非時香果(ときじくのかくのこのみ)/(8)【黑限】 小黒と無限はいつも通り5時に起きて、素読と軽い手合わせをこなす。とっくに金属製と水属性の術を使えるようになった無限に毎日新しい課題を出して、鍛錬する。毎朝の朝食の時間は8時だ。7時半頃に部屋へ戻ると、好きな時間に起きればいいと伝えてあった小白が、寝ぼけた顔でパジャマ姿のままリビングへ出てきた。
「早(はよ)。早飯(あさめし)なにがいい? ルームサービス頼むけど 」
「なんでもいいよ、ありがと。着替えてくる」
今日は、小白のリクエストで風息公園へ行く。身支度と食事を終えて、ホテルを出たのは10時に近い。小白と無限が手を繋ぎ、半歩後ろを小黒が歩く。
「師父さんと手繋げるとか思わなかったな。私はいい思い出って感じだけど、なんかごめんね」
こっそりと耳打ちされたが、人間ならば肉親も同然である小白には嫉妬などわかない。地下鉄で移動し、駅から公園までの広い道をのんびりと3人で歩いていて、
「若くて可愛いお母さんとお父さんね」
気の良さそうな年配の婦人ににこにこと声をかけられて、小白と顔を見合わせた。無限の父母にしては若かろうと思うが、付き合いの長さが2人の間に熟れた空気を作り出しているのだろうか。出会った頃から互いの性別を意識したことはなく、無限の親に間違われた事実がただ可笑しい。
「すごい、こんな綺麗な子のお母さんに見えちゃう」
「見える見える。小白可愛いし」
「いや、この歳で可愛いって。美女って言って」
「うーん、美女ってタイプじゃないんだよなあ。やっぱり可愛い」
「ねえ、真顔で言わないで」
「あっ、ごめん」
「小黒は普通にイケメンだからいいよね。違うか、普通にすごいイケメン」
「いや、それこそなに」
気安い軽口で笑ったが、俯き加減で黙然とする無限の様子に、小白と目を見交わした。「お母さんとお父さん」の言葉で、家族を思い出させてしまったのかもしれない。
「無限、お菓子買う? くまのグミ。ほかのも、なんでも」
折よく通りかかったコンビニを指差しても、無言で左右に首を振る。しかし、小白は気にする風でもなく明るく無限へ声をかけた。
「龍游初めてだけど、都会だよね。船でも来られるみたいだから、今度は船で来ようかな。無限は船乗ったことある?」
「小さい舟なら。川を渡ったり、漁(すなどり)に使ったりする」
「そっか、じゃあ今度小黒に乗せてもらったら? 遠くまで行かなくても、おっきい客船楽しいよ。ほら、あれ」
道の向かい側の商業施設の、大型客船のCMが流れているデジタルサイネージを指差した。見上げた無限の頬に血の色が浮かび、碧い目が好奇心に輝く。
「すごい、あんな大きな船見たことない。人がたくさん乗ってる」
「全部鉄でできてるのに、浮かぶのすごいよね」
「全部鉄?」
「なんで浮かぶのかは私に訊かないでね」
「じゃあ後で調べてくれ。スマホで」
「そうきたか」
笑う2人に呆気にとられ、小黒自身も気が利かないつもりはないが小白のコミュニケーション能力の高さに舌を巻く。
休日とあって、風息公園に入る前から路上がすでに賑やかだ。多くの人の流れとともに、公園の広い敷地へ入る。日陰の空気は冬なりに冷たくとも、天気はよく、陽射しは暖かい。家族連れや年配のグループ、恋人同士や友人たち、あるいはひとりで、ペットを連れ、多くの人たちが思い思いに過ごし、晴れ渡った空には色も形もとりどりの凧がのんびりと揚がっている。真っ先に、紫羅蘭たちのフラワーショップへ向かった。事前に、小白を連れて行くと連絡済みだ。待ち構えていた紫羅蘭と洛竹が、満面の笑顔で迎えてくれた。
「小白! 久しぶり! 大きくなったね」
「なに、紫羅蘭ちゃん。大きくなったねって」
「あっ、ごめん。だって本当に大きくなったから」
「そうだけど」
目を見交わして、笑い合う。
小黒の誕生会や季節のお祝いのたびに会館で顔を合わせていた2人だが、小黒の成長でその機会も少なくなり、会うのはもう6年か7年ぶりだろうか。
「紫羅蘭ちゃんは全然変わんないね。洛竹も」
「変わらない 頑張ってるんだけど、ダメ」
「ごめん、そうじゃなくて」
また明るく小白が笑う。歳を取らない妖精たちは変化で少しずつ外見を変えていくが、紫羅蘭はそれがうまくいっていないと解釈したのだろう。
「人間の使う言い回しなのね。人間(じんかん)も長いんだけど、人間のお友だちなんて居なかったからな」
小白に説明を受けた紫羅蘭が、照れた顔で微笑んだ。
「それでさ、営業中に悪いんだけど無限見ててもらえないかな。小白を風息に会わせたいんだ」
「おう、いいぜ。行ってこいよ。小黒がいなくても大丈夫だよな、無限」
顎までの長さの髪を揺らして、無限がわずかに頷いた。理由はわからず、無限は風息の樹を嫌がる。フラワーショップで待っていてほしいと、朝の鍛錬の時に無限に相談済みだ。今まで無限だけを1人で預けたことはないが、紫羅蘭とも洛竹とも何度も会って、だいぶ打ち解けている。幼くとも無限は聡く聞き分けよく、2人の仕事の邪魔にはならないだろう。
「ごめん。待っててな、無限」
「大丈夫だ」
「うん。じゃあ、よろしく」
「おう」
「いってらっしゃい」
軽く手を振り、小白と肩を並べて、広い公園の中をゆったりと歩き出した。冬の冷たく澄んだ空気に、燦爛と注ぐ陽光に、顔をさらす。
「師父さんは行かないの?」
「うん。なんか嫌がるんだよね、風息の樹に行くの」
「……ふーん」
「なに?」
「なにが?」
「いや、なんか」
「ん?」
含みありげに聞こえた小白の相槌への軽い問いかけは、笑顔に受け流された。どことなく気になるものの、追及するほどではない。
「あれでしょ、風息さんの樹。すごいよね、遠くからずっと見えてた」
「うん。根っこもこの下にずっと張っててさ。地盤すごい固いから、避難場所にもなってるって」
「へえ」
小白と語りながらも、幼い姿になってからは視界の外に出さずに過ごしてきた無限と離れている状況に、どこか落ち着かない。心配しすぎだろうか。洛竹も腕のいい執行人だ。
週末とあって、風息の樹に近づくにつれて人の姿がなお増えていく。遊びに来た近在の住民たちばかりではなく、珍しい巨樹を見にきたとおぼしき観光客の姿もある。
「こっち」
手近の入り口から中へ入ると、建築途中のビルの中に思うさま伸びた枝に取りついて、子供も大人も楽しそうに遊んでいる。横目に見ながら、小黒は先に立って小白を導いた。風息の樹への立ち入りは3階までに制限され、上階へ続く階段は防火扉を閉め立てて封鎖してある。ビルの奥まった場所に位置するその扉の前も通りすぎて、小黒は人気のないビルの裏側へ抜けた。日陰になって肌寒く、建物の反対側から聞こえてくるはしゃぎ声の反響すら、どこか物寂しい。
「小白、抱っこしていい?」
「抱っこ?」
「うん。上に行く」
「上? よくわかんないけどいいよ」
「んじゃ、失礼」
小白を掬い抱きにして、外付けの廊下の錆びた金属の柵に足をかけた。
「落とさないけど、枝とか引っかかると危ないから俺にひっついてて」
「ん」
小白の細い腕がしっかりと首筋へ回されて、小黒は軽やかに柵を蹴った。
「わっ!」
遠ざかる地上を見下ろす小白の声は、期待に満ちて楽しそうだ。
「怖くない?」
「全然」
「怖くなったら言って」
「平気だよ。衆生の門で慣れてるし」
あっさりと笑うが、バーチャルとリアルでは違うだろう。冬でもなお青い葉叢に姿を隠しながら、卓越した身体能力で3階層分ずつ小刻みにビルを上がっていく。怖くないかと都度確認を取ってみても、小白は笑顔で左右に首を振る。物の数分とかからず、屋上を突き破っている風息の樹冠まで辿り着いた。
「わあー! すごい、絶景!」
小黒に抱き上げられたまま周囲を見回して、小白が歓声を上げた。
目の下には風息の一件で破壊されて再建された龍游の近代的な街並みが広がり、1,000万の人口を抱える大都市を囲んで、低い山が連なりを見せている。金の糸のように市街を縫うのは、岸辺が市民の憩いの場にもなっている川の流れだ。
「怖くない? 下ろして大丈夫? 絶対落とさないし」
「大丈夫だよ、なんでそんなに心配してるの? すごいね、こんな高いところでもこんなに枝が太い」
小白の言う通り、若木ほどの太さのある枝は成人男女が並んで立って、揺れもしない。
「いや、なんでって……小白変わんないなあ、怖いものなし」
「怖いものあるよ? 高いとこは平気。小黒も居るし」
苦笑にも、朗らかに返される。
「小白、こっち。一応、下から見えないように」
手を取って、密に繁って折り重なる葉が姿を隠してくれる小さな空間へと招いた。「高いところは平気」の言葉通り、小白は足を竦ませることもなく、滑らかに樹上を歩く。
「ここ」
念には念を入れ、枝へ腰を下ろす小白を手と尾と金属で支えた。
「なに、過保護。でも小黒、昔から優しいもんね」
「いやだから、小白がこわ……豪気なんだって」
「なにそれ、豪気って」
笑う小白が、硬い樹皮に手を添える。しばし見つめて、そっと掌を滑らせた。
「いつもここで風息さんに会ってるの?」
「うん。邪魔が入らないから」
「景色もいいしね。風息さんはこの中に居るの?」
「うーん、中に居るっていうか、この樹がそのものっていうか」
「眠ってる?」
「どうかな。……意識みたいなものは……残ってないんじゃないか、って」
「そっか」
風息との、瞬きの間ほどの出会いと別れはもう20年も以前だ。
あの頃は、入り交じる複雑な想いを幼い心に抱えた。成長して世界や物事を知り、風息がなにを思い、なにが風息を動かしていたのか、少しはわかるようになった気がする。硝子の欠片のように心の裡に撒かれていた幾つもの感情は時間(とき)によっていつしか削られ、言葉を詰まらせるほどの鋭さなど、とっくに失ったと思っていた。
ゆっくりと顔を上げた小白が頭上の緑を見回し、目を閉じて、吹き抜ける風と小鳥の囀りに耳を澄ましている。梢を揺らして走り抜けていく音は、栗鼠だろうか。時折どこからともなく紛れ込んでいる、小さな霊獣だろうか。暖かな日射しに誘われたのか、木肌に溶け込む色の蜥蜴が枝に取りついて微睡み、半透明の木の霊がふわふわと緑の葉から漂い出てきた。数年前に初めて見かけてから、徐々に数を増やしている。近頃では、下の階でも姿を見かけるようになった。
「いいとこだね。生き物もいっばい居て。ちっちゃい森みたい」
「師父も同じこと言ってた。ちっちゃい方――無限の方ね」
小黒に向かって目元を細めた小白が、穏やかに口を開いた。
「您好(はじめまして)、風息さん。小白です。私、小黒の友だちなんだ。小黒を助けてくれてありがとう」
そして、高く青く広がる空へ視線を移す。
「私は、小黒から聞いてるだけだけど。風息さんが小黒を見つけてくれなかったら、今ごろ小黒も師父さんも私も、お互いのことなんかなんにも知らないでさ。どこかで別々に生きてたよね」
小黒へ視線を戻して、明るく笑う。
「だから、2人が会ってくれてよかった。ね」
せり上がってきた熱い塊を飲み下し、小白の頭頂へ頬を寄せた。下から延びてきた手が、小黒の頭に触れる。
「うん」
咽喉を鳴らすように答えて、目を閉じる。耳の先をくすぐっていった風に気温の変化の先触れを感じ取り、小白に預けていた頭を起こして、淡く笑い返した。
「……戻ろうか。気温下がりそうだし、無限も気になるから」
「そうだね。連れてきてくれてありがとう」
「こちらこそ。会ってくれてありがと。いつか紹介したかったんだ」
「私も。会えてよかった」
ごつごつとした木肌をもう1度撫でた小白に、手を差し出した。小白の手が小黒の手に重なり、抱き寄せる形で、共に枝の上に立つ。
「行くよ」
「うん」
長い付き合いから小黒の一言で移動方法を理解した小白は、一瞬のちに3階へ戻っていても驚かない。
来た時と同じビルの裏側はなお暗く、まだ充分に陽の当たっている表側から、走り回って遊んでいる子供たちの歓声と足音が聞こえてくる。封鎖された防火扉の前を再び通りすぎ、賑やかなビルを1階まで下りて、外へ出た。
フラワーショップへ戻る道すがら、小白が風息の樹を振り返る。
人間たちの楽しそうな声や鳥の鳴き声、渡る風の起こす葉擦れが聞こえてくる。視線を転じれば、天には色とりどりの凧が浮かび、休日を楽しむ人々が繁く行き交う。かつては神として崇められたこともあったのだろう風息は、今また人間(ひと)や小さな生き物たちを見守っている。
「淋しくないんだね、風息さん」
「うん。きっと」
最も近くに生きる洛竹も、同じ想いだろうか。
肩を並べて紫羅蘭のフラワーショップへ戻ると、反対の方向から戻ってきた無限と洛竹に店舗の前で出会った。2人ながらにうっすらと汗を浮かべて、手には稽古用の木剣を携えている。身振り手振りを交えて、小黒たちにも気づかないほど、仲良く談笑しているのが少々意外だ。
「なに、2人で稽古?」
そう声をかけて、ようやく顔を向ける。
「おう、おかえり。今日、ちょっと店ヒマだからさ。手合わせしたんだよな、向こうで」
「うん」
「親子に間違われたぜ、似てないのに。な」
「うん」
笑顔の洛竹の言葉を受けて、素直に頷く無限も含羞んだ笑顔だ。
「私と小黒も。来る時に間違われたよね、親子って」
「いやいや、2人じゃ無限の親には若すぎだろ。って、俺も歳いきすぎだけど」
「洛竹は見た目若いもん、全然」
「アラフォーくらいのつもりなんだけど、見えない?」
「うん。それより10才くらい若く見えるよ」
「嘘。修行が足らなかったか」
「洛竹と紫羅蘭ちゃんは今の見た目でいいって。急に10才も見た目が歳取ったら、常連さんだって驚くよ」
「違いない」
「でしょ」
笑う小白も洛竹も屈託ないが、詮ない嫉妬が、ちり、と小黒の胸を灼く。自覚はあれど、強すぎる独占欲を抑えるのは難しい。洛竹も小白と同じく家族にも似た存在であるのに、なにが違うのだろうか。
「それはともかくさ。手合わせして驚いたわ。強いんだよ、無限。負けるかと思った」
「洛竹も。強かった、すごく」
「なんだよ、気ぃ使ってんのか、子供のくせに」
「使ってない。本当のことだ」
「ほんとかあ?」
「本当だってば」
藍い髪をくしゃくしゃと洛竹の手にかき回されて、無限が楽しげに破顔する。
『あ、ヤバ』
みっともなくも直視できずに、視線を逸らした。
「いやいや。ほんとにさ、1本も取れないかと思ったもんな」
「私が子供だから、手加減してくれたんだろ」
「してないっていうか、する余裕なんかなかったよ」
「……でも、少し」
ふと考えこんだ無限が、誰にともなくゆっくりと言葉を継ぐ。
「こちらに来てから、強くなった気が、するんだ。小黒に手合わせしてもらってるからだろうか」
「強くなったって?」
「以前(まえ)より、手筋がよく見える。それに……撃たれると勝手に身体が避ける。どうやって返せばいいかも、考えなくても身体が自然に動くし。でも……なんていうか……力も速さも、足らない気がして。本当はもっと」
言いさして口を噤み、じっと手を見ている。
計らずも、洛竹と目を見交わした。
眉の間に浅い皺を刻みながらの説明に、むしろ小黒と洛竹こそ、無限がなにを言わんとしているのかを理解する。
無限の内の、無限の記憶。
500年の長い人生におけるたゆまぬ研鑽で培われた、誰よりも優れた技と業とを、身体が覚えている。
「そっか。このまま小黒と稽古続けたら、あっという間に俺なんか勝てなくなっちゃいそうだよな。なんて言うんだっけ、これ」
洛竹に目配せされて、自分が言うべき言葉を理解する。
「才能がある」
無限の頭へ手を置くと同時に、洛竹と小白との3人で笑い交わす。不思議そうに小首を傾げながらも、無限はなにも訊かない。
「汗拭こうぜ、無限。みんな昼どうする? 狭いけどウチの店で食ってけよ」
これまでにも何度か訪れているが、礼儀正しく接してはいても、無限は洛竹にも紫羅蘭にも打ち解けてはいなかった。それがこのほんの数十分で2人の距離が縮まった証左に、洛竹が気安い仕草で無限の背に手を添えて、店内へと促す。
『あ~、もう、クソ』
兄のように慕う洛竹に、嫉妬したいわけではない。
それでも、本物の痛みと勘違いするほどたしかに、胸の奥が青い焔(ひ)に焦がされた。