業務後、書類の片付けをしていたルイの背中に何の前触れもなくツカサが告げた。
「次の休暇に、実家に帰省しようと思う」
それを聞いて、間を開けずにルイは答えた。
「そうですか。ごゆっくりどうぞ」
ルイはツカサの方を振り返るわけでもなく、淡々と書類整理を続けている。二人の間に訪れる沈黙に、今はもう気まずさはない。しかし、ルイの心の中は沈黙などでは到底なかった。
「(将校殿のご実家はここから列車で数時間ほどかかる都の方にあると聞いたことがある。となるとまとまった休暇を取る必要があるから、あと2週間後くらいになるか。その頃には業務も大方落ち着いてるだろうし普段の働きぶりを考えれば1週間はゆっくり出来るだろうな)」
そう考えながらもルイの手は止まらない。淡々と作業を続け次々に書類をファイリングしていくルイの背中をツカサはじっと見つめていた。何か言い出すか、と。
対してルイは、ツカサが1週間ほどここを留守にすることを考えていた。ツカサに会いに来る森の少女も寂しく思うだろうからなにかお菓子を用意して、業務は自分が肩代わりできるものはもちろんするが、ツカサが戻った時にスムーズに仕事が勧められるようにしなくては、とツカサの頼もしい部下としての思考がぐるぐると頭の中を巡る。先の先の先まで読んでまだ出発もしていないのに到着後のことまで考えてしまっているルイの優秀な頭脳が、突然ピタリと音を立てたように止まった。
「(………1週間、会えない…のか)」
とうとう気づいてしまったか、と自分のことながら他人行儀な感想が出る。
ここ数年、ルイがツカサと離れることなんてなかった。もちろんそれはツカサがルイの監視役であることもそうだが、それだけじゃない。ルイの意思でツカサのそばに居たいと思っていたから、それにツカサが嫌な顔ひとつせず、むしろ喜ばしいと受け入れてくれたから、二人はずっと一緒にいた。ツカサから与えられるひとつひとつが、ルイにとっては嬉しくて幸せで仕方ない。ツカサと共にあるだけでルイの心は満たされてしまっていると言っても過言ではなかった。
「(………寂しい、って、こういうことを言うのかな)」
それは、ルイにとっては慣れない感情だった。
物心ついた時から、類の両親はいないも同然だった。家にいることなんてほぼなくて、たまに帰ってきたと思ったらまだ幼いルイに、まだ居たのか、などと暴言を吐き、居座せてやってるんだから働きに出ろと暴力を奮った。食事はひとりで家の中や外を漁ってなんとかやり過ごす毎日だった。家にいてもまた痛いことをされるだけ。ルイは小さな体で街を歩いて大人に呼びかけた。どうか働かせてください、と満足に服すら与えられていないせいでボロボロの布切れをまとっただけの幼子が懇願しても、当然大人は働かせることなんて出来ない。
また戻るしかない、また痛いことをされちゃう、と泣きながら帰る毎日を過ごしていたある日、珍しく家に帰ってきていた両親が誰かと話しているのを目撃した。
『あんな奴いくらでももってってくれよ!』
『あぁ…こんなに……!しばらく遊んで暮らせるわね!』
見たことの無い大柄な男から両親が受け取ったスーツケースの中身は大量の札束だった。そして、帰ってきたルイを見つけた両親は言った。
『お前も少しは役に立ったな』
これはルイが、最初で最後に実の親から褒められた言葉だった。
それからすぐ、ルイはその大柄の男に連れ去られた。言わずもがなだが、この男こそルイの前主である大臣だ。ルイに抵抗するなんて選択肢はなかった。両親に褒められたのが嬉しかったのでは無い。ルイにとって両親はただの怖い人。ではなぜ嬉しかったのか。それは、初めて誰かに自分を見て貰えたような気がしたからだった。
幼いながらに自分が売られたことに気づいたルイは、首に繋いだ鎖を引っ張る男を見て、自分をわざわざ選んでルイという人間を買ってくれたのだと思った。それなら、両親よりよっぽど自分のことを大事にしてくれる人なんだ、と。
しかし、ルイの期待は到底叶えられることは無かった。暴力暴言なんでもござれ、一種の洗脳ともいえる教育はルイの元から賢かった頭を更に育て上げ、瞬く間に大臣に都合の良い優秀な人材へと成長した。そしてそれは、ルイの心を殺した。元からなかったようなものだと割り切って、ルイは一心不乱に大臣への忠誠を誓う人生を歩むことになったのだ。
そんな生活の中、まさか何かを寂しく思うなんてことは全くないわけで、寂しく思えるものすらなかったルイにとって、初めてそばにいて欲しいと願ったツカサの元から離れることは、想像以上の不安感をもたらしていた。
「(1週間……1週間って、7日…?7日も、会えない)」
机の上の書類はとっくに片付いていた。いつもならこの後は自室に戻って身支度を済ませて、ツカサと夕食をとったり出かけたり、部屋でのんびりしたり、それはもうルイにとって幸せな時間になるはずだった。それなのに、今日のルイはツカサの執務室から動けなかった。
当然、ツカサに直接「寂しいから行かないで欲しいです」なんて言う選択肢はルイにないし、ルイはツカサが頻繁に家族と連絡をとっているのを知っていた。余計に行かないでほしい、なんて言えない。だからいかにツカサのいない日々を耐えるかを考えなければならなかった。
「…………ルイ」
突っ立っているルイをしばらく監視していたツカサだが、明らかに様子のおかしい姿を見兼ねてようやく声をかけた。背中を向けているせいで表情はわからないが、その背中から哀愁が漂っているのが一目瞭然だ。ひとまず、顔を見るために席を立ったツカサはルイのそばまで寄ると自分よりも高い位置にある顔を覗き込む。いきなり出てきたツカサに驚いたのか、ルイの体が仰け反ったのを支えるように腰に腕を巻いて引き寄せた。
「ふっ…やはりそんな顔をさせてしまっていたか」
「は……」
「寂しい、と書いてあるな」
ここに、と頬を指先でなぞったツカサにルイは思わず顔が熱くなるのがわかった。可愛い奴だ、とそのまま抱き寄せられツカサの腕の中に誘われる。抗うこともしないまま、ルイはぽすりとその誘いに乗った。
「書いてませんよ」
「書いてあったぞ」
「そんなわけないじゃないですか。私のことは気にせずゆっくりしてきてください」
つっけんどんなルイの口調にもツカサは慣れている。そういうところも含めての可愛い奴だ、と思う気持ちが溢れて止まない。しかしこのままからかい続けてしまうと無理やり部屋から出ていってしまう可能性があるので、ひとまずツカサは自分の要件を伝えるため愛でるのは一旦辞めにした。
「あぁ、そのことなんだがな。お前も一緒に行かないか」
言葉で愛でるのは辞めても、体はやめていない。ルイの頭を撫でながらそう告げれば、ルイは何を言われたのか分からないと言わんばかりに口をぽかんと開けていた。その顔を見て思わず笑いそうになるが、さて何を言うかと黙って待っていれば、ルイは黙って頭を撫でられながらこう言った。
「………気でも、触れましたか」
「あぁ、よかった。いつも通りみたいだな」
ついに耐えきれず、ふっと笑みを零したツカサに、未だルイは目の前の人物が何を言っているのか理解できていない様子だ。
ツカサが今回、ルイと共に帰省したいと言い出したのは突然思いついたからなどではない。時を遡れば、あの事件があってから、世間からルイへの印象は犯罪者、裏切り者一択だった。ルイの生い立ちと大臣の元で行われていた仕打ちを調べあげルイの刑を軽くした第一人者であるツカサは、周りから何故そんなにルイに協力的なのかと不思議がられていたのも事実だ。そもそも、ルイの過去が世間に公表された訳では無い。何も知らない者からすれば、ツカサは犯罪者の肩を持っていると思われても仕方なかったし、あながち間違いでもなかった。今までの行いからツカサもまた裏切り者なのではないかと疑われることは無かったが、それでもその責任を背負いルイの監視役を買って出た身として、しばらくは不安定で抜け殻状態だったルイを支えるために、そしてルイへの行き過ぎた偏見を少しでも減らすために、この街から離れることも出来なかった。
当然、遠くにある実家に帰ることも無かったのだが、それもありツカサは以前より頻繁に家族と連絡を取りあうようになった。その中でルイの話も自然とすることが増え、周りに惚気など話すこともないツカサはいつの間にかルイの可愛らしさや好きなところを家族に話すようになっていき、それを聞いた家族はもちろん、こう言うようになる。“ルイに会いたい”、と。
ルイとはもうこの先の人生を共に過ごすことを決めているツカサとしては、いつかルイを大切な家族に紹介したいともずっと思っていて、ルイが再び認められつつあり、業務も比較的落ち着いてきたこの時期はまさにうってつけだと思ったのだ。
「無理にとは言わない。だが俺はルイにも是非俺の家族に会って欲しいと思っている」
「な、なんで…」
「人生を共にする相手は家族に紹介するべきだろう」
ツカサにそう告げられ、ルイは金色の瞳を丸く見開いた。何を言われたのか、聡明な頭の中でゆっくりと繰り返して、それでもわからなくて、何度も何度も繰り返して、ようやくストンと心の中にその言葉が落ちてきた時、ルイの瞳には涙が溢れていた。息が上手くできなくて、声を抑えることだって難しくなってしまいそうで、咄嗟にツカサに背を向ける。
ルイは今までの人生の中で何かを願うことなんてなかった。増してや、自分のことを願うなんて以ての外だった。けれど、ツカサと過ごすようになってルイの死んでいた心はだんだんと息を吹き返し、色付き、いつしかツカサの幸せを願うばかりではなく、ずっと一緒にいたいと願うようになっていたのだ。それを、ツカサも同じように思っていてくれたなんて、ルイにとってどれだけ嬉しいか、それはルイ自身の心も追いつけないほど。感情の制御が上手くできなくなってしまう。ツカサといると自分の知らない自分が沢山出てきて、ルイはそれが少しだけ怖くなる時があった。
「なんだ、泣くほど嬉しいか」
「ふ、っ…ぅ、うぅ……」
「……共に居てくれ、この先もずっと。どんなときも傍にいよう。俺がお前を守ってみせる」
背後から優しく抱きしめられ、ルイの涙腺はいよいよ崩壊した。どんな自分でも広い心で、優しい声で受け入れ愛してくれるツカサがいるなら、怖いものなんてないじゃないかとわかってしまった。こんなに感情に素直になって泣いたのは生まれて初めてかもしれない。みっともない。けれど嫌ではなくて、いつの間にか正面に回っていたツカサに涙を拭われるのがとても心地よかった。自分だって貴方を守ります、と、一緒にいてください、と伝えたいはずなのに喉から出るのは嗚咽だけだ。けれどそんな自分すらわかっていると言うように、ツカサの手が優しく背中を摩ってくれるから、ルイは少しだけ笑いながら、それでも泣いていた。
いつもはなんだか気恥ずかしくてツカサに背中を向けて背後から抱きしめられながら眠っているルイだが、その日の夜はツカサに向き合って正面から抱きしめられながら眠った。
✱✱✱
大きな荷物を持って旅行なんてルイには初めてだった。前日の夜まで何を持っていけばいいんだと頭を回していたルイに手を貸してやりながら、ツカサもどこか楽しげなルイの様子を見て嬉しく思っていた。
出発の日、エムやネネが見送りに行くと張り切って駅まで着いてきてくれて(ネネはエムが心配だから行くと言っていたが)、ルイがエムに手を引かれながらあちこちに連れていかれるのを後ろからネネと眺めていたツカサは、ルイの荷物も変わりに持ってやっているせいでとんだ大荷物である。
「持ってあげてもいいけど」
「これくらいどうということは……いや、そうだな。これを持ってもらえるか」
気を使ってくれたネネなりの優しさを有難く受け取ることにしたツカサは、家族へのお土産にと、道中で買った菓子の紙袋を持ってもらうことにした。
いよいよ列車が来て、エムとネネに別れを告げて乗り込む。ほぼあの街から出たことのなかったルイは初めての列車に目を輝かせていて、その様子はまるで幼子のようだった。何とも微笑ましいな、とルイを見守りつつ紅茶を片手にツカサも車窓からの景色を眺め、久しぶりの帰省に胸を躍らせた。
数時間の列車の旅の途中、ひとつも眠ることなく辺りを観察していたルイからしてみればあっという間だったらしい。まだ乗り足りなさそうなルイに帰りも乗れるから降りるぞ、と伝える。どうせ、わかっていますとあっさりした返事を返されると思ったら、「楽しみです」と頬を緩ませながら言われたので到着早々心を奪われてしまった。
「……すごい人です。ここが、都なんですね」
「あぁ。はぐれないようにな」
生憎荷物のせいで手が繋いでやれないのが残念だが、きょろきょろと辺りを見渡して色々なものに興味を惹かれつつも、きちんとツカサのあとをついてくるルイに再び愛おしさが溢れる。ルイが普通の人生を歩んでいたのなら、きっと幼い頃は好奇心が旺盛で見るもの全てに興味を示したのだろうと、もしかすると1人でどこかに行って迷子になっていたかもしれないと容易く想像ができ、余計に口元が緩む。迷子は勘弁だが、家に着いて落ち着いたら都を一緒に見て回ろうとツカサは決めた。
ツカサの実家までの道中、それまでルイは相変わらず興味深そうに景色を見ていたのだが、歩みを進める度にその様子が少しだけ落ち着かなくなってきているのにツカサは気づいた。
「どうした、なにかあったか?」
「……いえ」
ツカサが聞いてもひとこと空返事をするだけで答えはしない。どうするか、と少し悩んで、休憩がてら近くにあったカフェに入ることにした。ツカサが少し疲れたから、と言えばルイも何も言わずにあとについてくる。
ウェイターに席に案内され、注文を済ませてから少しもしないうちに運ばれてきたツカサのホットコーヒーと、ルイのクリームソーダ。空色の透き通ったサイダーの上にアイスクリームとさくらんぼがのったそれをメニュー表で見つけた時のルイの目の輝きをツカサは見逃さなかった。
「あまり眺めてばかりいると溶けてしまうぞ」
ジッとクリームソーダを見つめるルイの目にしゅわしゅわとはじける炭酸が反射して輝いているようだった。まだまだルイの見た事ない顔は沢山あるな、と今後の楽しみが増えたツカサはクリームソーダのストローに口をつけるルイを微笑ましげに見つめながらコーヒーを啜る。
「美味いか?」
「はい。また飲みたいです」
「まだ飲んでる最中だろう」
あまり感情を表に出すことの無いルイがたったひとつのクリームソーダでこんなにも嬉しそうにするのだから、あれもこれもとつい買い与えたくなってしまう。ツカサがケーキや料理も頼んでいいぞと言うが、ルイは首を横に振った。そして次はスプーンでアイスをすくって口に含むと、幸せそうに食べ始める。
ツカサが先程感じたルイの違和感も今は多少減ったが、それでもただでさえ慣れないことばかりで、これからはツカサの実家に泊まることになるのだ。少しでも不安は減らしておきたい。
「それでルイ、さっきはどうしたんだ」
「え…」
「今のうちに話せることは話しておけ。いくら俺の家族とは言っても、お前にとっては他人だ。そう簡単に気を許すことも出来ないだろうからな」
今なら二人きりだ、とツカサは周りに他の客とウェイターが居ないことを確認してそう告げた。ルイは迷ったように視線を彷徨わせたが、ツカサから話せと言わんばかりにジッと見つめられるのでぽつぽつと話し始める。
「緊張、しています」
「緊張?」
ルイは、参謀として人と接することはとても得意だ。相手を意のままに操り、罠にはめ、自分の思うように動かす。それがルイが今までやってきた他人とのコミュニケーションのとり方だった。しかし、参謀から“ルイ”になると何も出来なくなる。“ルイ”の成長は、大臣に買われたあの日のまま止まっているのだ。だからツカサにも上手く言葉が伝えられなくて冷たく当たってしまうこともあるし、森の少女達にだって話しかけられれば答えはするものの自分から話しかけることは滅多になかった。けれどそれは、裏を返せば参謀ではなく“ルイ”として接しようとしている証だ。そしてもちろん、参謀を“ルイ”として3人が見てくれている証だ。ツカサの家族にだって参謀として接しれば上手く立ち回れるのは間違いない。けれど、ルイの大事なツカサの家族だからこそ、ルイは“ルイ”として関わりたかった。
「もし上手くできなくて、将校殿のご家族に失礼を働いてしまったらと思うと、緊張します」
「ルイ……」
ルイのグラスを握る手に力が篭もる。カラン、と氷のなる音がした。
「そ、それに…。いくら将校殿が、ご家族に私のことを……えっと…。は、伴侶にすると、言ってくださっているのだとしても、やはり私が犯罪者であることは変わりありません。いくら会いたいと思って頂けているとはいえ、実際に会ったらやっぱり将校殿とは離れてくれと言われてしまうかもしれません」
そうなったら潔く自害しますのでご安心ください、と泣きそうになりながら言うルイに思わずツッコミそうになるツカサだが、ルイは本気なのだ。笑ってはいけない。
「色々と考えてくれたんだな。ありがとう、ルイ。しかし、気にする必要はない。会えばわかると思うが、俺の家族はその、俺から話を聞いているからな」
「……と、言いますと?」
「確かに俺は正直にルイのことは話している。しかしそれ以上にルイの愛おしさや可愛いところを語っているからな。あぁ、もちろん仕事ぶりや民のために貢献してくれていることも十分伝えているぞ」
表情を変えずにそう言い放ったツカサに、ルイは固まった。一体何をどこまで話しているのか全く想像がつかない。ツカサがルイのことを可愛いと言ってくる時は大抵ルイからしてみれば屈辱的なときだ。わざと可愛いと言われようとしたことなんてないのだから。ルイが不服そうに睨んでもツカサの表情は変わらない。カップを持ち、少しぬるくなったコーヒーを飲み干してこう言った。
「それに、この俺が選んだ相手だ。それに文句を言うような家族では無い。だから、俺を信用してくれ、ルイ」
ソーサーにカップを置いて、ルイに優しく微笑みかける。ツカサが時折見せるこの顔にルイは弱かった。どこまでもルイの心を優しく解してくれる。それに、ルイが何より誰より信用しているツカサのいうことだ。信じる他ないだろう。
「……そうですね。将校殿のようなお人好しのご家族なのですから。心配は無用だったかもしれません」
「あぁ、その調子だ」
ルイがクリームソーダを飲みきるのを見届け、そろそろ行くかとツカサは席を立った。ルイもその後に続いて、やはり緊張はするものの、先程までの不安感はなくなっていた。
✱✱✱
「……これが、将校殿のご実家ですか?」
「あぁ、そうだ」
普段過ごしている館までとはいかなくとも、それに匹敵するほどの大きさの建物がルイの目の前にそびえ立っている。実はツカサは名家の御曹子だったりするのかと疑ってしまうほどだ。しかし、よくよく周りを見てみればこの周辺に建つ家は立派な家ばかりで、都だとこれが普通なのかとルイは無理やり自分を納得させた。
「さぁ、中に入ってくれ。今日は家族全員でお前を迎えるって張り切ってたからな」
「!そ、そうですか」
門を開いたツカサの後に続き、扉へ続く道を通って玄関に向かう。庭には花壇があり、綺麗に咲いている色とりどりの花を見ればきちんと手入れされているのがわかる。その花壇の横にはパラソルのついたテラスセットも設置されており、ルイにはまるで絵本の中の世界に思えた。
そんなことを考えていると扉の前まで着いていて、ルイは深く深呼吸をする。ドキドキと高鳴る胸の鼓動は落ち着かないけれど、逃げるわけにも行かないし逃げたくもない。ツカサは後ろにいるルイの様子を少し確認してから、懐かしい我が家の扉をゆっくりと開いた。
「ただいま」
ツカサがそう言った次の瞬間、どたどたと家の中から足音が聞こえてきた。それはどんどんこちらに近づいてきていて、それから数秒もしないうちに溌剌とした明るい声が辺りに響いた。
「お兄ちゃん!!おかえりなさい!!」
お兄ちゃん、と呼んでいるということはツカサの話にもよく出てくる妹のサキさんかとルイは予想する。たしか、ツカサよりも4つほど歳が下で、ルイの2つ上だったか。サキは久しぶりの兄との再開にとても喜んでいるようで、しっぽをぶんぶんと振っているようにも見える姿に思わずルイは驚いた。本当に兄妹か、と。
「久しぶりだな、サキ。元気だったか?」
「うん!最後にお兄ちゃんに会ってから今までもずっと元気!」
「そうか。よかった」
頭を撫でられ、そんな歳じゃないよと言いつつも嬉しそうなサキが、途端にきょろきょろと何かを探している。そして、ツカサよりも何歩も後ろにいたルイを見つけた瞬間、サキの顔は更に輝きを増した。靴を履いてツカサを横切りルイの元へ一直線に駆けていく。
「わぁ〜!あなたがルイさん!?背高くてかっこいい!それに綺麗だし、あとあと〜!」
「あ、えっ、と」
「あ、ごめんなさい!アタシ、サキって言います!お兄ちゃん…ツカサの妹です!」
やっと会えて嬉しい、とサキはルイの周りをくるくるとまわっていた。それに困惑していれば、家の中からまた声が聞こえてくる。
「ツカサおかえりなさい!ルイくんは!?ルイくん!」
「ルイくんが来たか!」
久しぶりに会った息子そっちのけでルイに向かっていく両親に苦笑しつつ、こうなるのも大方予想出来ていたツカサはしばらく黙ってその様子を見つめていた。
「まぁ!本当に背が高くてスラッとしてて…!綺麗な子ね!」
「長旅で疲れただろう!さぁ、中に入りなさい!」
「ルイさんのために美味しいものたっくさん用意したんですよ〜!」
半ば強引に引っ張られるようにして家の中に連れていかれるルイの後ろを、代わりに荷物を持ってやりながらツカサも続いた。
家の中に入り、ツカサの家族がルイを案内したのはダイニングだった。そこにあるテーブルにはところせましと皿が並べられていて、ひと目見てわかるが彩りと言える野菜のたぐいは一切見当たらない。
「ルイくんが野菜苦手だってツカサから聞いてたから野菜抜きでお料理頑張ったの〜!」
「アタシも手伝ったんですよ!お口に合うといいけど…」
さすがに甘やかしすぎだろう、と自分のことは棚に上げて思うツカサがルイを見れば、テーブルの前で唖然としながら並べられた料理を眺めていた。
「ルイくん?どうかしたかしら…」
「もしかして苦手な料理ばかりでしたか!?」
「無理しなくていいんだ!苦手なら他のものを、」
ルイの様子を見たツカサの家族たちが心配して声をかけると、ルイは俯いてしまう。それを見て更にワナワナと慌てる家族たちの合間を縫って、ようやくツカサはルイに声をかけた。
「ルイ、どうした?」
ツカサが顔を覗き込めば、ルイの瞳いっぱいに涙が溜まっていて今にもこぼれ落ちてしまいそうだった。ここにはルイよりも背が高い人物はいない。心配でツカサの真似をしてルイの顔を見た家族たちはもう大騒ぎである。どうしたの、大丈夫、何が嫌だった、ごめんね、なんて次々に飛び交う言葉を、ルイは声を抑えながら首を横に振りただ溢れる涙を拭っている。このルイを、ツカサは見たことがあった。
「……そうか。嬉しいんだな、ルイは」
ルイに人生を共にする、と伝えた時。ただ涙を零して言葉を紡ぐことのできていなかったルイは最初その泣き顔を隠そうとしていた。どうやらルイの癖らしい。涙は悲しい時だけでなく、嬉しくて泣くことも人にはあるのだと、だから隠さなくてもいいのだとルイにこれから先沢山伝えていかなければならない。それでも今は、不器用でありながら最上級の喜びを表してくれているルイを安心させてやることが優先だとツカサはルイの頭を撫でた。
「お兄ちゃん、ルイさん嬉しいって、ほんと…?」
「あぁ、そうだよ。な?ルイ」
ツカサに優しくそう問いかけられ、ルイは頷いた。泣いてばかりではいけない、とわかっているのに、涙が止まらなかった。まさかこんなにも、あたたかく迎え入れて貰えるなんて思ってもいなかったのだ。
本来、家族という組織は誰しも一番最初に安心して帰るべき場所になる。無条件に受け入れてもらえることができ、心も体も安心出来るものであるべきだ。しかしルイにはその経験がない。何か成果を上げなければ、役に立たなければ、誰かに受けいれてもらえることなんてありえないと思っていた。ツカサと一番最初に出会ったのだって、参謀役としてだった。人を騙すことでしか誰かの懐には入れないと思っていた。それが今、“ルイ”というひとりの人間としてなんの後ろめたさもなく関わりを持とうと思った人たちが、優しさだけを溢れさせて受け入れてくれている。こんなにあたたかな場所があるのかと、ルイの心はまた知らないものに触れた。
「泣くほど喜んでくれたのね、ルイくん…」
「そんなに好物があったか!!遠慮せず食べてくれ!」
少しズレた解釈をされているが、ルイは何も言わずに涙を拭って顔を上げた。上手くできるかはわからないが精一杯の笑顔を返すつもりで、頬を緩めた。
「ありがとうございます。いただきます」
ルイのその顔を見て、ツカサも顔が綻んだ。色々と不安はあったものの、連れてきてよかったと、この時ようやく思えたのだった。
✱✱✱
翌日、ルイはツカサの部屋のベッドの上で目を覚ました。来客用の寝室もあるようだが、ツカサに俺の部屋でいいだろうと言われ素直に従った。ルイもそうしたかったから。
昨日はルイの歓迎会といって夜までツカサの家族たちと楽しく過ごし、長旅の疲労もあってかルイよりも後に風呂に行ったツカサを待つことが出来ず寝落ちしてしまったようだ。隣を見れば未だに寝息を立てているツカサがいる。時計を見れば平日であれば起きる時間ではあるが、せっかくの実家なのだし、ゆっくりしていてもらおうと声をかけることはせずルイはそっとベッドから下りた。
とは言っても、ここはツカサの家。勝手なことをする訳にも行かず、ひとまずお手洗いだけ借りてもう一度ツカサの部屋に戻ろうとしたその時、廊下でツカサの母親と出会った。
「あら、おはようルイくん」
「おはようございます。えっと…昨日はありがとうございました」
「私も楽しかったからいいのよ〜。あ!それより、朝食は何がいいかしら?何が食べたい?」
ルイの偏食を気にしてくれているのだろう、ツカサの母親は昨日からルイの好きな食べ物をよく聞いてくれていた。甘やかされているな、と思いつつも、もし自分があたたかな家庭で生まれていたらこんな風に母親とも話すことがあったのかなとも考えてしまう。
「ありがとうございます。それより、必要であればお手伝いします。足でまといでしたら断っていただいて構いません、邪魔をしたい訳では無いので」
ルイの口振りからは、自然と自分を卑下しているように感じる時がある。自分は必要とされないことが当たり前かのように、そしてそれを自分で気づけていないところに、ツカサの母親はツカサから聞いているルイの過去が垣間見えて胸が痛むのだ。母親からの愛され方を知らないのなら、本当の母親になんてなれはしないけれど、自分が少しでも代わりになれたらなんて思ってしまう。
「そんなことないよ、ルイくん。手伝ってくれると助かるわ。そうだ、ツカサの好物でも一緒に作りましょうか!ルイくんが作ってくれたって知ったら、きっとツカサも喜ぶわよ」
背伸びをして頭を撫でれば、ルイはびくりと身体を震わせて一歩後ずさろうとしたが、思い直したのかほんのりと顔を赤くしながら、控えめにではあるものの自ら頭を差し出してきた。
「(ルイくん…!!!!!かわいい……!!!)」
甘えベタなところも含めて可愛い。こんなところを見てしまうと、ツカサが惚れたのもわかってしまう。
最初、ツカサからルイの話を聞いた時はそれはもう驚いた。新しい町の将校になる、と言って家を出たツカサは就任早々に事件に巻き込まれ、その犯人こそこの目の前にいるルイその人なのだ。ツカサともう一人の森の少女のおかげで事件は解決したと聞いたあと、しばらくしてツカサから届いた手紙にはルイが部下になったと書いてあった。そしてさらにしばらくしたあと、ルイが恋人になったと書いてあった。一体何が起きてるんだと思い、一度息子に手を出した犯罪者とそんな関係になるなんて、と思わなかったわけじゃない。ツカサの父とも話し合った。けれど、ツカサからルイの生い立ちを聞いて、改めて部下になったあとのルイの功績を聞いて、そして何よりツカサがどれだけルイのことを思っているのかが直接会わなくとも十分に伝わってきて、そんな思いを否定してまで自分たちがその関係を反対するわけにはいかないと判断をした。
「じゃあキッチンに行きましょうか、ルイくん」
「はい…。ありがとうございます」
どこか嬉しそうに自分のあとをついてくるルイに笑みがこぼれる。これからも仲良くしていけそうだと、安心してかわいい義理の息子と二人で朝食を作るのだった。
しばらくして、出来上がった料理を見てルイは感動した。ものの数十分でこんなに美味しそうな料理を完成させる手際の良さに、自分も器用な方ではあるという自覚があるルイでも母親という存在は偉大なのだと思った。
「ルイくんが手伝ってくれたおかげでいつもより早くできちゃった!ありがとね、ルイくん」
「わ、私はなにも」
「そんなことないわ!苦手な野菜もツカサのために頑張って切ったり盛り付けたりしてくれたじゃない!」
偉いね、と褒められてルイはまたむず痒くなった。ツカサにも褒められることは沢山あるが、ツカサの母親に褒められるとそれとはまた違った感じがする。明らかに初めての感情にルイはまた戸惑っていた。けれど嫌なんかではなくて、むしろもっと褒めて欲しいとも思ってしまう。
「ルイ、ここにいたんだな。姿が見えないから心配した」
「おはようございます、将校殿。申し訳ございません、昨夜は先に眠ってしまいました」
「疲れていただろう、よく眠れたようで安心した」
おはよう、と母親にも挨拶をしたツカサはテーブルに並んでいる料理を見て腹をならした。幼い頃から好きだった母親の手料理が並んでいて実家に帰ってきたことをより実感する。
「美味しそうでしょう?ルイくんも手伝ってくれたのよ!」
「ルイが?」
ツカサがルイを見れば、照れくさそうに目を逸らされた。館では食堂があって料理を手作りする機会はほとんどない。もちろんルイの手料理なんて食べたことは無かった。
「もし気分を害してしまったらすみません、私が手伝ったせいで将校殿の好みの味付けになっていないのだとしたら、」
「そんなことはない。ありがとう、ルイ。一緒に食べよう」
ツカサはルイの手を掴んで席に座らせた。すると、数分もしないうちにサキが起きてきてツカサの父親も起きてくる。ルイくんが手伝ってくれた、と嬉しそうに報告するツカサの母親に、これまた嬉しそうに目を輝かせる二人を見てルイは照れくさくもありつつ、やはり心を大きく支配したのは喜びだった。
いただきます、とみんなで挨拶をしてから料理を口に運ぶみんなを見てドキドキしたルイだったが、美味しいと口を揃えて言われて安心した。何より、ツカサに美味しいと言って貰えたことがとても嬉しかった。作り方は覚えたし、ツカサの母親と同じ味にはまだならなくても館に帰ってからは時々自分が作ってみようかな、なんて思ってしまうくらいにルイは喜びを感じた。
「ルイくんも立派なうちの家族だな!」
「そうね〜、私たちのこともお父さんお母さんって呼んでいいのよ?」
「!」
そう言われて、ルイは思わず目を見開いた。ルイにとっては遠い昔の記憶、実の両親にもそう呼んでまともに返事をして貰えたことはあまりなかった気がする。お父さんお母さんなんて呼び慣れていなさすぎて、けれど、心のどこかでずっと憧れていたのかもしれない。名前を呼んで、名前を呼ばれ、手を繋いで貰ったり、頭を撫でてもらったり、甘えてみたり。自分でも気づかないようにしていた思いに、たった一日一緒に過ごしただけで気付かされてしまう。それほど、この家族はあたたかかった。
だが、本当の息子でもないのにそんな呼び方をするなんて畏れ多い。でも、呼んでみたい。どうしよう、とルイは無意識のうちにツカサの方を見た。目が合えば、あの優しげな笑みを向けられる。気づけば家族全員からそんな目で見られていて、この人たちは本当に自分を受け入れてくれているんだと改めて実感してしまった。
呼んでみようか、どうしようか、少し照れくさいけど、でも。
「お、お父様、お母様…?」
少し堅苦しい呼び方ではあるが、ルイにとっては精一杯だった。慣れない呼び名に戸惑うその様子は、ツカサの父と母に始めて我が子が自分のことをお父さんお母さんと呼んでくれた時の感情を思い起こさせ、愛おしさのあまり叫んでしまいそうになっていた。
「かわいいなぁルイくん…!!」
「おかあさま、ですって…!もう本当に…!!もう一回頼めるかしら!」
何度も呼ばせそうになっている両親を宥めつつ、ツカサはルイの作ってくれた料理を楽しんだのだった。
それからの数日間はあっという間に過ぎていった。サキの所属しているという都の音楽隊の演奏を聴きに行ったり、大きな百貨店に行ってみたり、ツカサが小さい頃遊んだ公園に行ったり、ツカサの通っていた学校に行ってみたり、テンマ家お気に入りのお店にご飯を食べに行ったり、おうちでのんびりしたり。ルイにとってももちろんそうだが、ルイのいる家族との時間はツカサにとっても新鮮な時間だった。
「明日帰ってしまうんだな」
「あぁ。今回はいつもよりあっという間だった」
最後の夜、ツカサは父親と二人で晩酌をしていた。バルコニーにある椅子とテーブルはツカサの幼い頃から使っているものだが、未だに現役なところを見ると物持ちの良さがわかる。ルイはといえば、サキに連れられて何やらお話中らしい。最愛の妹と恋人が仲良くなってくれたことがツカサも嬉しかった。
「ルイくんかわいいな」
「可愛いぞ」
「母さんの方が可愛いがな!」
「……そうか」
いつまでも母にベタ惚れな父は酒を飲む度に惚気話を聞かせてくる。もう慣れたことだが、今はツカサにも愛すべき存在がいるのだ。対抗する訳では無くとも、ルイの可愛さを誰かに話すのも悪くないな、なんて自分の酔い方も父親にそっくりになってきていることに気が付かないまま二人は惚気話に盛りあがった。
─── 一方その頃、サキの部屋では。
「ルイさんって綺麗系だけど、可愛いのも似合うと思うんです!」
「え?えっと…?」
「例えばこれ!この前買ったねこちゃんカチューシャ!付けてみてください!」
そう言ってサキが出してきたのはその名の通り猫の耳がついたカチューシャだった。自分に可愛いが似合うわけが無いと信じて疑わないルイは抵抗感しか無かったが、サキのキラキラとした純粋な期待の目を見るとノーとは言いづらい。
彼女の溌剌とした明るい性格はエムを思わせる。ツカサがエムの扱いが上手いのは面倒見がいいからだと思っていたが、幼い頃からサキと共にに過ごしていたからという理由もあるのだと感じた。それに、自分なんかにも物怖じせずに裏のない言葉と感情をぶつけてくれるサキは、上手く話せはしなくてもルイにとって信用に値する人物だ。サキのコミュニケーション能力もあって、そして歳が近いのもあり、ここ一週間でサキとルイの仲は深まった。そんなサキからのお願いに、ルイは応えるほかない。
「わぁ〜!ルイさんかわいい!やっぱり似合ってる!」
「そうですか…?」
「うんうん!そうだ!お兄ちゃんにも見せに行こう!」
「え!?」
勢いのままルイはサキに手を引かれ部屋を飛び出していく。こんな姿ツカサに見られたら何を言われるか分からない。180も超えた男が猫耳なんて、普通だったら引かれるに決まっている。いくらツカサがルイに可愛いと伝えることが多々あるとは言え、さすがに猫耳はツカサでも引くに違いない。取ってしまおうかとも思ったが、それだとサキの期待を裏切ってしまう。それでサキが悲しむなら自分がツカサにこの醜態を晒して後悔した方がいいかと腹を括った。
「お兄ちゃんみてみて!ルイさんかわいいでしょ!」
サキがバルコニーへと続く扉を開けてそう告げれば、ツカサと隣にいた父と、たまたまおつまみを運んでいた母が三人とも振り返った。まさかの勢揃いにルイの羞恥も一気に強まる。サキの後ろに隠れるように後ずさるが、ルイほどの身長があってサキの後ろになど隠れられる訳もなく。
「あら〜!ルイくん本当にかわいいわ!」
「猫耳か!似合ってるな!」
呆気なくその姿をさらしたルイだが、お世辞だとしても引かれなくてよかったと安堵する。しかし問題のツカサの声が何も聞こえない。伏せていた顔を上げてツカサを見ると、バチッと目が合った。何も言わずにただルイを見つめているツカサの顔はいつもよりも酒のせいなのか赤くなっている。弱い訳ではなく、むしろ強い方のツカサが赤くなるまで飲むなんて、実家という安心感から来ているのだろうかと考えていれば、ツカサが椅子から立ち上がり真っ直ぐルイの元へ向かってきた。
「し、将校殿…?」
無言でじっと見つめられる。やはり変だっただろうかとルイがカチューシャを外そうとするより前に、ツカサの手がルイの頭に伸びた。そしてそのまま、頭を撫でられる。ぽかんとするルイの腰を反対の手で抱き寄せ、距離を縮めた。
「可愛いな。……とても可愛いぞ、ルイ」
大層甘ったるい声でそう言われたと思ったら、そのまま唇にキスをされた。一瞬何をされたのか理解出来なかったルイだが、わかった瞬間本物の猫のような機敏な動きでツカサの腕の中からピャッと抜け出す。
「な、なにを…!皆さんがみてる前で……!」
「ルイが可愛くて」
「何を言ってるんです!!」
「お前が可愛いからな」
どうやら相当酔っているらしい。それもそのはず、惚気話が酒の肴となりいつもよりペースを上げて飲んでいたツカサは実家ということもあり更に気が緩んでいた。自分がつまみにされていることなど知らないルイは、ツカサの家族の前で飛んだ恥をかかされたことに怒っている。ルイが可愛いしか言わなくなったツカサが再びルイに近づこうとするのを、サキが立ち塞がった。
「お兄ちゃん!気持ちはわかるけどルイさん困ってるよ!!確かに可愛いけどだめだよ!」
「サキ……。そうか、わかった」
わかればいいよ、とサキはルイの前から退いた。まさかサキにツカサから守られるとは思っておらず唖然していたルイだが、お礼を言ってからカチューシャは外した。サキに返そうとしたのだが、サキはそれを受け取らない。
「それあげます!ルイさん、本当に似合ってましたから!」
「……………」
貰っても困ります、とは言えず、ルイはただお礼を言うことしか出来なかったのだった。
結局その後は最後の夜なのもあって全員で晩酌(ルイはノンアルで)をしたのだった。
「はぁ、少し飲み過ぎたな」
「えぇ、貴方は本当に」
寝る準備を済ませ、ツカサの部屋に戻り二人はすぐベッドに入った。明日の出発に向け寝る前に軽くまとめられたルイの荷物の中には先程の猫耳カチューシャもしっかりと収まってしまっている。
「機嫌を治してくれ、ルイ」
「別にもう怒ってませんよ」
「ならこっちを向いてくれ」
「いつもこの体勢じゃないですか」
「今日はこっちを見てほしい気分なんだ」
いつもはそんなこと言わずに後ろから抱きしめてくるツカサだが、酒のせいなのか、それとも帰るのが少し寂しいなんて思っているルイの心の内を見透かしているのか。後者ではありませんように、と祈りながらルイは大人しくツカサの言うことに従った。
「あのカチューシャ、帰ったらつけてくれ」
「また怒らせたいのですか?」
「可愛いものはまた見たいだろう」
そう言ってルイの頭を撫でるツカサの手に擦り寄りそうになる。そんなことをしたらますます猫だなんて言われてしまうと、ルイは我慢した。ツカサはしばらく黙って撫で続け、暗い部屋に沈黙が流れる。頭を撫でる手が心地よくて、このまま眠ってしまいそうだと思っていたところでツカサが口を開いた。
「どうだった、ルイ。俺の家族は」
「……とても、素晴らしい方々だと思いました。このご家族があっての将校殿なんだと」
ルイにとってこの7日間はとても新鮮なことだらけだった。初めて触れた家族のあたたかさ。ツカサはこんな家庭で育ったのだと思うと、自分まで幸せな気持ちになった。願わくば、自分もこんな家族に恵まれていたらなんて少しも思わなかった訳では無いけれど、それでもツカサの家族がくれたあたたかさはルイには十分すぎる幸福で、ツカサと出会えただけでもルイにとっては幸運な事だったのに、またまた大切な人が増えてしまった。
「そうか。またいつでも会いに来よう。帰ったら直ぐにまたルイに会わせろと連絡が来るに違いないからな」
「ふふ…そうでしょうか?」
「あぁ、絶対だ。賭けてもいい」
今までなら、そんな事あるわけないと、むしろもう顔も見たくないと言われるかもしれない、と思っていただろう。けれどあの人達ならそう言ってくれるかもしれないな、なんて思えるようになってしまった。誰かに期待をする、それは勇気のいることだ。それができるようになったルイはまたひとつ成長することが出来た。
「今度はこちらにお呼びするのはいかがでしょうか」
「それもいいな。サキも喜ぶだろう」
「エムさんとも気が合いそうですしね」
「間違いないな」
ふたりが話しているのを想像するだけで思わず笑いが込み上げてしまう。やはり今度はこちらに呼ぼう、と決めたツカサはルイの表情が出発前よりもはるかに晴れやかになっていることに安堵した。
ルイの生い立ちから、家族というものにトラウマや嫌悪感があるのではないかと思っていたが、どうやら杞憂だったようでツカサの想像の何倍もルイは自分の家族と上手く付き合ってくれた。上手く関われるかわからない、なんて不安げに言っていたのが嘘のようだ。
「……ツカサさん」
「どうした?」
ルイが名前で呼ぶ時は、少し甘えてみたいと思っている時だったりする。努めて優しい声で返事をすれば、ルイは迷ったように視線を泳がせてから、ゆっくりと自らツカサの腕の中に潜り込んだ。胸にぴたりと額をくっつけてるので、ツカサからルイの顔は全く見えなくなってしまう。そして、ここが寝室で、静かな場所でなければ聞こえないような小さな声でルイは言った。
「ありがとうございます。私は本当に、ツカサさんに出会えて幸せです。こんなに幸せでいいのかと、怖くなるくらい」
「いいに決まっているだろう。俺が幸せにすると誓ったのだから」
間髪入れずにそう言えば、返事をする代わりにルイはツカサの服をきゅ、と握った。ツカサもルイを抱きしめる力を強くする。しばらくそうして抱きしめていれば、ルイがわずかに顔を上げた。ツカサがそちらを見れば、ルイの目が濡れていることが分かる。何度泣かせてしまうんだろうな、と微笑みながらその涙を拭ってやろうとしたその時、唇に一瞬、触れるだけのキスをされた。
時が止まったようだった。ツカサは思わず目を見開く。しかしそれに目もくれず、ルイは再びツカサに抱きついた。
「だいすきです、つかささん」
おやすみなさい、とルイは寝た。
「………………………………いや寝かすか、ルイ、起きろ」
「………………」
ツカサが声をかけてもルイは微動だにしない。ツカサは自分の顔が熱くなっているのを嫌でも自覚した。それもそのはず、ルイからキスを貰えたのが初めてだったのだ。今まで頼んだことが無いわけではなかった。けれどルイは、自分にはそんな資格は無いと断り続けていた。それが、大好きなんて言葉付きでもらえるなんて。
「お前な……。あぁ、本当に……」
愛おしくてたまらない。自分の愛をしっかりと受けとろうとしてくれるルイが、それをルイなりに返そうとしてくれていることが。
「俺も愛しているぞ、ルイ」
寝ているルイの髪にキスを落とした。まだまだ寝ることなんて出来なさそうだが、おやすみと呟いてからはツカサも何も言わなかった。お互いの体温がそばにあって、同じ幸せを分かち合えている。そんな時間に、二人は心ゆくまで浸って朝まで少しも離れることなく、やがて眠りにつくのだった。