かさなるしあわせかさなるしあわせ
恋人の家での初めての『お泊り』はいくつになっても胸を擽り、心が浮き立つものだと思う。ましてや年齢を考えれば、もう恋をするとは思っていなかったのだから尚更だ。
一回りどころか、二回りの方が近い年齢差。それを情熱的に飛び越え真っ直ぐに想いを告げてきた青年は、眩いほどの華やかさを持つだけでなく、鯉登音之進というその名前は文字も響きも凛々しいもの。
最初鶴見はそんな音之進に対して、彼は常に恋の勝者であったのだろうと思った。誰の目をも奪う姿だからこそ、手管も駆け引きもなく『好きです』と想いを伝えるのが何よりも魅力となる青年という印象だったのだ。
それが意外にも恋愛経験はゼロ。しかも自分が初めての恋人だという事に鶴見は心底驚いた。自分の魅力を知っての告白ではなく、音之進はそうする以外の方法を知らなかったのだ。
純粋に向けられる想いを嬉しくも光栄だと思うと同時に、清らかさとはほど遠い『大人』な面は見せられないとも思った。そしてそんな事で嫌われたくはない、とも。年甲斐もなく一目惚れをしただけでなく、相手も同じように自分を想ってくれたのだ。こんな奇跡、二度と起こり得ない。
だから鶴見は音之進との距離の縮め方には細心の注意を払った。恋人という関係ではあるが、欲を露わにして怯えさせる訳にはいかない。
デートをしても二十二時には一人暮らしの自宅へ送り届け、別れ際に頬への軽いキスのみ。柔らかな唇をじっくり味わいたいという本心は決して見せなかった。
そして土日両方に会う約束があっても、必ず『また明日』と別れた。例えデート先が鶴見の自宅に近くとも『ウチに泊まらないか』の一言は飲み込んだ。飲み込み続けた。自宅になど招いたら『大人』な部分を抑えておける自信がなかったからだ。
それが功を奏したのか、交際から三ヶ月ほどが経つと音之進の方から進展を望まれた。ジャケットの袖をきゅっと掴んで、震える手と染まる頬。恥ずかしげに視線を逸らせ、それでも恋人を求める姿は大層可愛らしくいじらしく健気で。鶴見の胸を震わせるのに十分だった。
『…篤四郎さあと夜も一緒にいたいです』
初めての恋人に、この言葉を告げるのにどれだけの勇気を奮い起こしたことか。あとは全て自分に任せるといい。そんな気持ちで自宅に招きかけて、鶴見は自身の手綱を引いた。
音之進の言う『一緒にいたい』と体の関係はイコールではない、と思い至ったのだ。ただ純粋に会う時間が長いと嬉しいという気持ちからのものだったら、欲を露わにした大人など幻滅間違いなしだ。
よくぞ大事なことに気付けたな、と内心で自分を褒めながら、鶴見は音之進へ紳士的な笑みを向けた。
『ならば、今夜はじっくり話そうか』
そうして予約したのは五つ星ホテル。直前の予約だったためにリサーチも何もなかったが、部屋に入った音之進は広がる夜景に感嘆の声を上げてくれた。ルームサービスを共に楽しみながら、時間を気にせずゆったりと過ごす。
すっかり夜更しをして、普段に比べると寝不足ではあるのに心は満ち足りて。目が合えば自然と笑みが浮かぶ。向かい合ってモーニングを食べるのも幸せの一言で、朝の光に照らされる音之進は一際輝いて見えた。
鶴見の左腕にそっと手を添わせ、甘えるような声音で名を呼ぶのも。楽しかったです、と伝える音之進の表情に偽りは感じられず。一晩を共にしたことで、二人の距離は確かに近づいた。
自分の判断に間違いはなかった…!
鶴見は昨日の自分を心の底から褒めた。もしも誤っていれば、こんな清らかな甘い朝など迎えられなかっただろう。一夜の熱の代わりに恋を失っていたかもしれないのだ。
このままじっくり少しずつ。もどかしいと思うこともないではないが、焦って壊してしまうのは耐えられない。今までの選択も正しかったのだと、自信を持つことにもなった。
そうした鶴見の思いから、五つ星ホテルで過ごすのが週末のデートの流れとなった。それを五回繰り返す頃にはホテルを選ぶ楽しさも出てきて、様々なプランが目に止まるようになる。週の半ば、自宅で寛いでいた鶴見は部屋でアフタヌーンティーを楽しめるプランを見つけ、『次はここにしないか?』『早めにチェックインして、美味しい物でも食べよう』とメッセージを送った。すぐに震えたスマホは返信ではなく着信を告げる。
『篤四郎さあ、ホテルはその…』
「ん? このプランは嫌だったか? なら違うホテルにするか」
『いえ! このプランも素敵なのですが…あの…』
言い淀む気配を感じて鶴見は優しく促す。
『いつもホテル代を出していただくのは申し訳なくて…』
「なんだ、そんな事か! 気にしなくていい、これでも稼ぎは悪くないからね」
気軽に聞こえるよう笑い含みの声で告げるも、向こう側の空気が変わった様子はない。鶴見としては金銭的なことよりも、少しでも長く音之進と過ごせる時間が大事なのだ。それに告げたことに嘘はない。
それでも、更に言い募ることはしなかった。嘘ではないと、話して聞かせることも可能だ。だが言葉を重ねて言いくるめたい訳ではない。音之進にも納得して同じ時間を過ごしてほしいのだ。静かに待っていると、音之進はおずおずと切り出した。
『…あの、今度の週末は…ウチ、とか、いかがですか…?』
「うち…?」
『えっと…ウチに、泊まりに来ません、か?』
うちとは音之進の部屋か…!
驚きと喜びとが胸中に溢れ返り、鶴見の右手が勝利の拳を強く握り締める。勢い込んで即答しそうになるのを、声だけは落ち着いた風を装って「いいのかい?」と優しく問いかけた。
『ホテルみたいに快適では、ないですが』
「お前と一緒に過ごせるだけで嬉しいよ」
『私も、です』
ふふふ、と柔らかくも甘やかな笑い声。その響きが鶴見を幸せにする。同じ気持ちなのが嬉しい。少しずつ、だが確実に互いが近付いていくにつれて強くなる想い。それは何ものにも代え難い。
音之進との遣り取りを思い出すと活力が湧いて、以降、仕事の忙しさなど全く苦にならなかった。もう終わってしまったのかと思うほど、身も心も充実していた。
それは当日になっても変わらず。実際に音之進の部屋に入っても、浮き立つ心は鎮まらない。けれども大人としての落ち着きそうだけは保ちたいと、出会いからの日々を鶴見は思い返していた。
そう、恋人の部屋への初めてのお泊りなのだ。嬉しさに心が弾むのも仕方がない。過去を振り返っても、音之進への想いを、そして同じように音之進からの想いを強く感じて幸せな気持ちが強まるだけだった。
「篤四郎さあ、あと少しでお風呂沸きますから」
鶴見をソファーに残して姿を消していた音之進は、風呂の準備を進めてくれたらしい。それにありがとうと返せば、音之進はゆるゆると首を振った。そして「あの…」と傍らに立つ。
「これを、篤四郎さあに」
渡されたのはオレンジのリボンが掛けられた白い不織布。開けてみれば、艷やかな光沢とさらりとした手触りのダークブラウンのパジャマだった。
「素敵なホテルに何度も泊めていただいたお礼です」
「気にしないでいいと言ったのに…でも、ありがとう。大事にするよ」
「はい」
「今日はこれを着てもいいかい?」
「もちろんです!」
音之進の言葉を後押しするように、お風呂が沸いたという電子音声が響く。二人は笑みを交わし合って、どちらからともなく唇を重ねた。
幸せだった。幸せに幸せが積み重なって、鶴見の顔は自然と綻ぶばかり。甘い幸せに浸る鶴見を呼ぶ声。「篤四郎さあ」という聞き慣れた、でも聞き飽きることのないそれ。振り返った鶴見は胸を射抜かれて、何度目かの恋に落ちた。
鶴見が驚きに目を瞠ったその先で、音之進は湯上がりの頬を染めてはにかんでいる。艷やかな光沢を持つクリーム色のパジャマ姿で。
「…似合い、ますか?」
「もちろんだとも」
「よかった」
ふふふと小さく笑う音之進に、鶴見は惹き寄せられるように近づいた。互いへと腕が伸びるのは同時。
「色違いなんですよ、これ」
「うん、嬉しいよ」
言いながらぎゅうと抱き締めれば、腕の中からまたも溢れる甘い笑い声。鶴見にとっての幸せの形がここにある。
ちょっと待ってください。その一言で音之進は歩を進めて離れてしまう。数秒で戻った恋人は手慣れた様子でスマホを掲げると、鶴見に頬を寄せた。
カシャ、という音と同時に生まれた二人の写真。それを顔の横で見せながら、音之進が窺うように問いかける。
「初めてのお揃いなので、記念写真…いいですよね…?」
なんて可愛らしく、いじらしく、愛おしいのか。一枚と言わず何枚も撮ればいい。それにお揃いアイテムで喜んでくれるのなら、何だって買ってやりたくなる。
鶴見は「当たり前じゃないか!」と物慣れない恋人を抱き締めた。音之進から嬉しそうな声が上がって、それがまた鶴見を幸せな気持ちにした──。