即興曲 既に傷はほぼ塞がったものの、生命力そのものが底をつきかけたカインの療養は、件の誰も知らない一夜から半月が過ぎた今でも続いていた。カイン自身の実感では、よほどの無理さえしなければ怪我をする以前の生活に戻れるほどに回復しているのだが、フィガロにはまだ日中もベッドで過ごすように言われている。正直なところ、カインは既にうんざりしている。仲間たちがいろいろな気晴らしを持ってきてくれるが、生来の気質というものがあるのだ。カードゲームに何時間も興じるより、一周だけでも魔法舎の庭を走った方がカインの気は晴れるだろう。
それに、きっと忙しくしているアーサーが心配だった。大切な会議を控え、彼はきっと無理をしているに違いなかった。それにひきかえ自分はというと十分に回復した体で一日中寝転んで、何の役にも立つことができない。考えても仕方がないのはわかっているが、その不甲斐なさに幾度もため息が出た。
今朝も天気のよい外を恨めしく眺めつつ、カインはベッドでおとなしく本を読んでいた。努めておとなしくしているのは、もうすぐカナリアか他の仲間が部屋まで食事を運んできてくれる時間だからだ。誰にも内緒で筋力トレーニングを再開していることは、まだ知られないでいたかった。
――まったく無理はしていないのだし。
「カイン、おはよう」
「アーサー? おはよう」
「食事を持って来たよ」
「お忙しいでしょうに……ありがとうございます」
厄災の傷によりその姿が見えなくても、聞き慣れた声で誰だかわかる。主君と仰ぐアーサーだ。カインはその声に向かって手を差し伸べた。互いの手が触れあって彼の姿が視界に現れるなり、カインは思わず目を瞠った。その服装がいつもとまるで違うものだったからだ。三つ揃えの黒の上下で、上着には燕尾がついている。だが、パーティーに赴くような華やかな装いというより質素なお仕着せの雰囲気があった。その姿で食事を乗せたティーワゴンを押している姿は、まるで立派な屋敷の使用人のようだ。ただ、優雅で堂々とした所作が隠しきれていない。衣装も袖口や裾周りに刺された抑えた色味の糸や裏地の複雑な光沢など、作者のこだわりが随所に散りばめられて、アーサーの只者ならぬ本質を引き立てていた。
「……どうしたんだ、その格好」
「クロエが用意してくれたんだ」
「あ、ああ、そうなんだろうが」
「似合っているだろうか」
「アーサーに似合わない服はないさ。いや、俺が聞きたいのはそうじゃなくて」
「本日、私は執事です。どうぞ、何なりとお申し付けください」
アーサーは、こほんと一つ咳払いをすると胸に手をおき、かしこまってそう言った。主君と敬するアーサーがそんな仕草をして見せるから、ベッドでクッションを背に当てていたカインの方もきちんと背筋を伸ばしてしまう。
「ああ、カイン。楽にしてくれ」
「……もしかして、もう次の任務が入ったのか。だったら俺も」
「いや、違うんだ。以前、飛行船の任務があっただろう。あの時、役になりきるコツをラスティカが実践で教えてくれたんだが」
「たしか、アーサーが執事役でラスティカがメイド役をしたとかっていう」
「ああ、オズ様もお付き合いくださった。その時の話をクロエが耳にしたらしい。それで、こういう服を作ってみたくなったんだそうだ」
「そうだったのか。その服のことはわかったんだが、今日はアーサーが執事だっていうのはどういうことなんだ?」
カインがそう言うと、アーサーは表情を改めた。眉を下げたその顔いっぱいに、心配している、と書いてあって、カインは嫌な予感がした。
「カイン、動きまわっているだろう」
「な……んのこと、でしょう」
嫌な予感は当たった。カインが思わず目を泳がせると、アーサーは一度きゅっと口を結び、両手を腰に当てるとしっかりとカインに向き直った。
「嘘だ。顔に出てる、カイン」
叱るというよりは、あくまでも心配がにじむ声なのが、カインの胸によく響いてくる。
「い、いや、動くと言っても廊下を行き来するくらいで」
「お前の言うことを信じたいが、ではなぜ棚にあった重りが床に置いてあるのだろう」
「あー……」
「カイン、嘘が下手なのはわかっているんだ。無理をしなくてもいい」
アーサーが指差した壁際の床には、カインが特に腕を鍛える際に使用する重りが置きっぱなしになっていた。重りを使ってまで鍛錬に励もうとする魔法使いなど限られているし、他の者のせいにしてまでごまかそうとは思えない。結局、カインは白状するしかなかった。
「……体がなまってしまいそうで、つい。でも、本当に少しだけだ。無理はしてない」
「フィガロ様は許しが出るまで安静にとおっしゃっただろう?」
「いや、たいてい医者の言う安静ってやつは」
「カイン」
アーサーは優しく諭すようにカインの名を呼んだ。リケやミチルを真摯に導く時のような声だった。同じように語りかけられた今、彼らがアーサーのいうことを素直に聞くわけが身をもって理解できた。その真摯さに逆らえない。
「……はい、安静にしているように言われました」
「もうしばらくの辛抱なのだから」
「わかっているんだが、日がな一日じっとしているって俺には結構辛いことなんだ」
「それはわかるな。どちらかというと私もそうだから」
「そうだろ?」
「ああ。だから今日は一日お前が動き回らないように私がついていよう」
「……え」
「御用があれば、どうぞ私にお申し付けください、旦那様」
「だっ!?」
「今日は私がお世話をいたします」
アーサーは恭しく会釈をして見せた。カインは今まで自分の苦手は蛇だけだと思っていたが、新たな苦手を発見してしまった。自分に対して臣下の礼をとるアーサーだ。居心地が悪いったらない。
「えへへ、どうだろう、うまくできているか?」
「そ、その、い、忙しいんじゃないのか、アーサー」
しどろもどろだ。どんな魔物にも怯まず立ち向かうカインだが、すっかり形無しだ。
「今日は保留や返事待ちの案件が重なって、急に時間があいたのだ。だから心配はいらないよ」
「そ、そうか、じゃあ、たまには気分転換でもしたらどうだ」
「そう思ってここに来たんだ」
「わ、わざわざ執事に、その、ならなくても」
「すまない、気に入らなかっただろうか……?」
それはずるくないか。アーサーの頭にまれに出現する犬の耳が、今また現れてぺたりと垂れ下がっている。くうん、としょんぼりした声まで聞こえた気がして、カインは慌ててとりなした。
「あー、いや、そうじゃなくて」
「では、続けてもいいか? せっかくクロエが腕を振るってくれたし」
「う、うーん、まあ、そうだな、昼までなら」
「よかった。さあ、お食事にいたしましょう、旦那様」
「あ、ああ、はい。お願いします」
「そうだ、私の分も持って来たんだ。一緒に食べてもいいだろうか」
「それはもちろん」
「……食べさせて差し上げましょうか」
「じ、自分で! 自分で食べます!」
食後のコーヒーをいれてもらうのも、カインはいつもより恐縮した。反対にアーサーは鼻歌でも歌い出しそうに機嫌がよくて、その顔を見ていると今すぐやめてくれとも言い出せず、カインは主君の給仕を受け続けた。
「メイドの服が仕上がったらラスティカも来てくれるそうだ」
「そいつは……歌ったり、鳥かごに閉じ込めたりしてくれるのかな」
「お前がこれ以上動き回るようなら本当に鳥かごに閉じ込めなければならなくなる。そうはしたくないよ」
「わかった。気をつけます」
「あ、違った。退屈なさったらいつでも私をお呼びくださいませ、旦那様」
「っ、だからっ!」
「あははっ、カインは私に旦那様と呼ばれるのが苦手なんだな」
「苦手じゃない騎士がいたら会ってみたいさ。心構えの教育からやり直しだ」
「じゃあ、カイン様の方がいいだろうか」
「……今、気を失いそうになったので絶対にやめてください……」
「旦那様のままにしておこうか」
「う、うーん、いや、あんまり呼ばないでいてくれると」
「私に呼ばれるのが嫌なのか?」
「……アーサー、わかってて言ってないか?」
「あはは、カインは何でもわかってしまうな」
「アーサー!」
弱りきったカインが声を上げたその時、部屋のドアがノックされた。ふうわりと花の香りを漂わせながら長い髪のラスティカの登場だった。魔法でいつでも取り出せるだろうに、いっぱいに茶器や菓子を載せた華奢な細工のティーワゴンを押していた。
「やあ、楽しそうだね。体調がよさそうで安心したよ」
「ああ、ありがとう。ええと?」
聞き慣れない女性の声に、カインはさっと思考を巡らせた。だが、その必要はなかったようだ。
「ラスティカだよ、カイン! わあ……魔女姿もとても素敵だ。クロエの服がとてもよく似合っている。優雅で美しいな」
「ありがとうございます、アーサー様。クロエの服は美しい上に着心地もよくて素晴らしい」
ハイタッチを交わしてカインの視界に現れた魔女姿のラスティカは、こちらもやたらと細部が凝ったメイドのお仕着せ姿だった。執事姿のアーサーと並ぶとふたりとも仕草が堂々と優雅で、偽物の使用人という感じがすごい。
「「さあ、ご用事をお申し付けください」」
「いや、あの」
こんな事態どう捌いたんだ、オズ。偽の使用人たちに迫られて、カインは尊敬とねぎらいの念をもって大魔法使いの名を呼んだ。できれば今すぐここに来て、その手腕を発揮して欲しい。
「旦那様は退屈なさっているようです、メイドのラスティカ」
「では歌を歌いましょうか、執事のアーサー様。チェンバロもお持ちしましょう」
人が二人にティーワゴン二台、その上チェンバロまでやって来て一気に部屋が狭くなる。カインは数日前に賢者に教わった「犇めく」という字を思い出した。威圧感から言うと牛三頭じゃ足りないほどだ。
「旦那様、踊らないようにお気をつけください」
「絶対に動きません、アーサー殿下」
「何で敬語なんだ、カイン」
「それは俺が聞きたいところなんだが……」
「ああ、その前にカイ、いや、旦那様、私は一度食器を片付けて参ります。空いた皿があるとどうも気になってしまう」
「ああ、俺が行くよ」
「動いてはいけないと言っているのに。それに、そちらのティーワゴンを押してみたかったんだ。メイドのラスティカ、いいだろうか?」
「ええ、もちろん」
「では、旦那様、失礼します」
アーサーは、胸に手を置いてカインに向かって礼をすると、嬉しそうにティーワゴンを押しながらカインの部屋を辞した。
思わずほっと息をついたカインに、ゆったりとした女性の声音でラスティカが話しかける。
「ふふ、アーサー様はきみにそっくりだったね」
「俺に?」
「アーサー様がおじぎをする仕草は、アーサー様に仕えるきみととてもよく似ていて洗練されていた。素敵だったね」
「そう、か?」
「きっと、思わず真似てしまうくらい、アーサー様はきみを気に入っているんだね」
「えっ」
「従者の中で一番なんだ」
「あ、ああ」
従者として一番気に入られている。それは嬉しい評価のはずだったが、胸のどこかがちくりといたんで、カインはそれを不思議に思った。
「きみが眠っている間、とても心配そうになさっていたよ。きみが元気になって本当によかった」
「ありがとう、ラスティカ」
「きみたちを見ていると、音楽が浮かんでくることがあるんだ」
「へえ、それは聞いてみたいな」
「謹んでリクエストにお応えしましょう」
カインが身を乗り出すとラスティカは一礼をしてチェンバロの前に腰掛けた。使用人ごっこの一環なのか、音楽家のおじぎなのかはわからなかった。スカートがめくれそうな座り方が気になったが、自分は立ち歩いてはいけないし、ラスティカに自分でやらせると余計ひどくなりそうだし、どうにかするのは諦めて今はめくれていないからいいことにした。ラスティカはそれに構わず、イメージを手繰り寄せるように曲を奏で始める。
「力強く若々しいリズムにノーブルな和音が乗るよ。メロディーはひとつじゃない。いくつも混ざるんだ。だけどいつでもそれが調和する。そんな歌になると思うよ」
「……想像もつかないな」
「そうかい? きみたちにならきっとわかるよ。たとえて言うなら、主君であり、従者であり、友人であり、それから」
と、そこでノックの音が響いた。ティーワゴンを押すアーサーが戻ってきたのだった。目端が利くアーサーは、すぐにさりげなくラスティカのスカートを直してくれた。
「ただいま戻りました、旦那様、メイドのラスティカ。あ、すまない。演奏中だったのか?」
「いいえ、ちょうどいいタイミングです。アーサー様とカインの曲を作っていたんですよ。イメージは、主従と友人と、それから」
「それから、ええと、力強いリズムがノーブルな和音と調和するんだそうだ」
「それはぜひ聞いてみたいな!」
「ええ、もちろん」
その先を聞いてはならないような気がして、カインはラスティカの発言を遮った。今はなぜだか逆転しているが、アーサーがカインの主君で、ありがたいことに大切な友人でもある。アーサーに頼られれば嬉しい。もっと強く、もっとふさわしい自分でありたいと思う。腹をかじられたくらいでいちいち倒れてなんかいられない。何を向けられたってびくともしないくらい強くならなければ。そしてもっと頼られるようになるのだ。――この世界で誰よりも。
「っ……」
曲が進むうちに今まで考えたこともなかった言葉が浮かんできて、カインは声をあげそうなほど驚いた。
気づけば遮ったはずのラスティカの発言がチェンバロから次々に紡ぎ出されて防ぎようがない。
思わずアーサーの方を見る。アーサーも燕尾が揺れるほどの勢いでこちらを振り向いた。視線があう。あって、そして、それから?
惹かれるまま、カインはベッドから降り、アーサーに近づいた。アーサーが首を振る。
その動きは曖昧で、縦に振ったのか横に降ったのか、判然としなかった。