なドラマの一端も垣間見てきた――なんて言えればかっこうもつくが、誰かのドラマの背景で雑踏から現れては再び雑踏の中へと消えていくような、しがない運転手稼業である。
その日は薄暗い曇天だった。東京駅までお願いします、と言いながら男は抗議の声を上げる少年と荷物を後部座席に押し込むと、開けたままのドアから顔を覗かせた。
「ここからだと運賃ってどれくらいになりますかね」
まっすぐな長髪を垂らし眼鏡をかけた顎髭の男に目安の金額を答えると、彼は肯いて財布を取り出した。
「じゃあ一万円で足りるかな……念のため二万渡しとくよ」
「だァから、俺は大丈夫ですって! 電車使いますから!」
万札二枚を差し出す手を弾いた少年が、埒があかないとばかりに反対側のドアから出ようとする。その肩を押さえて男は穏やかに、けれど断固として厳しい声を出した。
「駄目。俺のせいで足挫いたんだから、出来るだけ負担かけないようにタクシー乗ってけって」
「昔とは違げぇんだし、そんな気ィ使わなくても平気だって!」
染めた前髪を額にひと房垂らした少年はスポーツでもやっていたようだ。高校生だろうか、とルームミラー越しに揉める二人に目を向けたまさにそのとき、なおも言い募ろうと開きかけた彼の口が文字通り相手の唇で塞がれた。とっさに視線を外して平静を装ったが、急に静まり返った車内に濡れた音が驚くほど大きく響く。苦しげな息遣いはすぐに甘やかな吐息へと変わった。
三分以上経ったように思えたが、実際は五秒にも満たなかっただろう。最後に小さなリップ音を残して顔を離した男が、立ち上がりながらこちらを向く気配がした。
「それじゃあよろしくお願いします。元気でな、ニシノヤ」
みじろぎ一つしない少年にそっと触れて、男はタクシーから離れた。路端に立つ彼に促されるまま手元のボタンを操作してドアを閉める。慣れた手順で発車しながら、私はミラー越しに後部座席を幾度となく確認した。気難しい顔で沈黙を続ける少年になんとなく口を開く。
「彼氏さん、かっこいい人ですね」
「……別に、彼氏とかじゃないです」
「えっ」
脳裏に蘇ったのは、男がニシノヤと呼ばれた彼に一万円札を渡していた姿だった。研修で学んだ『パパ活』『売春』といった単語が過ぎる。
「高校のときの一個上の先輩っスよ」
「……ああ、なるほど」
脳裏に浮かんだ不穏なワードたちを慌てて消して頷く。それよりも『高校のとき』ということは、
「お客さん、高校生じゃないんですね」
「これでも俺ハタチ越えてますよ! よく間違えられるから別にいーですけど」
「すみません……」
首をすくめてから、はたと気がつく。
「恋人じゃないってことは、さっきのは一体なんだったんです?」
「そんなの俺が一番知りてえっスよ!」
ドスのきいた声に再び首を竦めながらゆるくハンドルを切る。前方の赤信号に注意を払っていると、
「……ちょっと聞いてもらっていーですか」
絞り出すような低い声とは裏腹に、ルームミラーの乗客は静かな顔をしていた。