金魚の鉢 何らかの良からぬ気配を感じて目覚めた瞬間、なぜか虫取り網を持った榎木津が腰に手を当てて見下ろしていた。よくないことに非番の朝である。
「釣りにいくゾ!」
「馬鹿、お前のそれは虫取り網だ。目が細かすぎて水が逃げにくいだろう?」
起き上がって欠伸一つ溢し、浮かんだ涙を瞬きで散らす。
「手頃な網がこれしかなかったんだ!」
「釣りに行くなら網じゃなくて竿と糸持ってこい」
「竿?」
ちらりと下を見て態とらしく首を傾げる榎木津につられ、視線を落とせば軽く褌を持ち上げている朝の整理現象を意識させられ木場はチッと鋭く舌打ちをした。
「朝から元気だな、木場修。釣りは辞めて今日はしっぽり布団の中で過ごすか?」
にやりと口角を引き上げる榎木津にさらにもう一つ舌打ちをして木場は煎餅布団から起き上がった。
「うっせぇ、その竿じゃねぇよ。仕度するから待っとけ」
硬い短髪をガシガシと掻いて榎木津の横をすり抜け再び欠伸を溢しながら階段を降りる。だが待ての出来ない榎木津が続いて階段を降りてくるに至り、再び木場は舌打ちをした。
結局榎木津は厠の扉の前でだけどうにか押し留めて待てをさせたがあとは木場が洗面台の前で髭を当たり、再び部屋へ戻って短パンに開襟という気の抜けた普段着に着替えるまで半ばぴったりと傍を離れなかった。
「暑苦しいぞ、馬鹿探偵」
着替えを終えるとこれから出かけるのではなかったのか首元に抱きついてきて頰に接吻を受ける。
「おい」
「んふふ、おはようのキッスだ」
どうにも浮かれている。しかしそれも仕方ないのかも知れない。今日は木場の三ヶ月振りのまともな休みだ。榎木津と顔を合わせたのも三ヶ月振りである。
木場はつるりとした額に手をやり、榎木津を引き剥がした。
「釣りに行くんじゃねぇのか?」
「そうだ。釣りだ。町田くんだりだ!」
どうやら釣りは釣りでも渓流や海ではなく、釣堀らしい。榎木津が木場の下宿へ乗り付けた車で遥々町田まで小一時間のドライブとなった。
「今日日、釣堀じゃあ金魚まで釣らせることにしたのか?」
長閑な釣堀、いさま屋を訪れ開口一番問いかけた木場に主の伊佐間一成は肯定なのか否定なのか判断のつきがたい頷きを一つ返した。
「金魚鉢の金魚じゃ大して釣果を得られないじゃないか、食うんじゃなくて観賞用だろウ?」
貸し出し用の釣竿を勝手に選び始めた榎木津がめずらしくまともなことを言う。伊佐間はと言えばやはり肯定も否定も告げず、軽く頷くような仕種を見せたあと榎木津と木場を交互に見やり、ようやく口を開いた。
「釣るの?」
「ん、ああ、そっちの釣堀の方でな」
「だから、金魚は釣らないと言っただろう? 木場修、僕はコレにするぞ!」
撓りの良さそうな一竿を手に榎木津が客のいない釣堀へと踏み込んでいく。
「勝負だ、木場修!」
榎木津が手にしているのは糸を張ってある釣竿だけだ。餌も釣った魚を入れる盥も持たずに早速、椅子代わりの丸太にどかりと腰を下ろす。
「餌!」
まさか針に餌をつけるところから人にやらせて釣りをしようなどというわけではあるまいなと木場が眉間に皺をよせれば、その心情を読んだように伊佐間が餌の沙蚕の蠢いている箱を差しだした。
「うん」
なにがどう、うんなのか解らないが木場も同じく頷いて必要な一式を借り受け、榎木津の隣へとずかずか歩みよった。
「うん、仲良しだな…………」
呟く声は二人には届かず風に乗って消えたが傍らのあでやかな鉢で游ぐ金魚には聴こえたものか、ひらりと翻った尾が僅かに水面を叩く音立てた。それに応えて伊佐間はまた一つ頷いた。
「にしても、あのただの琉金を游がせとくには勿体ないような金魚鉢だな」
釣れる様子のない糸を垂らしたまま振り返って入り口近くに無造作に置かれた赤絵の鉢を木場が見やる。
「無粋な豆腐男にしては見る目があるな。あれは柿右衛門だ。恐らくは初代。好事家に売れば家が建つかもな」
「家だ? 本当にそこまでの代物か? そんなもんをあんなところに置いて割れたらどうする」
「どうもしないだろう? そんなことより釣りだ! どうしていっぴきも釣れないんダ!」
忙しなく竿を動かす榎木津に堀の魚は迷惑そうにすいっと奥へ逃げていくらしい。勝負だと言われれば受けて立とうという気持ちにもなったが長閑に糸を垂らしているとそれもどうでもよくなってくる。煙草を咥え、燐寸で火をつけ一口呑んだ。ふぅとゆっくり紫煙を吐けば、傍らから長い腕が伸びてきて吸い止しの煙草を榎木津が奪っていく。
「おい、いつもいつも人の煙草をくすねてくンじゃねえよ」
文句を言い立てれば口角を引き上げてクフフとおかしな笑い声を立てる。
「木場修の味がする。キッスがしたくなるナ!」
いくら客がないとはいえ、伊佐間が見ているか定かではないぼんやりさではあるが後ろに控えているのだ。されては堪らないと木場はもう一本煙草を出して周章てて火を点けた。
「ふふ、よし! 今夜は隣の宿に一泊だ!」
「馬鹿言え。帰ぇるに決まってんだろ?」
「たまには旅館でしっぽりするのも悪くないじゃないか」
ぐふ、と再び奇声を上げる榎木津に木場はため息を一つ溢した。
「馬鹿、知り合いの宿で出来るか。てめぇの馬鹿事務所にしとけ、馬鹿探偵」
「んふふ、なんだ、修ちゃんもヤル気じゃナイか!」
嬉しそうな人形面が破顔し、揚げ足を取られたことに気付いて一瞬、悔しさが滲むが何しろ三ヶ月振りの逢瀬だ。その肌が恋しくなかったかと言えば嘘になる。
ぐっと木場が黙れば不意に榎木津が上体を傾がせた。
「おい」
周章てて体を退くが遅い。吸い止しの煙草を再び奪われ、くちびるが重なって紫煙を吹き込まれた。
「ん、…………ゴホッ、ゲホッ!」
「愛煙家のくせに煙に咽せるな」
「…………うるせぇよ、伊佐間が見てンだろ?」
後ろを振り返ってちらりと確認すればちょうど新たな客が訪れたところで伊佐間の顔はそちらを向いていた。
「ほう、こりゃぁ」
声の大きな客だ。
「釣堀で金魚の観賞とはなかなか面白い趣向じゃないかい」
ふむふむと矯めつ眇めつ金魚に見入っている。
いや、あれは金魚を見ているわけではないようだ。榎木津に言わせればあの金魚鉢は木場でも知っている有名な窯元のン百万はするたいそうなものであるらしい。実際のところは不明だが、あながち出任せでもないだろう。木場の目にもあでやかな赤絵の鉢は地の白の透き通るような滑らかさも菊花らしい可憐な花の花弁一片ひとひらが目を見張る美しきものとして映った。それに見知らぬ客も目を奪われているのだろう。
「いやぁ、眼福眼福。可愛いい金魚だ」
にこやかに伊佐間へ話しかけ、ちらりと金魚へ視線を流す。
「どうだい、この金魚、譲ってはもらえないかい? 釣堀で金魚とはまた粋だ。うん、そうだな、器がなくっちゃ金魚も可哀想だ、この器もそれなりによさそうだ。器ごとで千円、いや、二千円だそう。いいだろう、主人?」
流暢に話をまとめていく見知らぬ客を伊佐間はじっと見つめている。例によって是とも非とも告げず、放っておけば数千円の端金で家一軒の器を持っていかれそうである。
「やい、そこの人!」
釣竿を投げ出し、威勢よく榎木津が立ち上がった。
「あ、おい!」
木場は周章てて釣竿を掴み、堀に浮かぶ定めを回避させる。しかしそんな些事には目もくれず、榎木津は大股で客と伊佐間のもとへとずかずか歩いていく。
「さっきから聴いていれば欲しいのは金魚じゃなくてその鉢のほうじゃないか! 鉢が欲しいなら鉢が欲しいとドウして言わない!!」
多少、論点がずれていなくもないがずいっと勢い良く客に詰めよる榎木津の襟首を出来猫を抓む要領で軽く引き戻す。危うく体当たりを喰らわせるところだ。
「な、なんだ、あんたは」
「僕は神だ! 探偵だ!」
それでは初対面の相手に通じるはずがない。
「あんたが視てるのは金魚じゃなくて鉢だ! 赤絵の小菊に釘付けだ! これが欲しいなら二千円なんてみみっちいことを言ってないでその二百万をポーンと払え!」
どこの札束だと木場は肩を竦めるが言われた男の方は急に顔を赤く染めて怒鳴り返してきた。
「カネのことをどうして知ってる? 貴様ッ、どこの回しモンだッ!」
唾を飛ばす剣幕に呆気に取られていれば榎木津が左目を眇める。
「そのデカイ金庫に奉ってあるジャナイか。三百万なら鉢ごと譲ってやる!」
「断るッ! あれは次の取引のためのカネだッ!」
何の商売か知らないが羽振りの良い話だ。そう木場は暢気に聴いていたが榎木津が急に気色ばんで再び男に詰めよった。
「あんたそれは……、だるまオースチンじゃないか!」
だるまとはダットサンを造っている日産自動車が英国の自動車会社と共同で生産している新型車両のことだ。榎木津自身次はその辺りの購入を狙っているのかもしれない。大金絡みで何か事件の匂いでもするかと思えばそんなことかと今日ここまでドライブしてきた壊れかけの本物か怪しいダットサンに目を向ける。
「買うのかっ? 買ったのかっ?」
大きな瞳をきらきらとさせながら見開き、接吻でもしそうな勢いで客の男の顔を覗き込んだ榎木津の襟首を再び掴んで引き離す。
「こ、これから買うンだ! なんで、それを……!」
目を白黒させている男に木場はうんざりしながら変人の戯言だと告げて榎木津を背後に腕一本で投げ飛ばした。
「こら! 木場修! 何をするッ!」
「うるせぇ! てめぇがいると話がややこしくなんだよ!」
くるりと回転して何の乱れもなく着地した榎木津が文句をがなり立てるがそれを切って捨て木場は客の男に向き直った。
「金魚が欲しけりゃ持ってけ泥棒! 鉢にゃ、それなりのカネを揃えてもらわなけりゃ売れねぇぜ、旦那」
ふん、と鼻息荒く告げれば悔しそうに客は言い返す。
「じゃ、じゃあ、何だってこんなとこで無造作に高値の器を金魚鉢になんぞ使ってるンだ!」
「そんなもん、てめぇ……」
どうにもどこかで聴いたような話だと僅か木場が言い淀む。そこへ空かさず榎木津が叫んだ。
「タダの金魚が数千円に化けるからダ!」
「それでほんとのとこはどうしてここで金魚なんぞ、飼ってンだ?」
釣堀の親爺が客と一緒になって釣り糸を垂らしているのもどうかというところだが、金魚に車に羽振りが良い癖に吝嗇な客もすごすご帰り再び客は榎木津と木場の二人だけとなっている。主人も釣りに興じたとて障りはない。
「うん」
返事しかしない伊佐間に木場は苦笑を噛む。榎木津にもこれといった来歴は見えていないのか興味がないだけか欠伸をしていてなにも言わない。さほど構うことでもないかと釣り糸の先を眺めればようやく伊佐間が口を開いた。
「……縁日でいらないって」
つまりは金魚すくいはしてみたものの飼うつもりはないと誰かから貰い受けてきたということか。
「そンじゃあ器は?」
「…………あったから」
「高ぇ器らしいから盗難にゃあ気をつけろよ」
再び伊佐間は一つ頷き、水面へと目を向ける。
「お! かかった!」
伊佐間と木場のあいだで退屈そうにしていた榎木津がガタリと立ち上がった。そしてブンと竿を撓らせ餌に食いついた魚を釣り上げる。釣り糸を手繰って引きよせればそこにはピチピチと跳ねる、立派な和金の姿があった。
「釣ったじゃねぇか、金魚」
了