心に巣食う祖母が息を引き取りました。
微笑みながら、どこか待ち焦がれたように。
大好きな祖母は、眠りにつきました。
祖母の影響で英雄譚が好きでした。読んだ本の感想を話し合う時間が好きでした。ひと通り話終わると、祖母は決まって「この人にはこんなところもあったのよ」なんて、まるでその英雄に会ったことがあるように言います。そんなお茶目なところが好きでした。
認知症が進むにつれ、祖母は現代から神代まで、様々な英雄と旅をしたと言うようになりました。母がはいはいと話半分に聞いている横で、熱心にその話を聞いていたのを覚えています。
祖母は私と二人きりになると、必ず恋バナと言って1人の男性の話をしました。祖父ではないその男性の話を、祖母は愛おしげに、それはそれは大事そうにしました。どんな時でも強い意志を持って前を見据える目が、この時だけは右手の甲を見つめ伏し目がちになります。ぽつりぽつりと話す祖母の、時折震える長いまつ毛を眺めるのが好きでした。
祖母の旅はどうやらとても危険だったようです。怪我はもちろん、死にかけたことも多々あったと笑いながら話してくれました。私がムッとして、死にかけたことを笑い話になんてしないで、と言うと、祖母は少し驚いたあと、目を細めながら困ったように笑うのです。
祖母の旅には誰もが知っているビッグネームから、聞き慣れない異国の神様まで、それはもう沢山の人物が登場します。
語られる旅はどれも歴史や神話の人物をランダムで選び、その全員を特定の場所に無理やり押し込んだような人物構成でした。あまりにジャンルがまぜこぜで混乱している私を見て、祖母はびっくりするでしょ?と悪戯っ子のように笑いました。
全ての冒険譚を聞きましたが、どうやら語られた英雄たちの中に恋バナの男性はいないようでした。
ただ、ある時から語られる内容に少し変化がありました。大怪我をしたなどの穏やかでない話は相変わらずでしたが、その度に説教をする人物が現れたようです。
怪我の度に怒られ、無茶をしようものならものすごい剣幕で怒鳴られたそうです。祖母が意地になって言い返した時には、それはもう派手な喧嘩をして数日口を利かなかったこともあったとか。
そんな話を楽しげにする祖母を見て気付きました。
この男性なのだ。
死線をくぐり抜け、およそ常人では成し得ない旅を終えられたのは。祖母を生かしてくれたのは。
恋バナの男性のおかげなのだ、と。
祖母は最期までその人の名前を教えてはくれませんでした。
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その人は祖母の墓前にいました。
黒のスーツに深い藍色のロングコートを羽織った、背の高い男性でした。
「あの、突然すみません。失礼ですが、はじめちゃん、ですか…?」
初対面にも関わらず、不思議と不安はありませんでした。こう聞くのが正解というような感覚さえあったと思います。
男性はこちらをチラリと見て、待っていたというふうにへらりと表情を崩しました。
「あんらぁ、僕のこと知ってるの?」
「いえ、知っているというか、なんというか」
私の不明瞭な回答に"はじめちゃん"はそっか、と短く返して祖母の墓に向き直りました。
「立香ちゃんとは古い知り合いでね。彼女が君くらいの歳の頃に散々世話焼かされちゃってさぁ」
立香、というのは祖母の名前です。
祖母が私くらいの歳ということは七十年も前の話になります。三十代半ばに見える彼が、その頃の祖母を知っていることに何故か違和感はありませんでした。
「最期はどんなだった?」
「家族に見守られながら、眠るように」
「うん、うん…」
満足気に頷く彼と並んで墓石を見つめながら、心の中で祖母に謝罪しました。恐らく祖母は今から伝えることを"はじめちゃん"には知られたくないように思ったからです。
「……祖母は」
「うん?」
「貴方の名前を呟いて息を引き取りました」
祖母の枕元に縋る私にしか聞こえない、消え入るような声でした。
息を呑む音と同時に、目を瞑って墓前に手を合わせました。
彼が話し出すまで私は暗闇を見つめていました。祖母のことを想って浮かべる表情を、私が見るべきではないと思ったからです。
「大事な女だったんだよ」
あまり長くはない沈黙のあと、彼はそう言いました。
お孫さんにこんなこと言うのもなんだがね、と付け加えながら。
どれほど、と答えられるほど分かってはいません。それでも、とても想い合っているのは分かりました。大事にし合っていることが分かりました。
祖母の切なげな表情も、墓前の"はじめちゃん"の姿も。
羨ましいと思えるほどの熱を持っていました。
「祖母のこと忘れないでくださいね。私が死んでも、ずっと」
認知症で私のことも忘れてしまった祖母の心に最後までいた人。少しだけ嫉妬を込めた、これくらいの可愛いわがままは許されるはずです。
そんなわがままを聞いた途端、彼は心底可笑しいというようにからからと笑いました。
「忘れたくても心に巣食って消えないんだわ」
拝み終わると彼は音も立てずに去ったようでした。
隣を見ると午後の強い陽が目に染みました。私より随分と背の高い彼のお陰で、直射日光に当たらずに済んでいたようです。
夢を見ていたような気分でした。しかし、陽にやられた目の痛みが、確かに彼がいた証拠でした。
「やっぱり恥ずかしかった?だけどずっと覚えてくれてた人には知っていて欲しいでしょ。貴方を忘れずに想ってましたって」
恐らく今頃顔を真っ赤にしていると思います。つい名前を呼んだのバラすなんて!って。
掃除道具をまとめながらまた来るねと祖母に伝え、妙にすっきりとした気持ちで墓前をあとにしました。
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「私たちが救った世界も、歩んだ軌跡も、私のことも。どうか忘れないで」
縋るような願い。
「それだけで私はこれからも頑張れるから」
彼女が日常に戻る直前、僕がカルデアを去る直前、約束した願い。
「頼まれても忘れてなんかやらんさ」