手の上なら尊敬のキス最近、殤不患はとある遊びを覚えた。相棒である浪巫謠の前で居眠りしたふりをするという遊びだ。
狸寝入りなぞ浪の鋭敏な聴覚でもって、呼吸や心音から容易く看破されるかと思いきや意外とばれないものなのだ。どこかで腰を落ち着けてうつらうつらするふりをして、そのまま眠ったふりをする。そうすると、浪が野生の小動物よろしくそろりと近寄ってくる。そこから為される行動が、面白くて仕方がないのだ。
初めて寝たふりをした時は、おっかなびっくり袖をつままれたり、拙劍の鞘をつつかれたりした。それで起きないと分かると、少しずつ触れ方が大胆になってくるのだからまた面白い。この前なんて、殤の髪を一房手に取って鼻の下にあてて髭を作って遊んでいた。耐えた。色々と。
今日も今日とて、大樹に寄りかかって目を閉じる。しばらくすると、少し離れたところで聆牙の弦を爪弾いていた橙色の毛並みをした猫が、そろりそろりと近づく気配。本日も無事釣れたことに、殤は内心ほくそ笑む。
浪の指が、ちょんちょんと殤の小指をつつく。一切反応せず同じ調子の呼吸を繰り返せば、それだけで浪は殤が寝入っていると信じてしまう。
浪さんや、もう少し疑うということを覚えませんかね?
内心苦笑する。そういう純粋さが好ましい面でもあるのだが。
ふと、浪の呼吸が変わる気配がした。大きく息を吸い込み、腹に溜めるようにして止める。
ひょっとしてばれたか。そう思っていると、浪が殤の手をおし戴くようにして持ち上げる。いつもと違う行動に、殤はただ呼吸を乱さないことに集中する。
手甲越し、何かが触れた。
思わず薄目を開ける。すぐ閉じる。呼吸も心音も体温も気配も乱さずにいる自分を自分で褒めたくなった。
浪が、殤の手の上に口づけていた。未踏の泉めいた瞳に、きらきらとした敬慕をたっぷりと込めて。近寄りがたく崇高で、それでも近づきたくてたまらない。大切で仕方がない宝物に触れるようにして。
口づけは一瞬。すぐに浪は殤の手を解放し、足音を乱しながら遠ざかる。永遠に残る輝石のような心地を、殤に残して。
足音と気配で浪がこの場からいなくなったと悟るやいなや、殤は腹の底から唸り声を上げた。
「本っ当によお……あいつはよお……!」
むず痒い、肚の据わりが悪い、頭抱えてごろごろ転げ回りたい。
口づけられた手の甲を、もう片方の手で覆う。そしてそのまま顔を覆い、ふざけんなと悪態をつく。狸寝入りしてなければ、もっとしっかり見られたのに。狸寝入りしないと見られないことをやるなんて、本当にふざけている。
決意する。いつか必ず、これをネタにして浪をからかってやる。泣いたって知るものか。絶対に逃がしてやらない。そして言ってやるのだ。
「起きてる時にやれ」と。
終