性質の悪いキティ「左馬刻の家で暮らしたいんだけど、いいか?」
一郎から突然の同棲の申し出に左馬刻は動揺してしまった。
まだ付き合ってもないのにいきなり同棲は早くないか?
でも一郎も突っ走って突き抜けてるから段階を飛び越えてきてしまうのだろう。仕方のない奴だ。
デートを重ねていくより初っ端から一緒に暮らして愛を育むのも色々あった自分たちにはちょうどいいかもしれない。
「いいぜ」
左馬刻は一も二もなく是と応えた。
「え? 俺何も説明してないけど……いいのか?」
自分から提案してきたくせによいと言えば一郎はイモをひいたのか戸惑うように訊いてくる。同棲を申し出るのは緊張しただろう。左馬刻だって一郎に好きだと告げるのは緊張し過ぎてまだ言えていない。勇気を振り絞って一郎から言ってきたのだ。どんと構えて了承してやるのが歳上の甲斐性だろう。
「おう。いつからでも来いや」
「そうか。ありがとう。依頼の詳細はこれから話すけど、とりあえず左馬刻の家ってペット大丈夫だったよな?」
ん? 依頼? 依頼って何だ?
二人の同棲を依頼するってサイの民からの依頼でも受けたのか。
■
「左馬刻、前に部屋余ってるって言ってたから頼っちまえって思ってさ」
同棲初日、左馬刻が一郎の元に迎えに来ると、足りない物は左馬刻から借りればいいから身一つで行くと言っていたのに一郎は大荷物だった。
トランクと後部座席があっという間に荷物で埋まる。物が多いのではなく一つが大きい。
最後に一郎が持ってきたのはペットキャリー。
透明になっているパネル部分を左馬刻に向ける。
中には小さな小さな仔猫が、一、二、三……何匹居るんだ?
「おーいお前たち、今日から世話になるパパだぞ〜」
え? 同棲だと思っていたが結婚だった? 今日からパパという事は家族になるという事でそれはもう結婚だろう。今から始まるのは同棲生活ではなく新婚生活だった。二人きりの蜜月を楽しみたいが授かり婚も多いし、子供のいる新婚生活もいいな。
おわかりの通り左馬刻はまだ正気を取り戻していなかった。一郎から一緒に暮らさないかと言われた動揺から戻ってきていない。若頭を務める度量と一郎の前では頼れる大人でいたいという見栄で平静を装っている。
理解出来ていない左馬刻を置いて説明してしまえば、一郎が受けた依頼は授乳期の仔猫、八匹の世話だった。
猫の保護活動をしているある資産家の人物からの依頼だった。
授乳期の仔猫の世話は大変だ。生後間もない頃は数時間置きにミルクの必要もあるし、体調も崩しやすい。
猫には発情期があるから産まれる時期は被る。年によって何匹も保護する事になる。産まれたばかりの仔猫を保護したらいつもならミルクボランティアという授乳期の短期間だけ世話をしてくれる人を募集して手分けして世話をしてもらったりするのだが、今回はいつも預かってくれる人の都合がつかず、新しい伝手もできず、その上多頭飼いから飼育崩壊した猫の保護と重なって手が回らずに萬屋に依頼してきたのだった。
ミルクボランティアではなく、依頼であり仔猫の里親探しなどのやりとりも忙しい依頼主の代理でする事が依頼に含まれていた。
小さな仔猫といっても八匹ともなるとそれなりのスペースが必要だった。依頼主は場所も借りようかと提案してくれたのだが、そこまでされると経費に依頼料と相当な金額になってしまう。依頼主は猫の保護活動とは別に事業をやっている資産家ではあるが猫が好きで猫の為ならばそれなりの出費は厭わないといっていても、依頼主の借りた部屋では他の依頼も出来ないので山田家のリビングを一時的に模様替えしようかと考えたのだが、そこで左馬刻が部屋が余っていると話していた事を思い出したのだ。
こちらのこういった依頼を受けた事情を話す前から左馬刻は部屋を貸してくれると快諾してくれてその気前の良さに戸惑ったが、詳細を話しても左馬刻の意見は変わらなかったので、一郎はこれから約一ヶ月、左馬刻の家の一室を間借りして依頼をこなすことになった。
同棲の申し出もしていないし、新婚生活も始まらない。
■
「左馬刻さーん、どうしたらいい?」
半ば泣きそうな声が部屋の中から聞こえてきた。
左馬刻は慌てて一郎のいる部屋へ向かった。
『じゃあこの部屋借りるな』
と言った一郎は左馬刻宅の空いている一室に仔猫の飼育環境を整えた。
思い描いた同棲、新婚生活は始まらず、一郎は仔猫のミルクの時間のリズムで生活を始めた。同じ家で生活していても一緒に居られる時間は極僅かだった。そもそも一郎は貸した部屋からほとんど出てこないのだ。
本当に間貸ししてるだけの日々で一郎から呼ばれた左馬刻は勢いよく部屋の扉を開けた。
「どうした!?」
心細そうな呼び声、その上『さん』付けで名前を呼ぶなんて何事なんだと左馬刻の顔色が変わる。
「こいつだけミルク飲まねえ……」
部屋に入ると一匹の仔猫を抱えた一郎がシリンジ片手に眉尻を下げて困り果てていた。
「あ?」
余程の事かと思ったが、一郎の手の中の仔猫は元気そうに前足を動かしている。しかしミルクの入ったシリンジを咥えはするが何故かすぐに口を離してしまう。
左馬刻もこんな産まれたばかりの仔猫の面倒をみた事はない。
「心当たりは?」
一郎も授乳期の仔猫の世話は初めてであるが、依頼主から世話の仕方は一通り習った。わからない事があればいつでも連絡してくれと言われているが、今は夜中の二時。左馬刻は帰宅したのが零時過ぎでそろそろ寝ようかと思っていたところだった。
「わかんね。腹も下してないし……」
一郎は仔猫のお腹をつついた。お腹も張っていない。
こんな時間だから連絡するのは躊躇われるが、わからないのならばしょうがない。一郎は仔猫の体を左馬刻に預かってもらうと自分のスマホを取りに立ち上がる。
「おい、一郎」
「ん? どうかしたか……って飲んでる!?」
「おう」
一郎の手からは飲まなかったのに、何故か左馬刻の手からはごくごくとミルクを飲んでいる。
「とりあえず、飲んだな。……一郎、依頼主に訊くのは明日にしてお前、今日は俺のベッドで寝ろ」
「いや、二時間したら次のミルクあるからここで寝るよ」
一郎は疲れを隠しきれていない顔で言う。
一人で数時間おきにミルクを与えているのだから細切れの睡眠になる。それに一郎は何かあったらと考えて布団もベッドもないこの部屋で体を横にする事すら少ない。
左馬刻は溜息を吐いた。
「お前、自覚ないだけで疲れ溜まってんぞ」
あんな風に泣きそうな声で左馬刻を呼ぶなんてその証拠だ。
「でもよぉ……」
一郎は仔猫たちを見る。
左馬刻は仔猫の寝床を確認して適温が保たれている事を確かめると一郎の腕をとった。
「ぐだぐだ言うな。家主命令だ、ダボ。さっさと行くぞ」
そうして左馬刻の寝室に連れて行かれた一郎は左馬刻のベッドで左馬刻に抱きしめられて眠った。
■
半泣きで左馬刻を呼んでいた事が今では嘘のようだった。
一郎は左馬刻から見るとまるで聖母のように仔猫を抱いている。後光が見える。
仕事で命を預かる事、それに生まれたばかりの命の面倒をみる事は想像以上にプレッシャーだった。
けれどプレッシャーに押し潰される一郎ではない。
一郎は仔猫にも個性がある事を学び、試行錯誤して世話をするスキルをぐんぐん上げていった。
仔猫たちはしっかり目も開いて歯も生えてきた。ミルクの卒業時期も近い。引き取り先も順調に決まっている。
この一ヶ月近い期間の間、一郎はほとんどこの仔猫たちのいる部屋で過ごしていた。余裕が出来てからは他の依頼も三郎カスタマイズのラップトップとルーターを持ち込んでここで出来る事は仔猫を傍らに済ませていた。
一郎がここにいるので左馬刻も在宅時はリビングよりもこの部屋で過ごすようになっていた。一郎は部屋に入って来るなとは言わない。逆に左馬刻が部屋にやってくるのを喜んだ。
「なぁ、左馬刻、また一緒に運動しねぇ?」
今日の仕事はもうないのか、一郎が左馬刻の服の端を引っ張る。
身長は変わらないのに上目遣いで訊いてきても、その頬が少し紅潮していても『運動』に他意はない。部屋に籠もりっぱなしで鈍った体を動かしたいだけだ。一緒のベッドで抱きしめあって眠った晩があったが二人の関係に進展は何もなかった。
一郎は無邪気に提案する。
「今日は腕立て伏せで勝負しようぜ!」
二人横に並んでカウントとともに腕立て伏せを始める。
筋肉をつける目的の腕立て伏せではなく、ただ体を動かす事が目的である。負けず嫌いの二人の目標はとりあえず百回だ。
七十回を過ぎたあたりで一郎が顔を上げて時計を見た。
「あ、そろそろミルクの準備しないと!」
一郎は腕立て伏せを中断して部屋を出てキッチンに向かう。
左馬刻は途中で止める気はなく百回まで続けるつもりだ。
一郎が部屋を出て行った気配に仔猫たちが騒ぎ出す。
みぃみぃ鳴いているのは、一郎が部屋を出て帰ってくると大抵ミルクの時間になるので『ご飯だー』とでも言っているのだろう。
それに構わず左馬刻が腕立て伏せを続けていると、かちゃりと不穏な音がした。
仔猫たちはゲージの中にいるのだが、仔猫たちの中の一匹が器用にもゲージの扉を開ける事を覚えてしまったのだ。
みぃみぃと鳴きながら仔猫たちが部屋の中に出てくる。今、左馬刻は九十五回目を数えていてせっかくなのでやりきりたい。
左馬刻が後五回をこなそうとしていると仔猫の一匹が左馬刻の体の下に潜りこんできた。それから膝のあたりがちくりと痛んだ。別の仔猫が爪を立てて左馬刻によじ登ってきている。左馬刻の上に乗っかった仔猫はそのまま左馬刻の背中の上まで歩いて行く。
腹の下に仔猫。背中の上にも仔猫。
背中の上の仔猫は落としてしまいそうだし、腹の下の仔猫は潰してしまいそうだ。
左馬刻は動けなくなってしまった。
「おい、一郎!」
左馬刻は動けずに一郎を呼ぶ。
「ん〜? どうした左馬刻……って何してんだよ」
部屋に戻ってきた一郎は左馬刻の様を見て笑ってしまった。
そうしているとまた一匹、左馬刻の上に仔猫がよじ登り始める。
「笑ってねぇで助けろや!」
左馬刻の言葉を無視して一郎はスマホを取り出して写真を撮る。
「おい、コラ! 動けねぇんだよ。早く猫たちどけろ」
腕を曲げた苦しい状態で止まっておらざるを得ないのだ。
動けない左馬刻に一郎は悪戯心が湧いてくる。
左馬刻の横に寝転んで、その顔を覗きこむ。
こめかみに汗が伝っていた。苦しげな表情に漂う色香。辛くても猫を跳ね除けない優しさ。それを見ていると昂る気持ちがある。
一郎は首を伸ばして左馬刻の頬にキスをした。
「は?」
左馬刻は目を見開いて一郎の顔を見る。
こちらを愛おしそうに見る一郎と目があった。
「一郎上等くれやがったな……。ヤクザ煽ってただで済むと思うなよ。腰抜かすベロチューかましてやったからさっさと猫どけろや!」
一郎はまたおかしそうに笑った。
ゲージの扉を開けるより性質の悪いキティが左馬刻を見て笑っている。