中庭の種++ ++
「消すかい?」
フィガロの声音はいつも通りだった。捨て去るようでもなく、丁寧過ぎることもなく、さりげないままだ。
「消す?」
アーサーはその意味がつかめず、言われたまま訊ね返した。
「うん。患者さんにね、気持ちを消してくれって頼まれたことが何度かあったんだ」
「消すとどうなるのですか?」
「忘れるよ。綺麗に」
「気持ちを?」
「そう。消してあげると、みんな、楽になったとかすっきりしたとか言ってくれてたよ。消すのもそう難しくないし、痛くも辛くもないしね。だけど」
フィガロは薬棚からいくつかの瓶を取り出すとテーブルの上に並べていった。
「少し、記憶は変えなくちゃいけない」
「記憶……」
「うん。特に恋愛絡みだとね。記憶がそのままだと思い出してまた好きになっちゃって、結局繰り返しになるんだよ」
アーサーは先ほどから窓の外を眺めている。庭で鍛錬に励む騎士がその視線の先にいた。
「記憶を、なくすわけには」
「そうかい?」
「ええ……あんなに尽くしてくれていることを忘れるわけにはいきません」
「彼には彼の目的があるんだと思うよ。アーサーがそこまですべてを受け止める必要はないんじゃない?」
アーサーの視線が揺れる。フィガロはそれから目をそらすように薬棚に振り返り、もうひとつ瓶を取り出した。ことり。晴れた日の外の音ばかりが鳴っている部屋に、ガラスの瓶が硬い音を響かせた。
「私は、欲が深いのでしょう」
「アーサーが? まさか、そんなことはないよ」
フィガロは窓辺に立つアーサーのもとまで歩いて行き、自らを罰するように握り込まれた拳に手を添えてやった。
「楽になってもいいと思うけどね」
「……こんなに恵まれているのに、これ以上を望んでは」
「そうかな。アーサーが幸せに暮らすだけで救われる人はいるんだよ」
「それなら、大丈夫です。私は幸せです」
見上げてくる青色は、陽の光をたたえて美しかった。眼差しも美しく、強い。
「幸せなのです」
「そう。アーサーが幸せならフィガロ先生も救われる」
「フィガロ様……すみません。つい甘えてしまいました」
「アーサーが甘えてくれるなら、いつでも大歓迎だな」
フィガロはアーサーの頭をなでて髪をすいてやった。手入れの行き届いた銀色の髪は、さらさらと流れて捕まえきれなかった。
フィガロは窓辺に立ち、庭に走り出て行ったアーサーを眺めた。カインに歩み寄ったアーサーは、そっと胸をおさえている。その苦しみを取り去ることができるのに、苦しみがあっても幸せだとアーサーは言う。
そのみずみずしい愚かさが、フィガロは少しうらやましい。
++ ++
前触れもなくフィガロの部屋を訪ねてきたカインは、部屋の主人の許可を得ると、まず少しだけ窓を開けた。窓から見える中庭の奥の花壇には、アーサーがいた。その日はよく晴れていて、燦々と降り注ぐ日差しの中で活動するアーサーは溌剌として見えた。彼は、リケやミチル、ルチルらに誘われて、今から花の種を植えるようだ。風向きのせいなのかどうか、今日は中庭の声が鮮明に聞こえてくる。会話の内容まですっかり聞き取れるくらいだ。
「気になるなら行って来るといいよ」
「ああ、後でそうするさ」
「急に部屋に来るなんて、どうしたんだい。目の調子でも悪くなったかな」
「目は相変わらずだ。うまくつきあっていくしかないんだろうな」
騎士のその返答は厄災の傷のことを指したのだろうが、色の違う片目のことを言っているようでもあった。
「俺じゃなく、アーサー様のことなんだ。たまにここに来てるだろう」
「ああ、なるほどね」
アーサーが医者であるフィガロのもとにたびたび通っていることに気づき、心配になって、彼はここに来たらしい。珍しい客人の用向きが腑に落ちて、フィガロは目の前の若者を安心させるように笑ってみせた。
「大丈夫、あの子はどこも悪くないよ。俺みたいな年寄りの話相手をしに来てくれてるだけさ。優しい子だよね」
「それならいいんだが。あいつ、近頃、胸を押さえていることがあるからどうも気になって」
「そうかな。俺は気にならなかったけど」
「俺の気のせいじゃないと思うんだが……あんたも気をつけてやってくれないか」
「わかったよ。中央の国の王子様できみの大切な主君だ。気をつけておくよ」
花壇の作業には西の魔法使いたちが加わったらしく、いっそう賑やかになった。先程から、リケがムルの悪戯に真剣に抗議しているようだ。埒があかない二人のやりとりにミチルが巻き込まれ、ルチルはそれを笑いながらなだめ、シャイロックがやんわりと話の流れを変える。その輪の中で、アーサーは朗らかに振舞っていた。
「元気そうだけどね」
「ああ。だが、時々浮かない顔をしていることがあるんだ」
「よく見てるんだね。それだけ気になるなら、自分で直接聞いてみるのが一番早いと思うけど」
カインはまっすぐアーサーに向けていた視線を一度空に彷徨わせた。
「……聞いてみた」
「へえ、アーサーは何て?」
「俺には……教えて下さらなかった。下手なごまかし方をして話をそらすんだ。その上、どうもここに通っているようだし……」
「それで調べてるんだ」
「いや、無理に聞き出そうっていう気はないんだ。ただ、あいつ、よく無茶をするだろ。それで体を壊したんじゃないかって」
「きみに話さないことを俺みたいな男に打ち明けてくれるわけがないよ」
「体調なのか悩みごとなのか……オズに話せることならいいんだが」
窓の外では、話し声に時折歌が混ざり始めている。有名な愛の歌だ。あなたが生きているだけで私は幸せだと、歌声は高らかに愛を告げる。想い人の、その姿を花にたとえ、眼差しを星にたとえ、切々と想いを募らせていく旋律。
手を止めてその歌を聞いていたアーサーは、胸のあたりに手をやり、何かを堪えるようにうつむいた。それはほんの一瞬のことで、その後は何事もなかったかのように再び手を動かし始めたのだが、カインはそれを見逃さず、すぐさまフィガロに視線を向けた。フィガロはさすがに見なかったふりを諦めて、小さく苦笑をして肩をすくめた。
「いや、きっとオズには話せないさ」
「話せない?」
「十七だっけ。それがどういう歳だかもう忘れたけど。でも、俺はあんな風じゃなかったと思うなあ」
「……何か知っているのか」
歌はまだ続いている。長い歌だ。
愛は苦しく時に儚いものだが、この世の何よりも美しい。
短く言えばたったそれだけのことをたっぷりと修辞で彩って、何度も何度も繰り返し、愛、愛、愛と。
「…………」
「え? すまない、今」
「なんでもないよ。俺はね、悩みがあるならいつでも相談しにおいでってあの子に言ったんだよ」
「悩み……」
「簡単な解決方法を俺は知ってるんだけど、それはいらないんだって」
「いらない?」
「うーん、だから、要するにね」
「いや、詳しい話はいいんだ。アーサー様のお許しもなく伺おうとは思わない」
「そう言うと思ったな。はは、アーサーもきみもお利口さんでいい子だね。まったくもって中央の魔法使いだ」
フィガロの声音はいつも通りで、馬鹿にしているのでも感心しているのでもなさそうだったが、場違いなほど軽かった。その調子でフィガロは続けて言う。
「さて、そろそろあの子が来る時間なんだ。悪いけど外してくれるかな」
「あの子って」
中庭では、アーサーが一緒にいる魔法使いたちにいとまを告げていた。彼は外の水場で手を洗い、宿舎の入口に向かってくる様子だ。
「またね」
そうフィガロの声が聞こえたかと思うとカインは部屋の外にいた。呆然と廊下に立ち尽くし、どうやら追い出されたらしいその部屋のドアを見つめているカインの耳に、近づいてくる靴音が届く。
オズに言えない悩みくらい自分が頼りにされると思い込んでいた。カインに話さなかったことを、フィガロには打ち明けたアーサー。
その靴音が、もう、すぐ、そこに。