長い恋にまつわる短い話 膝の上で寛ぐ黒猫の天鵞絨の被毛を撫でながら、やはりこんな寒い夜の暖かなこの部屋の、2人で選んだこのソファに座っていた時だったと思い出す。
今にも雪が降りだしそうな厚い雲に街の灯りが反射していた、ちょうど10年前の白っぽい夜だった。
「俺、師父が好き」
ソファの上で膝とマグカップを抱えていた小黒が、真っ直ぐに顔を上げてそう言った。日頃から気安く伝え合う言葉に何故そんな表情(かお)をしているのかとも思ったが、どこか思い詰めても見える真摯な眼差しが愛しく可愛く、自然と口元が綻んでしまう。
「知ってるよ。私も」
「違くて」
言いさす言葉を遮って、小黒がもどかしげに継いだ。大きな猫の耳がわずかに後ろに倒れて、雄弁な長い尾が忙しなく左右に揺れている。
「師弟とか家族みたいとかじゃなくて。俺の好きは師父と手繋いだりとかキスしたりとか」
「してるじゃないか、いつも」
「そっ……あれ? あっ、いや? そう……そうなんだけど、違うんだってばっ」
6才で出会った仔猫も、もう13才。
外での甘い扱いは少年らしい矜持に障るだろうと控えているが、2人で暮らすマンションの中でのスキンシップは、幼い頃と少しも変わらない。
情が深いと、自覚はある。
それでも、我が身の何処に在ったかと、小黒に知られたなら鬱陶しがられるのではないかとさえ危ぶむ、満ちて溢れて溺れそうなほどの想いは幾つもの名を持ち、けれど小黒が続けた告白に呼応する感情だけは、未だ見知らぬものだった。
「だから……俺の好きは、こっ」
噛んだ後で唾を飲み、改めて言い直す。白い目元は葩の薄紅、鮮やかな眸は翠い焰に似る。
「情人(こいびと)になってほしいって、好き」
長くその世界に身を置きながら妖精に思春期があるかは知らぬままだが、人の間で人の子らと共に過ごす稀な育ち方をした仔猫(こども)だ。
『麻疹のようなもの』
男同士ではあるが、妖精に性別は意味を持たない。最も身近に在る最も親密な他人に生じる、よくある錯覚だろう。わざわざ、否定するまでもない。微笑ましさは、恐らくそのまま表情に出ていた。
「そうか、謝謝(ありがとう)。私の」
「わーっ、待って!!!!」
耳を反らせ尻尾を立て、勢いよく立ち上がった小黒が真っ赤になって押しとどめてくる。
「答えは、まだいい! 俺、まだ全然ダメだからっ」
「駄目?」
「ダメッ、まだ全然、師父に相応しい男じゃないし!! 師父に相応しくなったら、返事訊くからっ! それまで、待ってて」
「ふさわしい」
鸚鵡返しにしたのは、己れが「相応しい・相応しくない」などと論ずるに価する存在とは、露も思わぬからだ。
稀有の霊力と才能と、しかしそれ以上に真っ直ぐで明るくて優しい、少年らしい勇敢さと生意気さも持ち合わせている、たゆまぬ努力を続けて倦まぬ、その心根こそを皆に愛されている子ども。誰かが誰かに相応しいか相応しくないか、それを論じるのなら、むしろ小黒こそが。
「ガキが、ガキっぽいこと言ってるって思ってる? 師父から見たら赤ちゃんかもだけど、俺全然本気だから。忘れてもいいけど、俺ほんとに本気だからね」
目の前に立って、もじもじと幾度も足を踏み換え、心許ない顔つきで言いつのる。
「そうか、ありがとう。お前の気持ちは嬉しいよ」
「……ほんとに?」
「嗯」
すぐに通り過ぎる熱のようなものだとしても、幼い愛情の向かう先が己であることは嘘偽りなく嬉しく誇らしい。
まだ熱が冷め切らないまま破顔した小黒が、猫に戻りながら膝へ乗ってくる。
「よかった。大好き、師父」
「私も」
聞き分けられる、この「好き」は親愛の情だ。ごろごろと咽喉を鳴らしながら、小さな頭を胸元へ擦りつけてくる。耳と耳の間へキスを送って天鵞絨の被毛を撫でた、あの手触りは今もなにも変わらない。
「なに? なんか笑ってない?」
10年を経てすらりと大人の猫になった小黒が、膝の上で首をもたげて尋ねてくる。
焰に似た翠の眸の耀きもまた今も変わらず、情人になってほしいと口にしたのは、あの一度きり。
忘れたか忘れていないか、覚えているとしてもなかったことにしたいだろうか。それでもあどけなかった歳の頃が懐かしく、なにより今の小黒は誰もが一目置く、自信と才に溢れた美しい大人の男だ。他愛のない子供らしい思い出話と、笑い飛ばしてしまえるだろう。
「思い出してた。お前は忘れてるかもしれないが、10年前に告白してくれただろう」
「は」
息を呑み、寛いだ姿勢のままで小黒が硬直する。思っていたより触れられたくない黒歴史だったかと、しかし我に返ってひらりと膝から飛び降りながら、その姿が伸びやかな四肢を備えた長身の青年に変じた。ボートネックの白い長袖Tシャツに、2人でイギリスを一周した時に買ったブルーグレーのアランニットのカーディガン。濃紺のデニム。シンプルな装いが、スタイルの良さを際立たせる。
「覚えててくれたの、師父」
私の足下に膝を揃えて座り、神妙な顔つきで見上げてくる。
「当然(もちろん)。待っててくれって、あの時」
調子を合わせながら、ふと違和感が兆す。
覚えててくれたの。
小黒は、そう言っただろうか。
「うん――うん、そうだよ。子供の戯言だって、忘れちゃったと思ってた。覚えててくれたんだ」
嬉しげな、含羞むような、甘い表情。それはすぐに、あの時よりもなお真摯に厳しく。
「ごめん、俺まだ……まだっていうか、自分が強くなればなるほど、わかるんだ。師父に全然追いつけないって。だからまだ待ってて欲しくて、でも」
膝を突いたままで、一歩分を前に出た。どこまでも真っ直ぐに見つめてくる、眼差しは逸らさない。
「師父は俺が大好きだから、こうやって一緒に居る間は絶対情人(こいびと)なんか作ったりしないって、思ってた。でもやっぱりさ、師父こんなに綺麗で強くて優しくて、だから」
小黒が口にした「大好き」は、親愛。聞き分けもできる、理解もしている。私もそうだ。我が身を満たす小黒へのこの感情は、幾つの名が付いていようと根本にあるものは間違いなく親愛だ。
それなのに、互いに同じことを無意識の中で自明としていた。
こうして共にある限り、他の誰かに恋などしないと。
小黒の手が、膝に置いていた私の手を取る。いつの間にか二回りも大きくなった手に、目が惹かれた。大小の指輪を幾つも着けた節の目立つ長い指に、色が匂う。
「予約させて。師父に相応しい男になって、師父に俺を好きになってもらうから。それまで他の誰も好きにならないで」
この子は、わかっているのだろうか。
いつかその隣にと、自分がどれほど多くの者から望まれ、焦がれられているのか。自分が誰かに相応しくないなど、一体どの口が。
「予約か。いつまでだ?」
「いつ?」
「当然だろ。席の予約は時間を過ぎればキャンセルになる。物の取り置きは期日を過ぎればまた店に並べられる」
「えっ。ぅ、うう、いつ、って……師父に追いついた……ら……」
「だから、それはいつなんだ」
「う」
「悠長だな。私に永遠に待てとでも?」
「はあ 永遠なわけないじゃん、いつだってめちゃめちゃ本気で頑張ってるよ!」
「そうだな、知ってる」
歳の差は、431才。
400年の研鑽をそう簡単に埋められては、こちらも困る。
霊力(ちから)と才を併せ持ち、その上に誰よりも努力し続ける愛弟子に、早く追いついて追い越していってほしくもある。
知ってしまった。
気づかされてしまった。
あの10年前からの、私に向けられる小黒の眼差しが語っていた感情、触れる指先に募っていた想い、師ではなく弟子ではない、その全てがこの身の内に降り積もっていたのだと。
「私から『是』以外の返事を聞くつもりはないんだろ。だったら、それなりの覚悟を見せてもらう」
「ぅぐ」
咽喉の奥で呻いた後で、小黒が表情を引き締めた。いつかのように、その目元が薄紅い。
「わかった、じゃあ耳貸して」
「ん?」
膝立ちになった小黒の唇が、耳元に触れる。あまりに身近に馴染んできた体温と、落ち着いた低い声。耳の奥へ吹き込まれた数字に、思わず笑う。
「大きく出たな」
「覚悟見せろって言ったの、そっちじゃん」
耳の先が小さく忙しなく動き、尾も左右に揺れて落ち着かない。
「まあ任せて。2人で色んなとこ行ったし、師父はもっと色んなとこ見てきたんだろうけど。今まで見たことなかった景色、俺が見せてあげるから」
赤みを増す目元で、胸を張る。
南の海の小さな島で、私の長い生に突然降ってきた黒い仔猫。
あの日から生まれた多くの感情に、この名を持つものだけは存在しなかったはずだった。
それなのに。
私の手を取る大きな手を取り返し、艶っぽい長い指を掲げる。
「小黒」
早く、ここまで――私のところまで。
もたげた欲で無意識に引き寄せて、指の背に唇を押し当てる。
途端に、小黒の手が熱くなる。
「っ、も~~~~~~~~! ほんとさあ、それ! これは、師父が悪いからね!」
腕を引かれて、抱きしめられる。
長い腕、着痩せする厚みのある胸、高い体温。
視界がふさがり、日向の匂いに包まれた。
了.