【イチ桐】ただひとり「ふうー。さっぱりしたぜ」
玄関のドアを開け、フェイスタオルで髪をわしわしと拭きながら。春日は文字通り爽快といった声を上げながら素っ裸で部屋に戻って来た。
シャワーを浴びた後でも汗ばみそうな屋外と違い、部屋の中は冷房が効いていて気持ちが良い。直接体に風が吹き付けているわけではなかったが、春日は冷たい空気を全身で浴びるように腕を広げた。
風呂が外にあるというのは何かと不便があるものだったが、夏場は玄関ドアを開けてひんやりとした空間に入る瞬間が最高だった。そう、それはまるで温泉から上がった直後にビールをガッと喉に流し込むような爽快感――などと想像してくうー! と声を上げると、春日はパッと目を開いてペタペタとサンダルを鳴らし、部屋の奥に干してあるトランクスを一枚取り上げてそそくさと足を通した。
「へへっ。今日は飲んじゃおっかなー」
タオルを首から提げ、まだしっとりと濡れた髪のまま続けざまに冷蔵庫へ向かえば、パタンと扉を開けた先に並ぶビールの缶のうち一つを手にして。キンキンに冷えた缶から伝わる温度にますます春日は表情を輝かせていくと、ふんふんと鼻歌混じりにビールの缶を引っ提げてソファへと足を運んだ。
「はっ。桐生さんも一本どうす……って、もう飲んでるし!」
自分の分だけ持ったは良いがすっかり相手の分を忘れていた。途中ではたりと足を止めて声を掛けた春日だったが、視線の先では既に缶に口をつけている桐生がボクサーパンツ一枚で寛いでおり。ん? と缶越しにちらりと目を向けられたのに春日は足を速めると、数秒もしないうちにドカリと桐生の隣に腰掛けた。
「先に始めちまってて悪いな」
「いえいえ! 一緒に飲もうって約束してたわけでもねぇですし。今日は特段暑いんで、ビール飲みたくなる気分もわかります!」
それ、まだ中身あります? と桐生が手にしているビール缶を見て首を傾げると、ああとすぐに返事がやってくるのに春日はニカッと白い歯を見せ缶のプルタブを引き上げる。パカッとフタが開くと同時にプシュッと吹き出す白い泡。この何とも言えない音が堪らないと春日は笑みを深めると。
「んじゃ、改めまして。乾杯」
と桐生に向かって缶を差し出し、それにコンと中身の減った缶を当てられたのに目を細め、冷えたビールをぐびぐびと喉へ流し込んでいった。
「っくうー! やっぱ夏の風呂上がりのビールは最高だな!」
喉を通り抜ける炭酸の感覚と口の中に残る苦み。そしてほんのりと胸元に広がるアルコールの熱に思わず声を上げると、隣の桐生からフッといつもの笑みが零れ。
「賑やかな奴だな」
と笑われながら再び缶に口を付けたのを横目で見ると、春日は見えた表情に一瞬目を見開いて。次いですぐに目を伏せると、口元に持っていきかけた缶を静かにコトンとテーブルへ置いた。
「桐生さん。ちょっと、ビール置いてもらっていいすか」
「ん? どうした」
「いいから」
突然の春日の言葉に桐生はぴくりと眉を寄せたが、断る理由もないと言いたげに缶をテーブルに置く。
「春日、一体なん……っん……」
そしてこちらへと顔を向け何か言いかけたのを春日は自らの唇で遮ると、両肩を掴んでソファへと押し倒していった。
「んっ……ん……」
濡れた唇を食むように角度を変えて口付ける。何度かそれを繰り返した後に春日はゆっくりと顔を離していくと、戸惑いの眼差しを受け止めながら小さく口を開いた。
「昔のこと、考えてたでしょ」
その一言に、桐生の眉が微かに反応を示す。だが、返ってきたのは肯定でも否定でもなく真っ直ぐな視線だけだった。
「それも、ただ昔のことを考えてたわけじゃない。死んだ人達のことを考えてた。違いますか?」
「…………」
桐生の視線が逸らされることはなく。茶色い瞳に自分の姿が映り込むほどだったが、その瞳がほんの一瞬揺れたように見えて。春日は困ったように眉尻を下げ、小さな溜息を一つ零した。
「わかっちまうんですよ……俺にはね」
時折ふと、死んでいった人達の顔が過ることがある。それは自ら思い出そうとして意図的に浮かべた時もあれば、ある時突然やって来ることもある。どちらかといえば、春日は後者の方が多いと感じていた。
今は遠くへ行ってしまった人達が生きていた時の光景。忘れたくはないのに、段々と思い出すことが出来なくなっている声にも胸が苦しくなる。
堪らなく悲しくて、寂しくて。そんな時はどんなに楽しいことだって、心にぽっかり開いた穴から通り過ぎていってしまう。
それでも、前を向いていかなければならないから。笑って日々を過ごしていきたいから。取り繕うように笑顔を見せるものの、きっとその日は上手く笑えていないのだろうと春日はわかっていた。
桐生は、そんな自分と同じ顔をしていた。
「お前といるってのに……すまない……」
やっと返ってきた言葉は小さな謝罪だった。それが余計に春日の胸を締め付け、違うんだと首を横に振る。
「昔のことを考えて欲しくないわけじゃねぇんです。今はもう会えない人達のことを思い出すってのは、どうしたってあるもんですから」
何処ともないところに視線を投げて、酒を飲むか煙草を吸うかで気を紛らわしたくなる。いや、気を紛らわすというより、そうしていないと引っ張られそうになるのだ。
どうして自分だけ生きてしまったのだと――
「好きなだけ思い出してください。何なら泣いたっていい。だけどよ、桐生さん。これだけは忘れないでくれ」
ソファと龍の刺青の間に両手を差し込み、きつくその体を抱き締める。
「死んでいった人達の想いを背負って今も生きるアンタを、俺は絶対に一人にしない」
初めてその顔を見た時から、春日の心の中に根付いている誓いにも似た思い。
強くて、優しくて、不器用で。何でも自分一人で背負い込んでしまうようなこの人は、この上なく孤独なのだと感じたから。
「傍にいる。生きて、アンタと一緒にいる。一人に……しないから」
その寂しさも、悲しみも。少しでもいい、一緒に抱えていきたい。分けて欲しいなどとおこがましいことは言えないが、もしも桐生が心の奥底から掬い出した時には、大切に手を添えていきたい。
そんな想いを伝えるように、肩口に顔を埋めてぎゅっと大きな背を抱き締める。胸元からは、桐生が生きている証の鼓動がドクンドクンと伝わっていた。
「……ありがとうな、春日」
耳元で聞こえる優しい声音。先程見た表情よりも寂しさの薄れたようなそれに春日ははい、と小さく答えると、そろそろと自分の背にも温かい腕が回って、きゅっと体を抱かれたのに目を閉じた。
「俺も、お前を一人にはしない」
だが、続いた桐生の言葉にはハッと目を見開くことになってしまい――
途端に胸が熱くなり、喉は焼けるようで。込み上げるものを堪えきれずに溢れさせると、春日はへへと笑って桐生の頭に髪を擦り寄せた。
「桐生さん、ずるいなぁ……」
部屋のあちこちに転がった酒の缶。山積みになった煙草の吸い殻。何日も閉めきったままの窓。真っ暗な部屋で生きる屍のようにソファに体を横たえた自分。
そんな姿は、誰一人として知らない。
それなのに――
「お前の傍にいる」
こんなにも人に恵まれ、今では大切な仲間達だっている。孤独ではなかったはずだ。
だが、どうしても抗いきれない夜があった。陽の光から目を背け、涙が涸れる日もあった。そんな日は、自分だけが取り残されたと虚しさに心を蝕まれるようだった。
だが、そんな姿を隠し続けていた。今この時まで、ずっと。
「一番」
この人がもう寂しい顔をしなくて済むように。
そう思って伝えた言葉が自分に返ってくるとは思わず、春日は涙を零しながらはあ……と笑み混じりに溜息を零す。
誰にも見せてこなかった心の奥底の暗いものに初めて触れられた瞬間。
『一人にしない』などと自分に言ってくるのは、これまでもこの先も桐生ただ一人なのだろうと春日は鼻を啜って笑った。
「やっぱアンタには適わねぇや」
きっといつになっても、死んでいった人達を思い浮かべる度に同じ顔をしてしまうのだろう。
寂しくて、虚しくて。どうしようもない孤独感に苛まれる。
だが、これからは。そんな時に寄り添える人がいる。支え合える人がいる。
「俺だってお前には適わねぇよ」
よしよしと頭を撫でてくる手から伝わる感触に、春日はしがみ付くように体を抱いて。改めてこの人と一緒になれて良かったと目を閉じると、瞳に溜まった雫が長い睫毛を伝い、頬へと流れていった。
「お前に出会えて、良かった」
そんな春日へ追い打ちを掛ける一言が届き、それ以上はやめてくれと泣きながら笑って訴える。だが、桐生から返ってきたのはいつかのハワイで弾丸が髪を掠った時に聞こえた、んー? という優しげな声で。
「はあーもう……大好きだ」
と独り言のように呟くと、俺もだとすぐに返された言葉に春日は堪らず顔を持ち上げ。
「愛してます。一馬さん」
そう言って目を閉じると、桐生の頬にぽたりと涙を零してそっと唇を重ねた。
『もう、ひとりじゃない』