【HQ】解放(仮) ――タダほど怖いものはない。それは、己や周囲の安全を守るためにも大事な教訓だ。ともあれ東峰がそんな反省を抱いたときにはすでに、事は取り返しがつかないところまで進み、そして果てた後だった。
その夜、東峰と西谷は宿泊二日目のホテルを出て近場のダンスバーに入っていた。夜の熱気が狭い店内に充満して、大人しく座っていても肌にじんわりと汗が滲む。東峰はひとり、カウンター席で水パイプを嗜みながら階下で踊る人の群れをぼんやりと眺めていた。そこへ喧騒をかき分けて陽気な英語が響くと同時に親しげに肩を叩かれる。
「やあ、アサヒ! 君のハニーはどうしたんだい?」
振り返るとくるりと跳ねる焦茶色の髪に同じ色の瞳を輝かせ、健康的な褐色の肌をネオンに彩られながら見覚えのある男が立っていた。同じホテルの宿泊客で昨晩夕食をとった店で偶然居合わせ意気投合、その後パブまで同行し親睦を深めたスペイン人のアルベルト……だったはずだ。
スラリとした東峰と同じくらいの高身長で、笑うときに広い額を叩く癖がある。この国を訪れるのは三度めらしく、オススメの観光地や食事、あまり足を運ばない方がいい場所など参考になるアドバイスを教えてくれた。年は東峰よりも三つほど上だろうか。独身で長期休暇の度に旅行するのが趣味らしい。
旅先での苦労話やハプニングトークで西谷とは特に盛り上がっていた。キョロキョロと辺りを見まわす彼に「トイレに行ってる」とジェスチャーまじりで話す。もうそろそろ戻ってくるはずだけど、この混雑のなかうまく動けずにいるのかもしれない。もしくは妙齢の女性にナンパされてダンスホールで踊ってるかも。
ぎこちない英語でも伝わったらしい。アルベルトは頷くと東峰の隣に腰掛けた。
「水パイプ、昨日が初体験って言ってなかった? 気に入ったのかい」
「まあね……せっかくだし違う味でも試したくて」
「確かにいろんなフレーバーがあるもんな〜! おれもここに来るとよく吸うよ。スペインにも店はあるけど、やっぱり異国で吸う水タバコが一番だ」
アルベルトは話好きで、西谷とは英語とスペイン語、それにイタリア語も交えて話していたようだったが東峰には英語が精一杯だ。長旅の中で会話へのハードルはだいぶ下がったが身振り手振りを交えながらの英会話はなかなか忙しい。それでもなんとか意思疎通をしていると「そうだ!」とアルベルトが瞳を輝かせた。
「いいもんやるよ。疲れた身体にめちゃくちゃ効くぜ」
なんだか草臥れたツラしてるしな、と背中を叩かれる。と同時に手のひらに固い何かが滑り込んだ。テーブルの上で眺めたそれは30mlほどの小さな瓶だ。暗がりにとろりとした液体が入っているのが見える。
「なにこれ?」
「帰ってシャワー浴びたあとに飲むといい。元気が出るし、最高の気分になれるぜ。ここらで売ってる栄養剤みたいなもんだよ」
「悪いよ、別にそんなに疲れてないし」
「しょぼくれた顔してるじゃないか。ああ、ハニーがいないからかな?」
「アイツとはそういうのじゃないって」
アルベルトはなにかと西谷と東峰の関係を揶揄ってくる。海外では同性愛が認められつつあるからか、これまでにも似たようなことを幾度か聞かれたこともあった。別に西谷とはそういった関係にはないけれど、いったい何がそんな勘違いさせるのだろうか。苦笑する東峰をしげしげと眺めてアルベルトは片眉を上げた。
「なんならおれんとこ来てもいいんだぜ。アンタなら歓迎だ」
連絡くれよ、なんてウインクすると、目を白黒とさせる東峰の肩を再び叩いて立ち上がる。「それじゃあおれはもう行くよ」
「いいのか? アイツももうすぐ戻ってくると思うけど」
「この後用事があってね。ユウによろしく」
ひらりと手を振って、高身長のスペイン人はあっという間に人混みに紛れて消えた。肩をすくめて貰った小瓶をポケットに仕舞う。言われてみれば確かに旅疲れのようなものもあるかもしれない。少量なら試してみるのも悪くはないだろう。
そこへ人の波をかき分けてながら西谷がやっと姿を見せた。ひしめく人々に随分揉まれたのか、頬は紅潮して自慢の髪は少しへたっている。
「おかえり。さっきまでアルベルトがいたんだけど、すれ違いになっちまったな」
「アルベルト? あ、しまったな。それなら明日行く街について聞きてえことあったんだけど」
「朝食の時でもいいんじゃないか? だいたい七時にいるって言ってなかったっけ」
「そうでしたね。……それより! 聞いてくださいよ!」
西谷はスツールによじ登ると、遅くなった理由を猛然と話し始めた。
トイレを出て元の席に戻ろうとしていたらいつのまにか店の外に出ていたこと、入場制限でなかなか中に入れなかったこと、やっと入れたと思ったら道を間違えて店内を一周したこと。ナンパのような出会いもなく、人混みにひたすら翻弄されていたらしい。
特には茶々を入れて一緒に声を立てて笑いながら東峰はジャスミン風味の煙を燻らせた。
アルコールも入って陽気に笑い合いながら宿に戻ったふたりは、借りている部屋でいつものように順番にシャワーを浴びた。
乾かしたあとも湿っぽい髪を気にしながら部屋に戻った東峰は、シャワールームから聞こえ始める鼻歌にちらと微笑んで冷蔵庫を開いた。戻ったときに貰った小瓶をここに仕舞っておいたのだ。せっかくだからすぐに試してみようとキャップをひねりながらベッドに腰掛ける。テレビをつけてから、東峰は改めて小瓶をまじまじと眺めた。
中身はどぎつい緑色をしていて、小瓶には東峰の読めない文字で用法などが記されている。やっぱりやめようかな、と一瞬躊躇ったがせっかくの厚意なのだからと目を瞑ってひと息に呷った。ひんやりとしたとろみのある液体が咽喉を滑り落ちる。見た目にしてはミントのような風味はなく、ほんのりとした甘味が感じられるだけだった。
あっという間に空になった小瓶を手にぼんやりと座る。栄養剤にもさまざまなものがあるが、ここ数年は無縁でやってきていた。効果ってすぐ出るのかな、と考えながら文章を眺めたが、やはり東峰にはさっぱりわからない。諦めてサイドテーブルに小瓶を戻すと、ベッドに足を投げ出した。その瞬間、どっと冷や汗が吹き出る。
恐々と落とした視線の先、東峰の足の間には寝間着のズボンを突っ張って立派な山が勃ち上がっていた。
続く