「おっ邪魔っしまーす!」
「ゆっくりしていってください。大したお構いも出来ませんが」
ここ数日で恒例となったやりとりを経て、悠仁は伊地知の部屋へと上がり込んだ。当初は世代も話題も合わない伊地知とぎこちない距離感の悠仁だったが、持ち前の人懐っこさに加えて、伊地知の外回りについて行った際に交わした会話をきっかけにすっかり打ち解けていた。
地下室に籠っていては気分が滅入ってしまうでしょう、と伊地知が気を利かせこっそりと出かけることも、伊地知の自宅に招かれることも増え、今ではすっかり寛げる場所の一つである。
最近では伊地知が気を使って悠仁が好きそうなお菓子が置いてあったりする。まさに至れり尽くせりだ。
悠仁が伊地知に促されて洗面所で手を洗いダイニングに向かうと、やかんが火にかけられ茶菓子が用意されていた。
「これ前に俺が好きだって言ったやつ!」
椅子の背に手をかけ、座りもせずにケーキをつまんで頬張る悠仁に伊地知は苦笑した。
「虎杖君、座ってゆっくり食べてください。ケーキは逃げませんから」
過酷で陰惨な呪術界に深く関わっていると、年相応に無邪気なところを見せる悠仁は伊地知には少し眩しい。過酷な運命を背負ってしまった彼だが、どうか今だけは安らいでいてほしい。そんな気持ちから注意を悠仁に向けていた伊地知は、玄関が開錠される音に気付かなかった。
「やっほー! 潔高元気かー!」
突如玄関から躍り込んできた人影は迷うことなくそのままの勢いでひしっと抱き着いた。目前に立っていた人物に向かって、背後から。
「あれ、なんか抱き心地が違う……いつもよりがっしりしてる……?」
抱き着いた女性は首を傾げながら両手で抱き着いた人物をまさぐった。そして視線を正面に移す。
「ええ!? 目の前に潔高がいる!! じゃあ君だれ!? 潔高の分身!?」
「おネエさんこそだれ!? あとオレが伊地知さんの分身なの!?」
突然乱入してきた女性に抱きしめられたまま悠仁は困惑の声をあげた。
呆気にとられて見ているだけだった伊地知は、とても面倒な事態に陥ったことを理解して深い溜息をついた。
先ほどまでのしみじみした感情はすっかり霧消していた。
「いやー、ごめんごめん。まさか潔高が男子学生を自宅に連れ込んでると思わなくて」
「言い方!」
伊地知が淹れたばかりのコーヒーを置きながら、すかさず突っ込んだ。コーヒーとケーキを三人分用意した伊地知はテーブルにつきながら「虎杖君、こちらが私の、こ、恋人の夢さんです。呪術師ですね。夢主さん、こちらが私が訳あって匿ってる虎杖君です」と簡単に二人を紹介した。
「改めて初めましてだね。潔高の恋人で2級術師やってる夢って言います。よろしくね」
ひと騒動終え、伊地知に促され悠仁と夢はテーブルについていた。家主であるはずの伊地知は、恋人相手でも悠仁がいるからか居心地が悪そうにしている。そんな見慣れない伊地知の様子に悠仁は興味津々だ。
「マジで伊地知さんのカノジョさんなんだ! めっちゃ美人さんじゃん! 伊地知さんヤルじゃん!」
「え、いや、そんな」
「へへっ、ありがと」
戸惑う伊地知と対照的に夢は余裕の表情だ。悠仁は居住まいを正して呪術師相手ならば伝わるであろう渾身のネタを盛り込んで自己紹介した。
「初めまして! 宿儺の器やってる虎杖悠仁です!」
伊地知は落ち着くために飲もうとしていたコーヒーを吹き出した。
「あ、やべ、オレ、死んだことになってるんだった。ごめん伊地知さん……」
「……いえ、お二人が遭遇した時点である程度の暴露は覚悟してましたから。まさか初っ端から直球で宣言するとは思いませんでしたが……」
こめかみを抑える伊地知に夢はケラケラと笑いながら得心したように頷いた。
「あー、君が噂の虎杖君かー。色々と納得いったかも。宿儺の器が見つかったって報告から、その器が死んだって報告までが異常に短かったからキナ臭いとは思ってたんだけど、まさかこんな面白い子だったとは」
「夢さん、この件はくれぐれも内密に……」
「うん、解ってる。詳細は分からないけど虎杖君のためなんだよね?」
「ええ。説明出来ないのは心苦しいですのが……」
神妙な顔で言葉を交わす二人に、悠仁はおずおずと口をはさんだ。
「あの~~……、もしかして、オレのことで二人の間に隠し事が出来ちゃったり、してる? というかオレ、実はお邪魔虫?」
その言葉に伊地知と夢は顔を見合わせた。二人の仲の亀裂になることを危惧しているのだろうか。夢は安心させるように微笑んだ。
「虎杖君がそんなこと気にしなくていいんだよ。呪術師なんて話せないようなことのほうが多いし。それに、私たちは隠し事の一つや二つでぐらつくような間柄じゃないしね」
そう言い切った夢の言葉に、伊地知の頬に朱がさしたのが虎杖には分かった。
「ついでに言うなら私が無理やり乱入したようなもんだし」
「……したようなものというか乱入そのものでしたよね。私の今日のシフトは自宅勤務になっていたはずですけど夢さんはどうしてこちらに?」
「それだよ! 潔高がだよ? 多少の体調不良じゃ休もうとしない潔高が自宅勤務にしてるってことは、出勤できないほど体調が悪いけど仕事は溜まってるから、休みつつ自宅で仕事するつもりなんだって思ったんだよね」
だから看病しに来た、と続けた夢に伊地知は天を仰いだ。
「偽装が完璧に裏目に……」
「まあ、そんな深読みすんの私くらいだと思うけどね。体調悪いんじゃなくて良かったよ」
「愛されてんなー、伊地知さん!」
悠仁の茶々に伊地知はまたもや顔を赤くさせた。
夢はそれに気づいたのか茶化すように悠仁に顔を寄せる。
「本当だよ。なのに男子学生連れ込んでるんだもんなー。もし潔高が別に若い女の子をここに連れ込んでたりしてたら虎杖君、必ず教えてね」
「し、しませんよ、そんなこと! 私は夢さん、ひ、一筋、です、から……」
言うだけ言って耳まで真っ赤になった伊地知はばっと立ち上がった。
「わ、私は仕事があるのでこれで失礼します!」
残っていたコーヒーを煽り、そのまま自室に逃げ込んだ。
「意外だなー! 伊地知さんもああいうこと言うんだ!」
伊地知が消えた部屋の扉を眺めながら悠仁が感心したように言った。普段の控えめながらてきぱきと仕事をこなす伊地知からは想像が出来ない姿だ。
「可愛いでしょ」
「……オレ、女の人の可愛いって感覚、理解出来ないんだよなー。なあ夢さん、伊地知さんとの馴れ初めってどんな?」
「よろしい。ならば話しましょう。あれは10年ほど前の話……」
「そんな遡んの!?」
ケーキをつつきながら悠仁と夢は伊地知の話で大いに盛り上がった。
「ただいま戻りました」
「お帰りー」
夕食を終え、虎杖を車で送ってきた伊地知が自宅に戻ると夢が洗い終わった食器を片付けているところだった。
「すみません、洗い物に片付けまで」
「いいのいいの。それより虎杖君のこと、ちゃんと送ってきた?」
「ええ。……その虎杖君のことなんですが……」
「大丈夫。誰にも話さないよ。私からも聞かない。それでいいでしょ?」
「すみません……」
「謝らなくていいのに。いや寧ろ悪いのどう考えても私じゃない?」
潔高は最初から誰にも知られないようにしてたもんね、と夢が続けると伊地知は更に項垂れた。暗くなった雰囲気を払拭するように夢は明るい声をあげる。
「私も協力は出来ないけどさ。潔高の周りで怪しんでるような人がいたら、〝最近、潔高は男子学生を自宅に連れ込んでるみたいです〟って誤魔化しとくから」
「どれだけそれでイジるんですか……! 本当に言いふらさないでくださいよ? なまじ事実なだけにタチが悪い……」
ははは、と夢が笑うとうんざりした様子ではあったが伊地知の表情から暗さが消えた。やがて気分が変わったのか意を決して口を開いた。
「夢さん」
「改まってなに?」
「……だ、抱き締めてもいいですか……?」
「え、い、いいけど何で急に?」
「……夢さんは私が虎杖君を連れ込んでるように言いますけど、……夢さんだって虎杖君のこと抱き締めてましたよね……?」
弱々しい言葉尻とはうらはらに、伊地知の視線はじっと夢を伺うようだった。
もしかして、これは。
「え、ヤキモチ?」
「……………………はい」
夢は思わず伊地知に飛びついていた。細身だが貧弱ではない伊地知は、タタラを踏んだもののなんとか堪える。そして夢の背中に両腕を回ししっかりと抱き締めた。
「あーー可愛いなあー! 可愛いなあー! 本当に可愛いーー!」
胸の中に収まった夢が何度も可愛いと連呼するため伊地知は茹で蛸のようになっている。
「もしかしてずーっとヤキモチやいてた?」
「……目の前で他の男の子に恋人が抱きついてるの見せられて、面白い訳ありませんよね……」
「ふふ、ごめんね」
「もう、本当に気をつけてくださいよ?」
叱るような言葉だったが、その口ぶりはとても優しくて夢が目を閉じると、そっと触れるだけのキスが降ってきた。