卒業写真残業、残業、残業。
先輩からのお小言。お客様からのクレーム。
毎日降り積もる、目に見えない何か。
私、何のために働いているんだろう。
誰もいない更衣室でふう、とため息を吐いた。
ロッカーに脱いだ制服を掛け、のろのろと駅への道を歩く。
繁華街は人で溢れていて、私が家へ帰るのを妨げる。
早く帰ってただ眠りたい。何も考えないでひたすら。
階段を上がったら改札まであと少し。すれ違う人の波に飲まれて、なかなか辿り着けない。
目線の先に、人並みからぴょこりと飛び出したものが目に入った。
(竹刀だ……)
男性の背負った荷物から、紺色の竹刀袋が飛び出しているのだった。
「懐かしいな……」
竹刀から、それを背負った人に目線を落とす。
「……!! 鯉……登くん?」
褐色の肌に整った顔立ちと高い背丈。それから特徴的な眉。間違えようがない。
振り返って一歩、踏み出そうとすると、逆流する私に人がぶつかってくる。
視線の先の彼の口が開くのが見えた。
「……!」
なんと言ったのか聞き取れないけれど、左手を高く上げて、流れの先に走っていく背中が見えた。
人並みを越えた先で、彼が誰かの元に駆け寄っている。
「月……島くんだ」
彼が辿り着いた先で、スマホに視線を落として無表情だった坊主頭の男がにっこりと笑っているのが見えた。
肩から下ろした竹刀と胴着の入っているであろう大きな鞄をさり気なく右手で持つと、左手で彼の手をそっと握る。
二人がほんの数秒見つめ合ってから手を繋いで歩いていく背中を、人並みの対岸から見送った。
「鯉登くん、そんな顔出来るんだ……」
私はのろのろとまた人の流れに乗った。
その流れに流されるままに電車に乗り、車窓を流れるぼんやりと薄暗がりに浮かんだ葉桜の並木を眺め、いつも通り最寄り駅のホームに降り立ち、家までの道のりをよろよろと歩いた。
灯りの付いていない玄関を開け、誰もいない暗い部屋の電燈を灯す。
「ただいまぁ……」
誰が応えるわけでもないけれど、帰宅の挨拶をし、へなへなとリビングの床に座り込む。
ベランダへ通じる壁に置いてあるカラーボックスに手を伸ばし、一番下の段でうっすら埃を被った茶色の冊子を引き抜いた。
そっと手のひらで埃を払って、金色に光る文字を撫でる。
重みのある表紙を開き、パラパラとつやのある頁をめくる。
目的のページには、さっき見たのと変わらない顔で一ミリも笑うことなく、紺色の胴着と袴に身を包み腕組みをした彼が写っていた。
「……っふふ。全然、変わってない――」
――嘘。変わってた。
隣のページには、駅で彼が駆け寄った相手が、岩みたいな体を真白い柔道着に隠して道場の床に正座している。
真ん中で部員に囲まれてほんの少し口角を上げて……。
――さっきは、二人とも、幸せそうに笑ってた――
女子は次の頁。
私も紺色の胴着を着て、仲間と肩を組んで笑ってる。
頁をめくって行くと、修学旅行のスナップ写真が出てきた。
新幹線の中、旅館の食事、見学の時の写真。
「あ……!」
街中を歩いている時の写真の一枚、端の方に、彼らが写っている。
人影になって見えにくい上に、解像度の低い写真でぼやけてるけど。
よく見たら、そっと、手を繋いでた。
さっきみたい。
鯉登くんとは同じ剣道部だった。
学校内外を問わず、絶えず誰かに告白されていた気がする。
ご多分に漏れず私だって鯉登くんのことが好きだった。
背が高くて、カッコよくて、頭だってよくて。
剣道も強かった。最初にみた時、こんな完璧な人が存在するんだって、びっくりした。
同じ学年で嬉しかった。同じ剣道部で、同じ時間同じ空気を吸えるのが嬉しかった。
打ち込み稽古の相手をしてもらえるの、嬉しかった。
だけど、同じ部活内は恋愛禁止。もちろん部内でこっそり付き合っている先輩とかもいたけれど。
鯉登くんに関しては暗黙の了解で抜け駆け禁止だった。
だから、いつも鯉登くんが誰かに告白されているのを見かけるたび、心臓が苦しかった。
その後で鯉登くんが断ったと小耳に挟むとほっとしてた。
いつも彼のことを目で追いかけてた。
だから、本当は知ってた。
鯉登くんが、いつも、月島くんのことを見てること。
だって、同じくらい私も鯉登くんのこと見てたから。
鯉登くんの制汗剤のキャップがオレンジになった時、クラスの女子も部活の女子も死にそうになってた。
でも、本当は、あれ、月島くんと交換したって私、気がついてた。
だって、月島くんのやつ、ミントグリーンのキャップになってたし。
それを見て、鯉登くんがふふって笑ってたのも知ってる。
だって、私だって、鯉登くんの事が好きだったんだもん。
だけど、告白なんてできなかった。
そんな勇気なかった。
同じ部活の友達と、今日もかっこいいねとか、今日はちょっと話できたとか、そんなこと言って盛り上がるのが楽しかったんだ。
振られるって分かってて告白したあと、また部活で顔合わせるなんてしんどいことできなかった。
「良かったね、鯉登くん……」
そう口にしたら、ぽろりと涙が一粒零れ落ちた。
二人が東京に進学したとは風の噂で聞いていた。
あの時嬉しそうに手を上げた鯉登くんの左手に、銀色に光るものがあったのが見えた。
そうか。
やっぱりそうだったんだな。
茶色の表紙をそっと閉じて立ち上がると押入れに頭を突っ込んだ。
奥のさらに奥の方に仕舞い込んだそれを取り出し、居ても立ってもいられない気持ちで外に飛び出した。
近くの公園までダッシュして、手にした袋から竹刀を取り出す。
久しぶりに握る竹刀の感触が懐かしかった。
「イチ! ニー! サン! シー!」
掛け声を上げては早素振りをする。
靴が滑ってやりにくい。基本動作を繰り返してみる。
みるみるうちに、額から汗が噴き出てはあはあと息が上がってしまった。
「はぁ……何年も動いてなかったから……。しんどいいい」
近くのベンチまでへろへろとたどり着くとへたり込んだ。
「んふふふ。やっぱり、楽しいな……」
竹刀をにぎって久しぶりの運動にすでに悲鳴を上げる体を摩っていると、目の前に自転車がぎいっと音を立てて止まった。
「あーー、君かな? こんな時間に公園で竹刀を振ってたのは?」
自転車に乗っていたのは、なんとお巡りさんだった。
「あ……はい。私です」
「だめだよこんな時間に大声出して竹刀振ったら。通報されちゃうよ」
苦笑いのお巡りさんに注意されてしまった。どうやら通報されたらしい。
「スミマセン……」
よく見たら、若そうなお巡りさんだった。
「なんでこんな時間に素振りしてたの?」
お巡りさんは怪訝そうな顔で質問してきた。これってもしかして職務質問ってやつだろうか。
「ああ、その。実は、今日、失恋したんです。ははは……」
私が半笑いでそう応えると、お巡りさんはびっくりして目を丸くしていた。
「ああ、そうなの……。そっか、それは竹刀くらい振りたくなるね」
「スミマセン、その人、高校の時以来久しぶりに見かけたんですけど、恋人連れてて。はは。それで、思い出して、竹刀を」
そう話してるうちにまた涙がじわりと滲んで鼻がツンとなった。
ズビッと鼻を啜ると、お巡りさんがそっとポケットからティッシュを取り出して私にくれた。
「あ〜、俺、公園の先の派出所に勤務してるんだけど、良かったら道場……紹介しようか?」
「え?」
「公園で振るよりいいでしょ? 通報されないし。地図あげるから、派出所まで一緒に行こうか」
お巡りさんは自転車に乗ったまま、にっと笑った。
私は、そうですねぇ、なんて答えながら、竹刀を持って立ち上がった。
鯉登くん、良かったね。お幸せにね。
駅で見た二人の幸せそうな姿を思い出して、ちょっと胸が温かくなった。
それから、私はお巡りさんがゆっくり引いていく自転車を後ろから付いていったのだった。
――この二人が、同じ道場に通いながら、仲良くなっていくのは、また、違うおはなしー