16.A(side:H) ヒューベルトが生前に残した手紙の件でクロードをはじめ調べ物が苦ではない者たちは書庫に籠ったりレアに話を聞きに行ったりと忙しそうだ。マリアンヌもローレンツも夜更けまでずっと何かを読んでいる。物資の調達を担当するヒルダはその集団に加わっていないがこの先の未来のために絶対に必要な調べ物なのだ、とマリアンヌもローレンツも言っていた。闇に蠢く者たちはガルグ=マクには光の杭を落とせないがそれもレアが存命であればという条件付きらしい。クロードたちはフォドラ統一後のことだけでなく既に五年間帝国軍に捕らえられ弱ったレアの死後についても考え始めていた。
アンヴァルでのクロードの告白にヒルダは驚かされた。やるかやらないかそのどちらかしかない、と学びながら育ったクロードは自分自身を肯定するためにフォドラ全土を引っ掻き回したことになる。ファーガス神聖王国とアドラステア帝国が滅亡しレスター諸侯同盟の在り方も変化していく。その前にヒルダに伝えておきたかったようだ。疎まれるのが恐ろしくて出自について中々皆に言えなかった、というクロードの発想や心の中に根付く恐怖はマリアンヌとも重なる。クロードはヒルダの前でだけ気を失いヒルダの前でだけ震えていた。震えていたことに気づいたのは最後、抱きしめてやった時だったが。
「やだ、エーデルガルトちゃんより私の方が怖いってこと?」
そう言ってふざけてみたものの五年間持ち越された理由はヒルダにも納得できるものだった。だから統一国家の王にもならない、ではなく王にはなれないのだとクロードは言う。確かに大司教レアの代理を務めるフォドラ人のベレトこそが王には相応しい。
「そうだな、怖いよ。嫌いなやつに嫌われるのなんかどうでもいいがヒルダは違う」
「我らが盟主様がそんな顔しないでよ」
「道半ばではあるんだがようやくここまで来たんだ。今更自分のことを嫌いになりたくない」
あの時ヒルダが爪先立ちになったのはクロードが泣きそうな顔をしていたからだ。あんな顔を見せられて拒めるはずがない。いつも好奇心で輝いている緑の瞳があの時ばかりは潤んでいた。クロードは両親のことを誇らしく思っているがそれでも社会情勢の影響は受ける。自己否定や自己嫌悪に苛まれ苦しんだ結果クロードには掲げざるをえなかった理想があってそれを他者から壊されないように心にしまいこんで大切にしてきた。
「頼りない盟主様の隣にはやっぱり私がいないとね!」
ヒルダもそれを大切にしてやりたいと思う。クロードが好きだからだ。きっと口さがない者たちが嘲笑するだろうがクロードの理想を空虚だと嘯き現実に屈服する者たちよりも夢を見る力がある者の方が素晴らしいのだ。
近々、光の杭が打てるような恐ろしい敵の元へ行くと言うのにあの時の少し幼げなクロードの表情を思い出すとヒルダは自然と微笑んでしまう。ヒルダの機嫌が良いと動物たちにもそれが伝わるようだ。ペガサスの羽根をそっと整え指で一つずつ塵を取り除いてやると嬉しそうに鼻をヒルダの頬に押し付けてきた。馬と同じく鼻先が温かく柔らかくて気持ちがいい。
「あ、珍しくヒルダが仕事してる」
ペガサスの厩舎を掃除しにやってきたツィリルがペガサスの手入れをしているヒルダを見て思わず呟いた。かつてヒルダはツィリルからパルミラではこんな怠け者を見たことがない、と言われている。ゴネリル領の実家にいた頃は更にひどくツィリルが使用人であったことすらヒルダは知らなかった。
「マリアンヌちゃんに頼まれたのよ。手入れする人の機嫌が大事だから変わってほしいって」
ヒルダが上機嫌な一方でマリアンヌはやはり塞いでいる。ヒルダには教えたくないと言う秘密を近々ローレンツに教えるつもりだからだ。
「そうなんだ、マリアンヌって無口だけど真面目でどんな動物もあの人に面倒みられるのが好きなのにどうしたんだろ?」
「おうちのことでいろいろあるみたい」
「そうなんだ、一緒に食事でもしてあげなよ」
勿論そのつもりだ、とヒルダは答えた。ツィリルに信頼されているマリアンヌがヒルダは誇らしい。気になるのはマリアンヌの告白に対してローレンツがどう反応するのか、だった。ヒルダにすら言えないようなことならばきっと彼女の秘密はグロスタール家にも悪い影響を及ぼす。ローレンツは将来の奥方のためマリアンヌとの付き合いを季節の挨拶程度にするのか?これからもせめて生涯に渡って良き友であってほしい、と言うのだろうか?ヒルダが聞いて一番小気味良いであろう答えはそんなことは全く気にしない、だ。しかしエドマンド辺境伯ですら解決出来ず金を積んで隠蔽しているような問題をローレンツ個人の心意気でなんとか出来るとは思えない。
備品の場所も知らないのか、と学生時代はツィリルから叱られていたヒルダだが使っていた桶を元に戻し厩舎を去った。食事に行く前に部屋で身体を拭いて藁だらけになった服を着替えたいからだ。クロードとローレンツのようにヒルダとマリアンヌは学生時代と同じ部屋を使っている。隣同士で何かと面倒が見やすくて便利だ。
「そろそろ食事に行かない?」
身支度を終えたヒルダが部屋の扉を叩くと中で椅子を引いて立ち上がる音がした。廊下に出てきたマリアンヌは手に本を持っている。ローレンツに貸す約束をしているのだと言う。食堂に行く前に渡してしまおうとマリアンヌが扉を叩いて声をかけるとローレンツが出てきて大喜びで本を受け取った。かつては修道院の書庫にもあったがどうやら二十年前の大火で焼けてしまった本らしい。
食堂に着くとヒルダはマリアンヌとローレンツが向かい合わせになるように座らせて自分はマリアンヌの隣に座った。いつもなら何も話さずただ幸せそうに相手をちらちら見ながら食事をする二人だが今日は話題がある。きっとマリアンヌの隣で食事をとりながらローレンツを観察しても不自然にはならない。ヒルダは観察していることを悟られないように全く興味はなかったが先ほどの本について二人に質問した。
ヒューベルトの残した資料によると闇に蠢く者たちの本拠地はゴネリル領の近くにある。彼らがシャンバラと呼んでいるそこへ向かう前に近くの砦で休息を取っていた。ここで一晩過ごし朝になれば戦場に向かう。
「ヒルダさんやゴネリル家には手間をとらせてしまったが首飾りに配置される兵のふりをして近づくことが出来て助かったな」
ローレンツの言葉を聞いたマリアンヌが頷いた。首飾りに向かう兵を攻撃すれば自身の存在が宿願を果たす前に明るみに出てしまう。神話のような時代から復讐の機会を望んでセイロス教関係者から隠れてきた彼らには耐えがたいはずだ。
「討ち漏らしたらゴネリル家の負担が増えちゃう!」
「そうそう、だからヒルダは引き続き本気出してくれよな」
クロードがそう言ってヒルダを揶揄うと周りの皆が釣られて笑った。この戦いが終わればクロードはおそらくフォドラを去る。迎えに来るのを待つのか自分から行くのかヒルダは決めねばならない。そしてクロードはヒルダの父ゴネリル公と兄ホルストを納得させなければならない。
その晩、いつも使っている部屋で行軍に影響が出ない程度とは言えクロードのお粗末なサイレスがそれなりに役に立つようなことをしたヒルダはクロードが襯衣の下に首飾りをしていると初めて知った。喉元に視線が注がれていると気づいたクロードが首の後ろに手を回す。
「死んだ叔父さんの形見でな。五年前は付けないで上着の隠しに入れて持ち歩いてたんだが失くしちまってな。マリアンヌに見つけて貰って以来失くさないように服の下に着けてたんだ」
白い掌にそっと乗せられた首飾りは三日月と鹿の顔をかたどっており緑の瞳の者が多いリーガン家に相応しく鹿の顔が丸ごと翠玉で出来ていた。金細工で出来た顔の輪郭や角や顔を囲む三日月もよく出来ている。おそらくリーガン家の嫡子が代々受け継いできた逸品だ。
「はぁ……私の知らないことばっかり」
「お、もう声が出せるのか。俺やっぱり魔法の才能ないなあ」
クロードから差し出された杯の水は先ほど身体を拭いた時と同様に生ぬるいが喉は潤すことが出来る。
「こんないい物持ってるなら見えるようにつければいいのに」
「う、故郷の風習がらみでそれはちょっとな……独り身の男はつけないんだよ」
フォドラ暮らしも長いと言うのにクロードにはまだ受け入れ難い習慣があるらしい。
「クロードくん、秘密があるってどんな気分なの?」
「誰にだって隠しごとのひとつやふたつあるだろ?ヒルダだって今晩のことは家族に隠すだろうし」
ヒルダはこの砦に元から置いておいた寝巻きを既に身に付けているが傍で伸びをするクロードはまだ暑いのか下穿きしか身に付けていない。褐色の身体には随分と傷跡が増えた。
「……私に話してクロードくんは楽にはなったの?」
「うーん……俺は元々俺の半分を恥じてた訳じゃあないからなあ……。あ、マリアンヌか!」
片方の血を恥じろと言われるのが嫌でフォドラ中を引っかきまわしたクロードは近々、自分の国を引っかきまわしに戻るのだろう。新生軍の幹部たちは皆クロードの出身地について知っているが現時点でクロードの出自について知っているのはおそらくヒルダだけだ。そしてどうやらクロードはクロードでマリアンヌのことを案じていたらしい。確かに秘密を隠しながら学生生活を送った仲間でもある。
「自分から遠ざかってもらうために近々ローレンツくんに秘密を打ち明けるって……」
ヒルダは背中から抱きついてクロードに首飾りをつけてやりながらマリアンヌについて話した。クロードは背後から聞こえるヒルダの浮かぬ声でマリアンヌの秘密がどんな物であるか彼なりに察したらしい。
「それ、絶対に上手くいかないと思うぞ」
ローレンツがクロードに直接、気に食わないだの正体を暴くだのと宣言しながらしつこくまとわりついていた姿は強烈でヒルダも覚えている。そして今思えば彼はある意味真実に到達していた。
「う、確かにローレンツくんって割り切り方が独特だわ」
「俺はあいつの普通じゃあないところに期待するね」
猜疑心の塊、を自称していた割にクロードはローレンツを信頼しているらしい。前衛と後衛で組まされることが多い分クロードはヒルダの知らないローレンツの顔を知っているのだろう。クロードの友人を信頼する姿勢が美しい、とヒルダは思った。
「私もクロードくんが誰にも見られないで自分の部屋に戻れるって期待してるからね」
ちなみにクロードに割り当てられた部屋は当然ローレンツの隣で体調不良を押してこの戦いに加わろうとしている大司教レアの寝室と同じ階だ。
シャンバラと呼ばれる敵の本拠地はとにかく広大な地下空間で今まで誰もその存在に気づいていなかったと言う事実が地元の人間であるヒルダにとっては何よりも恐ろしい。それに加えてイグナーツもこの空間で使われている装飾はこれまで見たことがないものだ、と言っていた。リシテアの言う通り遥か昔の遺跡のようであるのに誰かが使っているせいか生活感があり気味が悪い。
いくつかの部屋に分かれている内部は絡繰仕掛けの魔獣のような何か、としか言いようのないものが密集している。幸い魔法が良く効くのでリシテアとローレンツが扉の向こうから黒魔法を放って攻撃していた。
「どんな罠がはられているか分からないから慎重に行こう」
シャンバラに突入する寸前ベレトから言われた言葉にヒルダもクロードも耳を疑った。アンヴァルではベレトの立案した作戦が短期決戦型だったせいで二人揃って本当に酷い目に遭っている。
慎重に中を確かめながら進み最後に残った真ん中の部屋に首魁と呼ぶべき者がいた。ヒルダが直接調べたわけではないがベレトがアンヴァルからガルグ=マクへ持ち帰らせた膨大な資料によると彼らがダスカーの乱と七貴族の変を起こしクロードの叔父一家を殺害しルミール村で惨劇を起こした。彼らのせいで人生が狂った者は数多く存在する。死者への手向けになると信じてヒルダもローレンツも必死になって斧と槍を振るいベレトとクロードの露払いをした。クロードがタレス相手に減らず口を叩く姿を見たかったしベレトのふるう天帝の剣がタレスに届くと知っていたからだ。