【enst】(仮) 鳥の囀りに誘われて青白い瞼がふるりと震えた。細く長い睫毛のあわいから、暁光に先駆けて赤く烟る瞳が徐々に現れる。なにか哀しい夢でも見たのだろうか。薄らと開いた眦からひと粒の涙が滑り落ちていくのを感じながら、彼は窓に視線を向けた。カーテンの輪郭こそ暗がりのなかで微かに浮かび上がっているものの、日が昇るにはあと一時間はかかるだろう。朝と呼ぶにはまだ早い。
朔間零は根っからの夜型人間である。
いつかのインタビューでの「日が暮れてからが我輩のフィーバータイムじゃ♪」という発言通り、体質上とにかく太陽に弱く、可能な日にはいつまでもダラダラと寝床に潜り込んでいた。三つ子の魂百までとはよく言ったもので、それは彼の長年の習性であったけれども、近ごろはいくら夜更かししても自然と目覚めが早くなり、いまやスマートフォンのアラーム機能はすっかり無用となっていた。
寝不足の重い倦怠感に包まれながら、ぼんやりと天井を眺めやる。変わらない光景。変わらない寝覚め。ゆるゆると覚醒する頭の中で、零はつい先ほどまで見ていたはずの夢の縁をなぞった。もとより零が持つ本来の記憶ではないが、それでもぽっかりと欠けた空白に胸が締めつけられるような淋しさを覚える。
――いったい何を見たんじゃろ。
吐息まじりにひとりごちると、不意に柔らかな温もりが片腕に押しつけられた。顔を向ければ、隣に潜り込んでいた同居者が横たわったまま、寝ぼけ眼で零を見ている。「……起こしてしまったかの」これもいつものことだったが、申し訳なく思いながら囁く。起きるのか、と問うような眼差しに微笑みで答えると、零はそっと彼の身体を抱きしめた。
寝起きのぬくい体温が腕になじみ、寂寞とした心を慰めてくれる。後頭部に鼻先を埋めて日向のような匂いを深く吸い込むと、露骨に嫌がった彼は唸りながら身を捩って、するりと零の腕から逃げ出した。軽やかに床に降り立ち、さっさとドアへと向かってしまう。
「待って、わんこ」とっさに飛び出たかさつく声に一度だけ振り返り、鼻を鳴らすと彼はドアの隙間からするりと姿を消した。
やれやれと苦笑する。彼も歳を取ってだいぶ落ち着いてはきたが、ああいうせっかちなところは変わらない。
「……どれ、よっこいしょ」
肘をつき、腕に力を入れて重い身体をようやっと起こした。目覚めはすっかり早くなったが、それでも起床にはひと苦労する。寝ている間に強張った身体の節々を慎重に動かしながら零は寝台を降りた。椅子に引っ掛けていた薄い上着を羽織り、ペタペタとスリッパを鳴らしながら廊下に出てリビングに入る。
カーテンをぴっちりと閉ざした室内は暗く、夏にもかかわらずひんやりと冷えている。壁側で元気よく水を飲む物音に、零はひっそりと微笑んだ。
衰えることのない夜目のおかげで不自由はない。明かりは点けないまま、己れも咽喉を潤そうとカウンターキッチンでマグカップに水道水を少量入れて、保温予約をしていたポットから湯を足す。マグカップのじんわりとした熱が指先を温め、ひと口含めば、ややぬるい白湯が臓腑に沁み渡る。自然とゆるむ身体にほうと息を吐いた。力が抜けると、途端に瞼が重くなる。零はダイニングチェアのひとつに腰掛けてとろとろと微睡んだ。
やがてフランス窓を覆うカーテンの向こうから、淡い朝の気配が少しずつ忍び寄ってくる。外から届く鳥の囀りに薄目を開けて明瞭になっていく世界を見るともなしに眺めた零は、眠気が残る瞼を再び伏せてあくびをした。
――あまりお腹は空いておらぬけど、ミニトマトでサラダくらいは作ろうか。でも、ボウルの分は昨日全部使ってしまったし……まあ外の青い子たちもそろそろ熟れておる頃じゃろ。そういえばパンもあと二枚あったはず。あとは、そうじゃな……。
思考を巡らせる合間に、すっかり冷めてしまった最後のひと口を啜ってマグカップを置く。零はのっそりと立ち上がり、カウンターに置いたままだった空のボウルを手に取った。
カーテンを引き、窓を開け放してウッドデッキに出る。七月の早朝の空気は心地よく、身体にしがみついていた眠気の残滓を打ち払っていくようだ。
ステップを降りてすぐ脇の二つ並んだプランターには、予想通りに赤く色づくミニトマトがいくつも見える。丁寧に鋏を使うのも面倒で、零はぷちぷちと手でもぎ取ってはボウルに放り込んでいった。下方に隠れた形の良い最後のひとつをもぐと、立ち上がって腰を伸ばす。厚い雲の端が赤く染まりつつある東の空に目を細め、「よい朝じゃの」と呟いた。
収穫物を手にふたり暮らしの平屋の中に戻る。突っ掛けていたサンダルをスリッパに履き替えながら冷えた肩を竦める零を、ソファの定位置でくつろいでいた同居者は穏やかな眼差しで迎えていた。
新鮮なミニトマト数個と少量のベビーリーフにベーコン、そしてトーストひと切れを添えた朝食を摂り、着替えを済ませた零はコーヒーを片手に新聞を読んでいた。アイドル国際フェスティバル第十回の日本開催決定という情報には些か気を取られたが、それ以外にはさして目ぼしい記事もなく、すぐに読み飽いたそれを適当に畳んで老眼鏡を外す。外の世界はすっかり夜明けを迎えたようだったが、灰色の雲が空全体を覆っていて、未だに日差しに弱い零にとっては程よい曇り具合である。
「どれ、そろそろ時間じゃな」
今日は少し遠出になるが、この様子なら大丈夫だろう。食器類を手早く洗って片付けると、濡れた手を拭いながら零は頭を巡らせた。朝食後に姿が消えていた同居者が楽器部屋から現れて、察しよく近づいてくる。
「わんこや、ちょうどよかった。そろそろ散歩の時間じゃよ」
散歩、という言葉の響きを耳にして、嬉しそうに揺れる尻尾に零は唇を綻ばせた。彼の喜ぶ姿がただただ愛おしかった。
吸血鬼は鏡に映らない存在だ。そんな懐かしい設定で自分を誤魔化しながら視線を逸らす。
もう入念なスキンケアの必要はないとはいえ、いまでも零は日焼け止めをしっかりと塗っていた。かつては甘えて塗ってもらっていた記憶を首を振って散じながら、零は手のひらに絞り出したそれを少しずつ肌膚に馴染ませていく。
洗面所を出、長袖の薄手の上着を羽織り、つば広の帽子を被る。待ちくたびれた同居者に急かされるままに玄関に向かった零は、上り框に腰掛けてつぶらな瞳に見つめられながら彼の首輪の金具にリードを繋いだ。そして散歩用カバンの中身を確かめてから、慌てて自分の荷物を取りに戻る。
今度こそやっと準備を整えて玄関に降りる零を見上げて、同居者は呆れたように首を傾げてみせた。すまなかった、と詫びがわりに耳元を掻いてやれば、心地よさそうに黒い頭を手のひらに擦り寄せてくる。
「待たせてしまったのう、わんこ。でも今日は少し遠出するから、いっぱいお外を楽しめるぞい」
呑気な同居人の声かけに、彼は散歩への期待を込めてワンッと元気よく吠えた。