うたう鳥と弓引く鳥◇
──本当は思い出す予定なんてさらさら無かったのだ、ガキの頃の青臭い夢なんて。ただ聴こえてくる詩があんまりにも綺麗な世界を語るものだから、欲が出てしまった。広い世界を見てみたくなってしまった。
俺が無茶をやらかしてハーツが怪我を負い、あの英傑の末裔殿のおかげでメドーが大人しくなってからしばらくして村に歌が響くようになった。初めはあの賑やかな五つ子がまた何かおっぱじめたのかと思っていたがどうもそれだけでは無いらしい。
飛行訓練場から戻りサキに頼まれていた買い物を済ませて家に帰ろうとすると、いつも五つ子たちが歌を練習している広場に見慣れない人影が増えていた。日が沈み茜色に羽毛を染めた子供たちがきゃあきゃあ騒ぎながら足元をわらわらと通り過ぎていくがその人影は動かない。誰だっただろうかとぼんやり考えていると不躾な視線に気付いたのか人影がこちらを振り向いた。
こんばんは、と挨拶をされ無視するわけにもいかずに戸惑いながら返事を返して近づく。
「きちんとお会いするのは初めてですね。私は吟遊詩人をやっております、カッシーワと申します」
「俺はテバ。リトの戦士だ」
よろしくお願いしますと一礼する男は遠目で見たよりもだいぶんガタイがいいにもかかわらず優雅な物腰で自己紹介をした。名前を聞いても心当たりはない。
「訳あって旅に出ていましたが、先日、村に戻ってきました」
「へえ、どうりで見たことない顔だと思ったぜ」
年齢は分からないが、おそらく会ったことは無いだろう。俺の知り合いに詩人になるなんて酔狂をやるやつはいなかったはずだ。
「最近子どもたちの声に混じって音が聴こえるのは、あんたか?」
それ、と男の持っている大きな箱のようなものを指差して尋ねる。
「ええ、歌の練習に付き合ってほしいと言われて。家を空けていたのに気にせず甘えてくれるのは嬉しいのですが」
最近五つ子の歌がめっきり上手くなったのはこの楽士殿の指南の賜物らしい。
「目にいれてもいたくない我が子とはいえ、連日となると体力的に厳しいものがあります」
「そうか」
子どもの集中力というのは侮れませんね、と笑う男は厳しいと言いながらも余裕の有りそうな風体だ……いやまて、今何て言った?
「……我が子?」
「ええ」
「あの五つ子の、父親?」
「はい、妻はハミラと言います」
どうかしましたか、とこちらを伺うようにのぞきこんでくる気配がするが、こっちは突然の重大発表を飲み込むのに精一杯でそれどころではない。
「……あんた、父親だったのか……」
かろうじて出てきたのは突きつけられた情報を反復するだけのふぬけた声だった。
「ああ、よく年齢がわからない、とは言われますね」
ふふ、と笑う男はとても五児の父には見えない。見えないが、そう言われてみるとこの穏やかさは父親らしい包容力のような……。閑話休題。
「はぁ……で、妻も子供もほっぽり出してあんたは何をしてたんだ?」
「このハイラルの各地に眠る古の詩の研究と、その詩の修行をしていました」
「イニシエのウタ、ねぇ……」
ハーツの親父さんがよく話していた白いとりがどうとかいうアレみたいなものだろうか。最近はハーツの娘のモモが口ずさんでいるのを見かけるが完璧に覚えているわけではないらしく、律儀に聞いていた末裔殿が微妙な顔で拍手をしていたのを思い出す。
「ハイラルの各地っていうと、一ヵ所じゃあないのか」
「ええ、ワシュアの丘からハイラル平原、ゲルドの砂漠地帯やアッカレの方にも行きました。フィローネでは落雷が酷くて大変でしたね」
それから……と旅の話を続ける男にこれは長くなりそうだと感じてストップをかける。
「吟遊詩人と言ってたがあんたが歌うのか?」
「もともと私は詩人になるためにある方に師事していましたから。古の詩の研究はその方から引き継いだものです」
「ほう、上手いのか?」
にこり、と音がしそうなほど目を細めた男に、「一曲、お聴き下さいますか」と請われて断る理由も無いので「よろしく頼む」と答える。
ハイラルを旅したという楽士殿の歌は中々のもので素直に聴いて心地よいものだったが、何故だか耳触りの良さでけでなく、どこか記憶に残って離れないことが不思議だった。
◇
──厄災とやらが倒された、らしい。
ハイラルの伝承だか何だかは知らないが、突然メドーがエネルギーを集束し光線を放った時は驚いた。とうとう俺もリトの村も終わりかと思ったが今もつつがなく日々は続いている。件の楽士殿だけは何か納得したように遠く見える城の方を見つめていた。
その後、世界を救ったという末裔殿とハイラルの姫さんがこの村にやって来た。末裔殿が言っていたゼルダ、というのはこの姫さんのことだったらしい。なんでも神獣の作動を確かめるために来たそうだが俺たちとしてはメドーが大人しくしてくれさえいれば良い。
──余計なことをしてくれなければいいのだが。
ただ、普段は穏やかなリトの風がこの日に限っては渦巻くように激しく吹き荒れていた。不思議なことに姫さんの周りだけは普段と同じく穏やかな風が流れていたがその分末裔殿は髪型が分からなくなるほどに強風に煽られていた。姫さんは感情の読めない瞳でメドーを見上げ末裔殿は乱れた前髪をつまんで苦笑しながら何か呟いていた。
そういえば、あれから五つ子の練習が終わっても楽士殿は広場で詩をうたっている姿をみかける。十曲程の詩を気紛れに奏でているようだがどれも勇者が登場するものばかりだ。
古の詩というのは勇者の冒険譚を詠ったものなのだろうか、という話をしたところ、ハーツにはよくそんなに覚えているなと不思議がられ、サキには詩を聴くのが好きだなんて知りませんでしたと驚かれ、楽士殿にはお見事ですと喜ばれた。何だか釈然としないが楽士殿の詩が響く今の村を気に入っていることは確かだった。
◇
──厄災が滅ぼされてから早幾年、ハイラルの城が再び人で賑わうようになった今日、ついに我が息子チューリの結婚式が執り行われた。
村をあげての盛大で厳かな式が終わり、夜の宴に向けて準備が進められるなか、俺は一人落ち着かない気持ちを抱えて村の中をうろついていた。チューリは今頃大人になってもかしましい五つ子たちや、幼馴染みとも呼べるハーツの一人娘に、もみくちゃにされながら祝福されていることだろう。そういえば花嫁の投げたブーケを手にしたのは、あの桃色の娘だったか。サキは最後の大仕事とばかりに村の女たちと協力し、はりきって宴の料理を作っているのを見かけた。調理場を追い出される村の男たちは皆、夜の宴が終わるまでは特にすることもなく時間をつぶしていた。自分もまた、例外なく手持無沙汰に村をうろついている。
──自分は、思っていたより子離れができていない父親だったらしい。
がらにもなくセンチメンタルになって空でも眺めようか、と広場まで来たところに先客がいた。声をかけるか迷ったがそう浅くもない間柄だ。あの男のせいでらしくもない気障なセリフを吐いてサキとの結婚記念日を祝う羽目になった苦い思い出は覚えに新しい。……サキは喜んでいたようだが、それとこれとは別の話だ。あのときの気恥ずかしさは早々に忘れてはやらない。それにこの距離で気付いていないことはあるまい、声を掛けない方が不自然だろうと誰に取り繕うのかわからない言い訳をして近付いた。
「よう、いつもの楽器はどうしたんだ、詩人殿」
ああ、と気の抜けた声がして男が振りかえる。どうやら俺が近づいていたのに気付いていなかったようだ。
「こんにちは、テバ。ああ、いえ、ええと」
今の時間ならばこんばんは、でしょうか。と人好きのする笑みで挨拶をする男は普段にも増してどこか儚げな様子だった。
「どっちでもいいんじゃないか、で、いつもの楽器はどうしたんだ?家か?」
「そうですね……ええ、式典に持ち込むわけにもいきませんでしたから。アコーディオンは家に置いてきています」
「今は何をしてたんだ?」
「……もう何度目かにはなりますが、やはり子供が巣立つというのは寂しいものです」
「……黄昏てたのか」
「そんなところです。あなたこそ何を?」
ぐ、と返答に困る。自分から尋ねたことだが相手からも尋ねられる可能性を失念していた。
「俺も、まぁ、そんなところだ」
ふっと視線をそらしながらそれだけを捻り出した。男はそうですか、と納得した様子で日が沈み行くのを見つめている。
「あなたのところは一人息子でしたか」
「チューリくんには娘がお世話をかけました」と切り出す男にそうだな、と気のない返事を送る。
チューリの結婚騒動も今となってはいい思い出だ。チューリが惚れ込んだ娘はなんとこの詩人殿の五人の愛娘のうちの一人だった。その娘御はどうにも気が強い上に「お父さんよりもお歌の下手な男の方はお断りです」などと言い、それを真に受けたチューリがじゃあ詩人になるとまで言い出したのだ。やれ楽器を作るだの楽譜がいるだの村中から末裔殿まで巻き込んだ大騒動だった。最終的に「お父さん」その人……つまりこの詩人殿に師事して、歌を磨き末裔殿に楽器作りを手伝ってもらい、チューリはプロポーズを成功させた。
「子どもがいなくなると途端に家の中が静かになるでしょう」
記憶に思いを馳せて勝手にげんなりとしていたところで男の声にはっとする。
「そうだな……静かすぎるくらいだ」
「ふふ、そうでしょう」
子の成長は、本当に早いものです。としみじみと言う男に無言で頷く。
「チューリくんは、戦士になるそうですね」
「……そうなのか?」
てっきりこの男に師事したまま詩人にでもなってしまうのかと思っていた俺には驚くべきことだった。チューリが歌を始めると言い始めたときもリトの戦士にと育ててきた俺とチューリは揉めに揉めた。サキが泣き出したこともあり、互いにうやむやになってその話を流していた。
「おや、チューリくんから聞いていませんでしたか?自分がずっと憧れているのは英傑様と、そしてなにより父であり師であるあなただから、せっかく歌を教えてもらっても継いでいくことはできない、と申し訳なさそうにしていました」
「……そう、か」
「私が教えられることもあまり多くはありませんし、そんなに気にしなくていいと言ったのですが。誠実な青年ですね」
自分の知らない息子の話を聞きながら未来のことを考える。チューリが戦士となるならば俺の出番も減るのだろう。元々リトの村には危険は少ない。教えるべきことは教えてきたつもりであるし、鍛練を積み重ねていくのはチューリ自身の問題だ。
子の成長。子に憧れられることは父親として嬉しいことだ。子が自分を越えていくだろうことも一抹の寂しさはあるが喜ばしいことだ。
──俺は、どうするのだろうか。
ふっとそんなことを思った。父親として役目を終え、戦士としても一線を退いて役割を託したその後、俺はどうするのだろうか、と。
村に誇る英傑リーバル様のような戦士になり、彼を越えたいと夢を追って戦士になった。そのために駆け抜けてきた人生だったし、チューリともその夢を共有する同士として教えてきた。その道に悔いは無いし、これからだってあきらめるつもりもない。老いる体だからこそ鍛錬を欠かさず、誇りを貫いて生きていく必要がある。何も変わることはない。
──だが、本当に変わらなくてもいいんだろうか?
「テバ」
考え込んでしまっていたところを、名前を呼ばれて意識を引き戻される。
「……ん、何だ」
「いえ、どこか心ここにあらずといった様子でしたので」
「ああ……すまん。俺もやっぱり雰囲気に呑まれちまってるらしい」
「お時間があるのでしたら、一つ、私の相談に乗ってはいただけませんか?」
「相談?」
まぶしい西日に目を薄めながら横を振り向くと、隣の男が意を決したように話し出した。
「実は、私はまた旅に出ようと思っているのです」
「また唐突だな……あんた、詩の修行は終わったんじゃなかったのか」
「ええ、ですから今度は世界を見て回るために」
「……いいんじゃないか?」
なんと答えるべきか迷って出てきたのは陳腐な相槌だけだった。男はありがとうございます、と微笑みながらも少し困ったように眉を下げた。
「しかしそうとは決めても……一人旅は中々不安が大きいものです」
「昔と違って私も老いましたので」と静かに笑う男の背筋は今もぴんと伸びており、あまり以前と変わらないように見える。もともと年齢だの仕事だのと腹の内が読めないところが多い男だ。
「それでもいくと決めたんだろう?」
「ええ、自分でも無茶だとは思います。ですが、私は、やり残したことから目をそらしたくはないのです」
「やり残したこと?」
「かつて、私は我が師の悲願である研究を完成させるために旅をしました。あの頃はただその使命を果たすために必死で、自分の役割を完遂する以外には全く気が回らなかった」
それについてはテバも知っている。まだ羽根も生え変わらぬ幼子たちを置いて、吟遊詩人として世界を流離っていたらしいこの男の事を、テバは彼がこの小さな村に帰郷するまでその顔を知らなかったくらいなのだから。
「奥さんや子供たちのことさえも、気にしていられねえようだったらしいからな」
「そう、たしかにそうですね……その分をこれまで私なりに家族には尽くしてきたつもりではありますが、やはり……本当に良い父親とは言えません」
「家族の事じゃあ無いなら、あんたのやり残したことって、何なんだ?」
「私はかつての旅で……師の足跡を追っていたのです。師の考え方、想いをこのハイラルの景色と伝承と共に追っていた。それなのに、あのとき私は本当に彼の人と同じものを見ていたのか……今になって、時折不安に思います」
「不安?」
「──どうしてもっとその姿をよく確かめておかなかったのかと。薄れてゆく記憶に、遠ざかる思い出に、私は今更ながら怯えている。以前の私はそれを疑うこともないほど若く……そして今の私が、老いたのでしょうね」
「あんたは……役目や、研究なんかじゃない、お師匠さんその人のことを忘れるのが、怖いんだな」
「はい。私は、我が師の見てきたものに、私が憧れてきたものに、もう一度会いたくてたまらない。それが真実には叶わない願いだと知っていてなお、その縁と辿ることを諦められない」
ぽつりと「…あの騎士殿にあてられたのでしょうね」とつぶやく声が聞こえたがそれが誰を指すのかは俺は知らない。以前に尋ねたことがあるが、「私の生涯をかけた誇りです」と不明瞭な返事を返され、再び尋ねる機会を逸してしまったのだ。
「だから、私はもう一度旅をしたい。もう一度、私の中に在る筈の師を尋ねて世界を巡りたいのです」
それきり男は黙ってしまったので、俺は夕日を眺めながらまたぐるぐると考え始めることになった。
──旅。リトの村で生まれた者は基本的に一生のほとんどを村で過ごす。男ならば戦士として村を守るか弓職人となって弓を鍛えるかのどちらかだ。無論強制されているわけではなく、ただ村から出る必要性が無いだけだ。よって村を出ていくのはこの男のような一部の変わり者ばかりだ。
俺は望んで戦士になった。伝承の英傑に憧れ、その技を身に付け戦士としての己に磨きをかけたいと訓練に明け暮れた。もっとも、戦士と名乗れる程の有事は滅多になく、衛兵たちとそう変わらない生活だったが。サキの両親が村を出ることに好意的ではなかったこともあって、俺は訓練場やヘブラの山々以外、リトの村を出たことはない。それを後悔したことはない──ない、のだが、時折やってくる旅人たちが話す広い世界に憧れていた頃も、たしかにあった。
後悔は、していない、ただ、諦めきれないところが心のどこかにあるのかもしれない。
──英傑リーバルは、世界を見据えて飛び立った戦士だ。彼の翼は、このリトの村の空よりも遠く高くを飛んでいった。
勇者と姫巫女に助力し、世界を救う戦いに身を投じたリトの英傑は、その目で、その翼で、きっと自分が知らぬまま過ごしてきたハイラル中を見てきたのだろう。
──俺は、あの人を追っかけると言っておきながら、そこだけは目をそらしてきたんだ。
ああ、と途端に腑に落ちた。俺は、ちゃんと知っていたのだ、自分のやり残したことを。
世界を巡る、旅。この数年聞きつづけたせいですっかり耳についてしまった詩が心の内を駆け巡った。
ところで、と口火を切った声が掠れた。小さく咳払いをしてもう一度口を開く。
「……ところで、一人が不安なら……用心棒を、雇う気はないか?」
「それは、あなたが、ということですか?」
「そりゃ老いてはいるが飛行技術と弓の腕はまだまだリトいちだ。とんな魔物や暗闇にだって臆さず戦い抜く度胸と意地は折り紙付き、それに代金は、」
自分でも突拍子もないことを言い出しているとわかっているせいで逡巡し言葉が途切れる。ここまで言ってしまって何をためらうのか、ままよ、と空を見ていた目を真っ直ぐと相手に向けた。
「……そうだな、あんたの詩でいいだろう」
言い切ってしまえば、男の大きな丸い目が悪戯っぽくきゅうと細められる。
「おや、そんなものでよろしいので?」
「あんたの詩は、上等だよ」
「ふふ……ありがとうございます」
「ったく……あんたそうせ、俺が言い出さなきゃ、自分で巻き込む気だったろ」
ばれていましたか、と言う声音は残念そうだが顔は笑っている。
「そうですね、奥方にも話をしてあります」
「……サキにまで?あんた、どんだけ用意周到なんだか。」
「むしろ彼女からも頼まれてしまったので驚きました。あの人の夢を叶えてあげてほしい、と。……よい奥方ですね」
丁寧な物言いと少し細められた丸い瞳がサキとだぶる。
「そうか……サキが。」
サキがそんなことを考えていたとは、知らなかった。いったいどこで俺のガキの頃の話など聞いたのだろう。族長だろうか。親友のハーツだろうか。いつでも、メドーの件でもチューリの件でも俺はサキを振り回してばかりだ。いつだったかサキに心配しすぎて死んでしまいそうです、と泣きつかれたことがある。その時俺は無茶をやめると約束することも、サキを慰めることも、どうすることもできずにうろたえていた。散々泣いたあと、サキは悔しそうに、でも心配する必要が無くなったらわたしは今よりもっと泣くのでしょうねと言って……、羽がぶわりとざわめき体温が上がるのがわかる。うまく言葉が出てこない。
「ふふ、愛されていますね」
「……あんたの方はどうなんだ」
からかわれたように感じてぶっきらぼうに言い放ったが、睨み付けた相手の顔は慈愛に満ちていて気を削がれてしまう。
そうですねぇ、と男は視線を空へやった。普段と違って楽器を持っていない自由な腕が所在なさげに揺れている。軽く手を握っては開くのを幾度か繰り返して男が話始める。
「……ハミラには本当に苦労をかけてばかりいます。もっと幸せな生き方もあっただろうに、それを失わせたのは、私です。だから村に戻ってきてからは家族に尽くすのだと、そう決めていました」
すうっと男が目を伏せる。日がずいぶん落ちて少し肌寒くなってきた。
「……じゃあ、なんで」
「彼女に、言われたのです」
“わたしは、詠っているあなたが一番好きなのよ”
“あなたが涼しい顔をして無茶をするのは今に始まったことじゃありません”
“ただ、約束して。必ず、帰ってきてくださいな”
「あんたの嫁さんは見た目の割に肝が据わってるな」
否定はしません、と間髪入れずにそう言う口振りは苦笑しながらも愛おしむような響きを持っていた。
「……ハミラとの約束を守るためにも、テバ、私の旅に同行していただけませんか」
夕日を反射して金色に光る瞳が真っ直ぐにこちらを見据えてくる。
「……責任重大だな、こりゃ」
「だから“そんなものでいいのか”と聞いたでしょう 」
「……さっきも言ったろう。あんたの“詩”は上等だ。それに、旅する理由の半分は俺の事情だしな」
ひとつ呼吸を挟み、がしがしと頭をかいて腕をおろす。なかなかこっぱずかしいことを言うには度胸がいるもんだ。
「……俺の方こそお願いしたい、俺を、あんたの旅に連れていってくれ。俺は、世界がみたい。あんたの見てきた、あんたの詩が伝えてくれた伝説とこの世界とやらをこの目で見てみたくなったんだ」
この年になっても周りからよく意地っ張りと言われることの多い俺の素直な言い分は男の意表をついたらしく、もともと丸い目をさらに丸くした後、嬉しそうに笑った。
「ありがとうございます。そこまで言われてしまっては私も気を引き締めなくてはなりませんね」
……前から思っていたが、この男は危機感が無さすぎるんじゃないだろうか?よく詩の修行中に死ななかったな。
「おや、私とてリトの男です。弓や短剣は人並みに扱えますよ?」
気付かずに思ったことをそのまま口にしていたらしい。だがそう言われてもこの男が武器を持つ姿など想像しがたい。むしろ鍋やお玉でも持っている姿の方が納得できるくらいだ。
「だってもその立派な楽器を抱えてちゃ、戦うよりも逃げるのが精いっぱいだろう。まったく無茶な旅がらすだ、あんたは」
「ええ、だから、あなたが了承してくれてよかった。私の不安にはそれも大いに含まれていました」
「とてもそうは見えないがなあ」
「不安だったのは本当ですよ?ただ、今はもう旅路の始まりにどんな戦慄が相応しいのかと考えることしかできません。私は詩人ですから」
「格好つけるのは良いが……あんまり仰々しいのはよしてくれ」
「考えておきましょう」
この詩人殿が男らしからぬ柔らかな物腰を崩すことはついぞ無かったが、これから始まる旅に胸を踊らせ、話を語る眼差しは夏の日射しのように輝いていた。あなたも頬が緩むとは珍しいですね、としたり顔で目を細める様子はなかなか様になっている。
「そろそろ戻りましょうか。今日は祝いの日ですから、夜も忙しくなります」
もう日が沈みかけて紺色の空がじわじわと広がってきている。
「あんたのとこの嬢ちゃんたちが何か企ててるみたいだったが、大丈夫だろうな?」
「ああ、結婚祝いのコンサートを開くそうですよ。私も参加します」
詩ではなく演奏だけですが、と男はどこか楽しげにつぶやく。
「娘たちも今日のためにと練習を重ねていましたから、期待してもらって構いませんよ」
「へえ、そりゃ楽しみだ」
少年のように笑いあった二人の男たちは長く伸びる影を残してゆっくりとそれぞれの家路に着いた。夜が始まった空では星々が、旅人たちの門出を祝福するようにちかちかと煌めいている。