夕食後、江澄は客坊に留め置かれた。
藍曦臣がわざわざ足を運んでくれるという。
今までであれば寒室に招かれたはずだ。
江澄は己の腕をさすった。
机上に置かれた茶をすする。
寒々しく思うのは気のせいか。落ち着かない。
「お待たせして申し訳ない」
もう亥の刻になろうかという頃になって、ようやく藍曦臣は顔を見せた。
江澄は腕を組み、むっつりと黙り込む。
これは遠ざけられようとしているのか。
「ご用をおうかがいしましょう」
いつか聞いた言葉だ。
江澄はこめかみのあたりを殴られたような気分だった。
藍曦臣は穏やかな笑顔を顔面に張り付けて、あのときは感じられた切迫感もない。
たとえ自分が悪かったのだとしても、こんなふうに、他人のように、扱われるいわれはない。
もう他人とは言えない距離のはずだった。
恋というのでは、と言ったのは藍曦臣のほうだったくせに。
「江宗主?」
「すまない、お疲れのところ」
そちらがそのつもりなら、と江澄は立ち上がって拱手した。
「ただ一言、礼を申し上げたくて」
「礼……とおっしゃるのは白梅の」
「ああ、彼女を助けていただいて、大変ありがたく、御礼を申し上げる」
藍曦臣は思いのほかわかりやすい男だった。彼ははっきりと傷ついた顔をして、かすれた声でつづけた。
「彼女の、呪痕を解いたのは魏無羨です。私は何も……」
「こちらに彼女を受け入れていただかなければ、魏無羨の助けも借りられなかった。藍宗主のおかげです」
「江宗主」
「なんだ、言いたいことがあるならはっきり言え」
しばし、にらみ合う。
すると、藍曦臣が突然手を突き出して、江澄の両肩をつかんだ。
「江澄、私は」
「なんだ」
「無理です、諦められない」
「は?」
気が付くと、思い切りの力で抱きしめられていた。
みしり、と体が悲鳴を上げる。
「あなたが選んだことであれば、致し方ないと思っていました。だから、あなたにはできるだけ会いたくなかった。無理だとわかっていたのです」
「俺が、何を選んだと」
「彼女を大切に思っているのでしょう」
まさか、本当に。
江澄は瞠目し、言葉をなくした。
そんなことで藍宗主が自分を避けていたとは。
しがみつくように抱きしめてくる腕と、ぴたりとくっついた胸に、体の奥が引き絞られるように痛む。
「俺が大切なのは」
江澄は両腕を藍曦臣の背中に回した。
「あなただ」
伝わっていなかったのだろうか。
そうなのかもしれない。
江澄としてはせいいっぱいの気持ちを伝えてきたつもりだった。
たしかにすべてを渡してはいなかったが、拒否はしなかった。
藍曦臣の力が弱まり、顔をのぞかれた。
久しぶりだ、と感じた。
もっと近くに行きたいと思った。抱きしめあって、これ以上近づくことなどかなわないのに、それでも足りない。
唇を合わせる。すぐに深くなる。
江澄は口を開けて舌を差し出す。からまる舌に誘い出されて、藍曦臣の口の中に入る。
覚えている限りのことを真似して、上顎をなめて、歯列をなぞっていると、やんわりと歯でかまれた。
ずいと押し入る舌に負ける。
今度は江澄がしがみつく番だった。
藍曦臣の舌に翻弄されながら、どうにか送られる唾液を飲み込む。ぞくぞくと腰が疼き、膝から力が抜けていく。
「あなたが、ほしい」
耳に吹き込まれるようにささやかれ、江澄は必死に藍曦臣の背にすがった。
「ここでは……」
隣の棟には白梅がいる。江澄の客坊に藍曦臣が泊まったとなれば、彼女の耳にも入るだろう。そんな気まずいことは嫌だった。
「寒室に、参りましょう」
藍曦臣に手を引かれ、客坊を出る。
すでに亥の刻に入ったか、人影はない。
空を仰ぐと、満天に星が瞬いている。
月はまだ山の向こう。
つないだ手の先、白い背中がかすむほどの闇だ。
ふと、この闇の中でなら、さらけ出せる気がした。
寒室の門をくぐり、屋内に入ったところで江澄は立ち止まった。
「江澄?」
「藍渙、聞いてほしい話がある」
闇の中で、藍曦臣が息を飲む。
「以前に言っていた、私に言えないこと、ですか」
江澄はつないだ手を持ち上げて、己の胸に当てた。
ここに、傷がある。
口を開けても、その一言が出てこない。
傷があって、それをあなたに見せるのがおそろしい。嫌ってくれないよな。大丈夫だよな。
「江澄」
頬に口付けを受けた。
間近に黒い瞳がある。
その瞬間に江澄は己の過ちに気がついた。
信じられなかったのは藍曦臣ではない。自分だ。
とっくに気持ちは明け渡していると思っていたが、そうではなかった。
だから、彼は疑い、諦めようとさえしたのだ。
「あなたに諦められなくてよかった」
「それは……」
「ぜんぶ、見てほしい」
傷があろうと、それはすでに江澄の一部だ。
白梅が残った呪痕を自分のものとして引き受けたように、温氏に捕まったあのときの行いは後悔するものではない。
藍曦臣が、心を預けるに足ると信じた人が、その傷を受け入れてくれないはずがない。
力強く腰をひかれた。
抱きしめられた腕の中で、耳に口付けられる。
「見せてください」
低い声に全身が震えた。