彼の人物について(仮タイトル) 石油ランプの灯る文机の前で、鯉登は一人、万年筆を握っていた。ペラリと紙の綴りを一つめくり、ぶつぶつ唱えながら書きつけていく。
例の戦闘行為が中央に対する謀反ではなく露國パルチザンの攻撃による五稜郭および函館の防衛のための出撃であったと結論づけられ、ようやく連隊内が落ち着きを取り戻したころ。
鯉登も月島もやっと中央の追求の手から逃れ、通常通りの日々を取り戻しつつあった。
停年進級の時期を控え、鶴見中尉の抜けた穴は埋まらぬまま、鯉登は小隊長として、自分の小隊の考課表を作成するため自宅の文机を前に所属の人員に付いて一人一人、評定を記入していた。
考課表には入隊からの成績やそれまでの上司からの考課が至極完結に記されている。それらを読み返しながら、あの一等卒の良いところ、この二等卒のこれからに付いて書き連ねる。
鯉登が小隊長として預かるのはわずかな人数だが、わずかであるからこそ細かく書いて評定を良くしてやりたかった。彼らは皆、金塊争奪戦にかろうじて生き残った部下だ。中尉を信奉して最後まで従ってくれた彼らになんとかして報いたい。ゆっくり時間を掛けて記載をしてゆき、そして最後にたどり着いた考課表が月島基のものだった。
氏名 月島 基
第二十七連隊 歩兵軍曹 本籍地 新潟県佐渡
1、性質 生真面目が過ギル事アリ 体格頑強ニシテ他の追随ヲ許サズ
2、勤務態度 熱心二指導シ善ク内務班ヲマトメ部下ヨリ慕ワルル。情二厚ク面倒見ヨシ。
3、露語二精通シ其ノ能力得難シ
4、義務心厚ク品行二一分ノ問題ナシ
5、事務処理能力高ク特務曹長二推挙スル二価ヒスル人物ナリ
調整官 陸軍少尉 鯉登音之進
判定官 淀川中佐殿
***
「鯉登少尉はこの考課で良いのか」
兵舎二階の士官室で、鯉登が渡した考課表の一番上をぱらりと捲った淀川中佐が、軍帽を手に不動の姿勢の鯉登の表情を見るべくチラリと視線を送ったが、鯉登はまっすぐ立ったまま淀川と視線を合わせることもなかった。
蛇腹折の考課表をパタリと閉じ其の上に分厚い掌を置く。
鯉登は微動だにせず「はい」と返事をした。
「月島には特務曹長に進級してこれまで以上に連隊の人員を把握してもらう必要があります」
月島が特務曹長に進級したらその階級で停年を迎えるだろう。あいつを下士官が望みうる最も高い地位へ持っていく。
特務曹長は内務班の人事を掌握する、謂わば兵卒のトップだ。実戦や内務班で細かく指導を行うのが軍曹であれば、特務曹長は一段階上のまとめ役だ。月島は本人の認識とは別に面倒見が良い。特務曹長は月島にぴったりの職責だと思う。特務曹長になっても今のように部下たちに目を掛けてやる姿が目に浮かぶようだった。月島の面子の相手をしてやるのは、私くらいかもしれないが……。
ふふ、と思わず鼻から息が漏れると、淀川中佐が怪訝な顔でこちらを見上げた。コホン、と一つ咳払いをして姿勢を正すと淀川は鯉登に退出を促すように手を振る。
「分かった。全員分目を通して提出しよう」
「は、ありがとうございます」
鯉登は敬礼して踵を返し士官室を後にした。
下士官室の外廊下に秋の夕陽が長い影を落としていた。間も無くここ旭川に冬がやってくる。進級が決まるのは旭川に雪が積もる頃だ。
***
一二月、正式に進級が通知されると鯉登は営外にある将校用居住地の端に空いていた小さな平屋建てを借りることにした。
第二十七連隊の建物までは少し歩かねばならなかったが、その家は比較的新しく、前に借りていたのは家族持ちの将校だったらしい。居室が三室ありペチカがあるというのがこの家に決める決定打になった。
樺太で世話になった燈台守の夫妻は息災だろうか。暖かいペチカと、一緒に囲んだ食卓が思い出され懐かしい気持ちになる。
「フクースナ、だったか……」
月島が教えてくれた「美味しい」というロシア語を唱えてみると、不思議と心が温かくなるような心地がした。
「あいつにとっては内務班の賑やかな生活のほうが楽しいだろうか……」
先日来購入し、営内から持ち込んだ荷物の横に置かれた木箱が視界に入った。
「いや、らしくないな……。泣こかい跳ぼかい、泣こよかひっ跳べ、じゃ」
あぐらのまま、後ろに体を倒し畳に頭が着地すると、入居にあたって新しく張り替えた畳が青く強く香った。
ゴロリとそのまま姿勢を崩し体を横たえると視線のさきに先ほどの揃いの木箱が見える。
その時ドンドンと玄関扉が叩かれる音がした。
「月島、参りました」
部屋まで突き抜けて聞こえる声に畳から体を飛び起こして玄関の扉を開けると冷気が一気に部屋に入り込む。
「今日はお招き頂きありがとうございます」
「よく来た。上がってくれ。今日は祝杯だ」
「良い住まいですね。ああ、外から煙突が見えましたがペチカがあるのですか。今年の冬は暖かく過ごせますね」
冬の匂いを纏った男が、部屋の中を見廻している。居間に入ると外套を脱ぎ、座布団にきっちりと体を揃えて座った。
「中尉進級、誠におめでとうございます」と指を揃えて深々と頭を下げる。
「月島も、特務曹長への進級おめでとう。さあ、盃を取れ」
月島が手にした盃に酒器から澄んだ液体を注いでやる。
二人、盃を手に黙礼を交わし、盃を傾ける。
二杯、三杯。
特に何を話す訳ではなかったが、盃を傾ける月島はいつもより機嫌が良いように見えた。
鯉登は立ち上がると荷物の隣に鎮座する木箱の一つを、月島の前に進めた。
「……? なんですかこれは。箱膳……?」
「そう。なあ月島、お前特務曹長になって営外にでらるっだろう?」
「はあ、そうですねえ」
「その、誰かと所帯を持つつもりはあるのか?」
ぶはあ、と目前の月島が飲みかけた酒を口から吐き出した。
「ごほ、ごほ、う」
「だ、大丈夫か?」
慌てて駆け寄り背中を叩いてやる。
「いえ、大変失礼しました」
手拭いで畳に溢れた酒を拭くと、真新しい青が一段濃く染まった。月島は改めて膝を揃えると、手拭いを握る鯉登の前で姿勢を正して座り直した。
「私は所帯を持つつもりはありません」
そう言って手にした盃を再びぐい、と傾けた。
「そうか……。なあ、月島。お前、兵舎を出てここで私と暮らさないか」
ぶはあ、と再び月島の口から酒が畳にぶち撒けられると、新しい染みが畳に広がっていく。
「キエエエ!! おい、月島! 畳を変えたばかりだぞ! 不敬にも程があるわ!」
月島のゴホゴホと咳き込む音と、鯉登の猿叫が将校官舎の一室にこだました。
一九〇x年一二月二十三日 その日は連日の寒さがほんの少し和らいだ一日だった。