非時香果(ときじくのかくのこのみ)/(2)【黑限】 会館上層部の面々と首席執行人の愛弟子に囲まれ、厨師の責任者である螻蛄の妖精がVIPルームの豪奢な椅子で居心地悪げに臀を揺する。
「非時香果(ときじくのかくのこのみ)って物らしいです。万病を癒し、不老不死をもたらす霊果だとか」
何事が起きているのかと様子をうかがいながら、厨師が語って曰く。
日本まで新作ゲームを買いに行かされた諦聽が彼の地の神々へ挨拶に立ち寄った際に、「大変に美味」として老君に非時香果を賜った。神である老君にとっては、不老不死の霊果も滋養強壮剤程度のものだ。それよりも、頑健とはいえ肉体自体は人間(ひと)である無限にこそ役に立つだろうと考えたらしい。無限と小黒が『衆生の門』での任務にあたっている間に、諦聽が霊果を携えて龍游を訪れた。
「ちょうどどなたもおいでにならなくて、食べ物だからと私どものところへ預けに来られたんです」
潘靖と冠萱は人間(じんかん)にて有力者とのミーティング、他の執行人たちも各々任務に出払っていた。
「無限大人への差し上げものとみなに言ってありましたが、枝の状態でひょいと置いていたので食材と勘違いしたようで」
食後の水菓子として供されてしまったらしい。
厨師が、神妙に顔を上げる。
「あの、やはり、無限大人のお身体になにか……?」
「なにもないから気にしなくていいよ。話聞かせてくれてありがと」
気さくな態度と人当たりのいい笑顔で、話が終わるや早々に厨師を帰らせた。
「ってことは、老君から日本の神様に連絡取ってもらうしかないって感じ?」
無限が若返った原因は、他に考えようもない。焦燥や苛立ちや困惑や、沸き上がる幾つもの感情を抑えながらの小黒の言葉を潘靖が受ける。
「そうだな。あちらの方々はスマホ1本とはいかないから、時間がかかるつもりで考えよう」
「気難しい?」
「いや。古式がお好きらしい」
「あ~。スマホとか使わないんだ。まあでも、師父もすぐに元に戻るかもしんないしね」
「そうだな」
あえて楽観的な言葉を交わしてみるが、長期戦を予想して計画を立てるべきだろう。無限のいる臥房へ視線を遣ったのは無意識だ。
「とりあえず、師父にはなんて言う? あんなちっちゃい子に『ここは450年後の世界で、もう元の時代には帰れない』なんて言えないよ」
まして父母が恋しい年齢のあの無限に、二度と家族と会えないなどとは口が裂けても言えない。
「うむ」
「妖精の世界だとお伝えしますか? 元に戻れるまで会館(ここ)に留まっていただけば、嘘でもないですし」
考えこむ顔つきの潘靖の横から、冠萱が提案した。
「うん、でもそれさ。もし師父がすぐは元に戻れないなら、一緒に人間(じんかん)に降りる。妖精たちの中じゃ居心地悪いだろうし、最頂楼(ここ)に閉じ込めるんじゃ可哀相だし。それに色んなとこに目と耳と鼻があるから、多分隠しきれない。あの姿で館に居るの、色々ヤバいだろ」
「あ~……」
話を聞く3人の口から、三様の嘆息が漏れる。もう一度臥房へ目を遣り、長い尻尾が低い位置で左右に揺れてしまうのは無意識だ。見知らぬ場所に独りで置き去りにされて、無限はどうしているだろうか。
「いつまでも師父1人でほっとけないから、とりあえず向こう戻るよ」
「では私が老君に連絡しよう。2人は小黒と一緒に臥房へ行ってくれ」
「ありがと、みんな」
スマートフォンを取り出した潘靖を残して臥房へ戻り、静かすぎて気に掛かっていたベッドを覗く。
「あれ」
静かなのも当然だ。小さな身体をさらに小さく丸めて、無限が架子牀の帳の内側の秘密めいた空間でぐっすりと眠っている。
『さすが師父』
小黒が420年前に飛ばされた時は目の前の無限の倍ほどの年齢だったが、見知らぬ世界で目を覚ましてどれほどに不安だったかはよく覚えている。穏やかな秋の陽射しは暖かく、美味い食事で腹一杯でもあろうが、早々に眠ってしまうとは幼くともさすがに無限は肝が据わっているというべきだろうか。
『でも』
身に合わない長衫の中で、自分を守るように丸くなっている寝姿が気になる。子供と大人――それ以上の年齢と経験の開き――の違いであるかもしれないが、小黒の知る無限は正しく仰臥で眠る。
「眠っておいでなのか?」
「あっ、うん。でもちょうどいいかも。このまま師父のこと診てよ、逸風」
冠萱に肩越しの声をかけられて、その背後に立つ逸風を呼んだ。
「うん。じゃあ失礼して」
小黒と場所を変わって、逸風が牀の端へ腰掛けた。眠る無限の上へ、静かに手をかざす。出会った時から変わらない少年の面差しが、ふと曇ったことを見逃さなかった。
「なにかあんの?」
「え? ああ、うん」
眉を寄せたままの生返事で、ほどなく手を下ろした。
「体調は大丈夫。でもこれじゃ、眠ってしまわれるのも仕方ないかな」
「仕方ないって、なにが?」
考える顔つき、ゆっくりと口を開く。
「霊力がね、無限さまの。そのままだ」
「そのままって? 霊力?」
「うん。もちろんこの頃から霊力は持っておられただろうけど、その後400年以上鍛錬された現在(いま)の無限さまの霊力がそのままなんだ」
思わず、冠萱と目を見交わした。
元々の素質が高かったのは間違いないにせよ、長く厳しい修行を経て無限が引き出し、練り上げ高めて手に入れた、尋常ならざる霊力。子供の身の内に抱えていては、体力が追いつくまい。
「もう少し馴染むとは思うけど、急に電池切れがおきるかもしれない」
「わかった。俺、ずっと一緒にいるしフォローするよ」
「うん」
「でも、そんだけ? 他には? パンクしたりしないよね?」
「ご自身の霊力だし、それは大丈夫だと思う。気を調える薬なら作れるから、無闇に霊力が高まらないように調整できるかもしれない」
「そっか、それ助かる」
客庁から低く聞こえていた声が途絶えて、潘靖が臥房へ入ってきた。
「老君に事情は説明した。やはり、先方と連絡を取るには時間がかかるそうだ。無限さまは?」
「今は寝てる。霊力がそのままらしくて」
「はい。お身体は若返っておられますが霊力がそのままなので、ご負担が大きいかと」
「なるほど」
牀の傍へ来た潘靖が眠る無限を覗きこみ、冠萱と逸風が同じく見下ろす。しばし無言の3人の頬に、微かな赤みが差した。潘靖が居住まいを正して、軽く咳払いする。
「さすが無限さまというか……こんなに小さくてもお綺麗だな」
「はい」
「ですよね」
顔を赤らめて頷きあう姿に、思わず一歩後ろへ引いた。
「えっ、なに!? みんな、そんな風に思ってたの!? 普段全然そんな話しないじゃん」
「知己としてのお付き合いも長いから、今さらだろう。上司に向かって『お綺麗ですね』なんて言えるわけないしな。美しい方だとはみな普通に思ってるぞ」
潘靖の答えに、冠萱と逸風が幾度も小さく頷いている。
「あっ……そう」
整った容貌の持ち主ばかりであり、本能的に美しい物を好む妖精たちになお賞賛される容姿を情人(こいびと)として誇ってもいいのかもしれないが、色恋の含みは一切ないとわかっていても、軽い嫉妬か独占欲か、形容し難い感情が湧く。だが、今はそれどころではない。
「まあいいや、師父が寝てる間に俺のチビの時の服取ってくる。戻ってきたら相談させて」
「もちろん」
床に金属で霊域の入り口を作り、無限には未だ遠く及ばないまでも、大陸の二つや三つは軽く収まる己の内側へと入った。距離感さえ錯覚をおこす宏大な白い空間に、小黒が生まれて人間に追われるまでを過ごした森が鬱蒼と茂る。無限の生家とは違い、記憶の中にしか存在しなかった姿を霊力で再現した。その中にぽつんと佇むコンクリートの立方体は、10才の頃から今も無限と暮らしているマンションの部屋の写しだ。
「ただいま」
誰も居ないその部屋のドアを開け、突き当たりのリビングへ真っ直ぐに向かっている廊下の途中にある自室へ入る。10才以前の持ち物はほぼ無限の霊域に保管されたままだが、思い入れのある何着かを持ってきていた。作り付けのクローゼットの木のドアを開いて、吊るされている小さな服を手に取る。無限が館に注文して小黒のために仕立ててくれた、無限のお下がりではない初めての古装だ。
「これは無理か。俺が6才とかの時のだし」
独りごちて、吊されている古装の中から大きめのサイズの服を取り出した。9才の頃に仕立て、修行の旅の日常で着ていた綿のシンプルな立襟・紐釦の短衫と、揃いの長褲子だ。墨色の生地に、翠緑の紐釦と縁取りがアクセントになっている。肌着代わりの生成りの短衫と、無限と同じ物をねだって作ってもらったこれも立襟・紐釦の長衫とを取りまとめた。
『師父が俺のチビの時の服着るとか』
まさかの事態にふと笑みがこぼれるが、同時に不安で胸がざわついた。
異国の神からの賜り物で引き起こされたアクシデントではあるが、自分たちの世界の神もいる。彼の国の神々と気軽に連絡も取れる。よもや元に戻れないはずもあるまいと思いながら、それでも完全に平静でいるのは難しい。
『俺がちゃんとしないと』
脇に抱えた服を、無意識にきつく握りしめる。
戻った臥房では未だ無限が眠り続け、3人の妖精たちは少し離れた場所で声を抑えながら何事かを相談していた。
「持ってきた。みんな、ほんとごめんね、巻きこんで。うちの師父が食いしんぼなせいでさ」
軽口をきいてみてもあまり気分は晴れず、読んだように潘靖が微笑む。
「小黒。無限さまがすぐに戻れたならそれで良し、まずは長期戦を想定して計画を立てないか」
「うん、そのつもりだよ。たださ、師父にここが450年後の世界って、教えるのは……」
「でも誤魔化しきれないんじゃないか。事故に巻きこんで別の時代に来てしまったが、いずれ帰れると説明するのはどうだ?」
「……でも」
戻れなかったらと、出かかった言葉を呑みこんだ。誰より、小黒がそれを口にすべきではない。
「大丈夫、きっと方法はあるよ。あちらから返答をいただいたら、なんでもないことかもしれないしね」
服を抱えて立ち竦んだ小黒の肩に、冠萱の手が静かに添えられた。落ち着いた実務家である冠萱の言葉にひりつく神経が和らぐのを感じ、思っているよりもこの状況にストレスを感じている自分に気づく。
『起きた時は師父可愛いなんて暢気だったのにな』
あの時の浮かれた気分を思い出しても、自嘲も浮かばない。
牀へ腰を下ろして、眠る無限の顎の長さの髪に触れる。髪の長さまでが変化しているところを見ると、「若返った」のではなく「時間が巻き戻った」と解釈すべきだろうか。
「ん……」
小黒の指に反応するように、無限が咽喉を鳴らして身じろいだ。薄い瞼が、眩しげに持ち上がっていく。開いた大きな目は真っ先に小黒を見つけて訝しげな色に変わり、次いで何かを思い出したように視線を動かし、潘靖を見つけて止まった。
「お目覚めのようだな」
場所を空けるために立ち上がろうとした小黒を目顔で制し、牀へ近づいた潘靖が優しい表情で身を屈めた。この場で2人にしかわからない言葉で、無限へ話しかける。
「▲♪$◇■。+¥★▽*±◎&□○+¥∀。●♭◎&⊿≫◆△▲☆♪×@、▼※#≫△☆♪#▽◎※●≫△。≠×$☆▲ ?」
「……」
「□@+¥▼=△☆※◎&■。♪#▼☆*&◎ ?」
「……」
「◇。+◎&⊿*±▼※○+¥。●♭◎&▲☆♪×@、▼※#≫△☆♪#▽◎※●≫△」
「……⊿★」
微かに眉を顰めながらも、無限が承諾を示して小さく頷いた。
「冠萱」
笑顔で頷き返した潘靖が冠萱を呼び、無限へ紹介する。無限の顔は強張ったままだが、構わずに冠萱が無限の小さな手を取った。神妙な面持ちで無限が冠萱を見つめ、冠萱もまた無限を見つめ返す。宥めるように頷いてみせた冠萱に、無限の肩から見て取れるほどに力が抜けた。
『あっ、も~』
術に必要な挙動であるとわかっていても、ささやかな嫉妬が小黒の胸を灼く。
『マジもう、こんなのにヤキモチ妬くとか俺』
いたって真面目な顔つきで成り行きを見守りつつ、詮ないとわかっていても心中穏やかならない。
「さあ、どうかな? 私の言葉はわかるかな?」
無限の手を取ったまま、それ以上は派手なアクションがあるでもなく見かけでの変化があるでもなく、一呼吸の間の後で冠萱が穏やかに無限に語りかけた。
「……」
「どうだろう?」
「……わかる。私の言葉も、わかるだろうか」
「よかった、これで言葉が通じるね。後は彼が説明するよ」
冠萱に視線を向けられて、誰よりも無限に近い存在である己に今後を一任されたと知る。大きく息を吸って吐き、冠萱と場所を変わった。不審げに小黒を見上げてくる情人(こいびと)の俤の美しい少年は、身に合わない長衫の長い袖をやはりきつく握りしめている。
「無限。俺は小黒。猫の妖精だよ」
敬愛してやまない師でもある情人の呼び捨てにいささかの躊躇いを感じながら、笑顔を向けた。耳と尾を動かしてみせると、無限の白い頬に内側から血が匂って眸が輝く。あからさまな態度には出さなくとも、小黒の知る無限もまた動物が好きだ。
「ここは妖精の世界で、館っていう場所。ここまではあのおじさんにきいた?」
無限が無言で頷き、後ろで潘靖が軽く咳払いをする。
「うん。俺はね、執行人って仕事をしてる。悪い奴らを捕まえたりするんだ。昨日も悪い奴と戦っててさ。そいつが時間を行ったり来たりできる……って、意味わかる? 昔に行ったり、今に戻ってこられたりするんだけど」
自身が過去へ飛ばされたアクシデントを思い出しながらの作り話を身ぶり手ぶりで説明しながら、450年前の子供相手では時間の概念すらどの程度通じるものか心もとない。それでも、無限はまた無言で頷いた。
「それで、戦ってる最中にそいつに昔に連れてかれてね。そこに無限が居て、ほんとにゴメンなんだけど戦いに巻きこんじゃって、間違って一緒に俺の時代に戻ってきちゃったんだ。……わかるかな?」
大きな碧い目が、ひたと小黒を見つめている。真実を探そうとしているように見えるのは、嘘を吐いている負い目からの錯覚だろうか。
「わかる。私は、未来(のち)の世に居るんだろう」
「ん、うん、そう。ここは、無限の居た頃から450年経った時代」
「450年……」
たったこれだけの説明を、この幼さで正確に理解している聡明さに驚きを禁じ得ないが、やはり小鳥の囀りに似て愛らしい声からも表情からも、感情が読みとれない。
「その悪い奴だったらまた無限を元の時代に返せるんだけど、俺と戦った時に大怪我をして、今は治療してる。だから、そいつの怪我が治るまで待ってもらえないかな」
黙ったままじっと見つめてくる幼い無限に、全てを見透かされそうな落ち着かない気分にさせられる。必ず無限が元に戻ると、それを前提とした嘘だ。
『もし、戻れなかったら』
何度目か過ぎったその考えを打ち消した。
「わかった。待つ。でも、いつまで待てば、いいのだろうか」
長衫の長い袖がなおきつく握りしめられ、俯いた無限が継ぐ言葉は、絞り出すようだ。小黒の胸も切なく絞られるが、吐き始めた嘘は吐き通すしかない。
「ごめん、まだ、はっきり返事できないんだ。2ヶ月とか3ヶ月とか、そのくらいかな」
「そう、か」
「っ」
細く消える声に、思わず無限の手を取った。顔を上げないままのその小さな両の手を、自分の手の中へすっぽりと包み込む。
「ほんとに、ほんとにごめん、こんなことになって。俺が絶対、なんとかするから。だから無限は心配しなくていいんだよ、大丈夫だから」
「……」
赤の他人――人間同士ならまだしも、たった今出会ったばかりの妖精を信用しろなどとは、無理な話とわかっている。むしろ、無限がこの状況を受け入れて話を聞いてくれていることに驚きしかない。
「そうだ、これ」
抱えていた服を、無限へ差し出した。
「俺が着てた服だけど、良かったら」
わずかに躊躇し、けれど無限は衣服の一揃いを受け取った。
「謝謝您(ありがとうございます)」
「向こう行ってるね。着替えたらおいで」
言いおいて立ち上がり、成り行きを見ていた3人を客庁へ促す。
「は~~~~~……あんなんで良かったかな」
門扇を閉めた途端に疲労感が押し寄せ、頭の重みで189cmの長身をがっくりと折った。
「もちろん。悪かったな、急に振って。無限さまのことも独りぼっちで時間の向こうに飛ばされることも一番よく知ってる君が適任だと思ってね」
潘靖が軽く肩を叩いたが、あるいは的確な対応をできるか、執行人としての資質を試されたのだろうか。
「でさ、館長。師父と人間(じんかん)に行くからホテル取ってもらえる? ウチに帰るより、みんなと物理的に近い龍游の方がいいと思うんだ」
「そうだな」
親友である小白や山新たちの住居ともほど近い、10才の頃から無限と暮らすマンションに帰る選択肢もないではないが、やはり今は龍游に留まるべきかと思う。頷く潘靖の隣で冠萱がスマートフォンを取り出して、控えの間へ入っていった。事情が事情だけに、館と繋がりのあるホテルでの滞在が最良だ。
「老君からの返事次第だが、協力者を増やした方がいいな。極力配慮はするが、君に出動してもらわないといけない案件の時に代わりに無限さまを守れる者も必要だ。実力と君たちとの関係でいけば水(シュイ)と、哪吒さまにも事情の説明を」
「ねえそれ、哪吒にも言わないとダメ?」
「そもそも本部に黙ってるわけにいかないだろう」
「マジか……またお騒がせ師弟ってイヤミ言われる……」
歯に衣を着せぬ言動と言葉つきの辛辣さに関わらぬ本質での優しさが化学反応を起した結果、シニカルで飄々としたキャラクターと見られがちだが、哪吒は妖精の世界への対し方と自身の任務について至って真摯だ。今回も、無限が任務に就けない事態に陥ったことでちくちくと針を刺されるのは間違いない。
「はあ……」
溜息ついでに「謝謝您」と無限の他人行儀な物言いを思い出したせいで、二度目の溜息を吐く。
『他人かあ……』
無限の俤と気配を持つ少年は、見た目が変わったところで小黒にとっては確かに無限でしかない。赤の他人に対するような振る舞いに、思っていたよりも傷は深い。
「っと」
しゃがみこんでいた背中に門扇が当たって、立ち上がる。着替えた無限が、細く開いた門扇から顔を出した。
「着た? おいで」
呼びかけに応じて姿を見せた無限に、小黒の子供の頃の装いがよく似合っている。
『うわ、可愛いっ!!』
無限が目覚めてから数時間経ってもまったく見慣れずに賛嘆するばかりだが、おくびにも出さずに笑顔で言葉をかけた。
「着られた? 大きさ大丈夫?」
「うん。少し大きかったけど、大丈夫だ」
折り返している袖と裾の裏地の若竹色が、むしろアクセントになって活発な印象を与えている。
『小っちゃい師父どころか、元の師父だって全然見慣れないしな~』
大人の姿の無限と出会って20年近いが、圧倒的な美貌はふとした折りに未だに見惚れる。
「よかった。あのさ、無限」
目線を合わせるために、床へ再度しゃがんだ。
『あ』
驚くほど落ち着いていると思っていた無限の碧い目に揺れている、かすかな不安と困惑。掌に爪も食いこみそうなほどに握りしめられた、小さな拳。
「俺と一緒に、人間(じんかん)に戻ろう。無限の時代とはずいぶん違うだろうけど、ほとんど妖精しか居ない館(ここ)よりいいし」
身体的にはともかく、数百年を生きて超常の力を操る仙人たちも人間(ひと)とは言い難い。
「わかった。貴方にまかせる」
「うん」
控えの間から戻った冠萱が、隣へ来た。
「小黒、今オフィスに手配を依頼してる。何かの時に話を通しておいた方が早いから、私の独断で上の者にだけ事情を説明したよ」
「うん、ありがとう」
独断とはいえ、冠萱に手配を任せた潘靖の意思でもある。
「転送門は私が人払いをしておくから、出発は15分後に」
「ありがと、館長。黑咻と行ってよ」
「私は必要なところに連絡を取るよ」
「じゃあやっぱり、水(シュイ)だけじゃなくて鳩老も」
「そうだな」
「僕は薬を作ってくる。とりあえず一服分渡せるように急ぐけど、もし間に合わなかったらまとめて送るよ」
「ありがと、逸風」
慌ただしく出て行く3人を見送って、無限を振り向く。
眉を寄せて唇を引き結び、門扇の前に寄る辺ない表情で佇んでいた。