黎明を追う鳥 目蓋の裏から赤い暗闇が見えている。
おや、自分の目蓋のなかを流れる血の色かと思って目を開けると、もっと赤が濃くなる。
目に映るのは黒いばっかりの闇なのだけれど、どうしてかリーバルの脳裏では「赤い」と言う声がするのだ。
赤くて暗い。そんな言葉でしか言い様の無い、ぽっかり心細い暗闇だった。
目と頭で、見ている色もちぐはぐに感じてしまうのは、自分が夜盲のせいなのか。
リーバルは意味を為さないまばたきで自分の鳥目を皮肉った。
リーバルは暗闇がよく見えない。彼がリト族であるせいだ。鳥が翼と嘴を持ったまま人間の知恵と力を手に入れたらこんな姿になるだろう、という見た目をしているリト族は、ハイラルで唯一、空を自由に羽ばたく代わりに、夜を出歩くことがからっきし出来ないのだ。
──こんな赤い暗闇じゃ、夜かどうかも分かりはしないが。
けれど生きてきた今までリーバルの自由を阻んできたものは、夜の闇たった一つきりだったから、リーバルは赤い闇のことを夜だと思うほかになかった。
赤い色が自分の目蓋を彩る赤い皮膚が透けて見えるせいだったら、もっと燃える炎のように美しい赤の筈だ。肉に毒を塗りたくっているような禍々しい赤い闇は、見ているだけで胸の内がどろどろと凝る。
暗い。暗い。
何も見えない。
何も触れられない。
夜は嫌だ。赤い夜は嫌だ。
嫌だ、と嘴を突いて出た言葉の鋭さに急かされて、リーバルは闇のなかを走り出した。本当は両の手の翼で飛びたかったが、闇の中では頭の上に天井があるのかどうかも分からないから、出来なかった。
幸いに脚は野鹿のごとく軽やかに動いて、飛べる代わりに苦手だった筈の地上を駆ける行為が自由自在にできた。そんな現状にはめまいがした。
音の矢で周囲を刺すように、暗い、嫌だ、と鋭く言葉を放って走る。返ってくるものは無く、行く宛もまた無い。足音すらも聞こえず、自分の呟き声と足に伝わる振動がその代わりをしていた。
赤い夜闇はどこまでも続く。遠くも近くも何も見えない。
ただ、ごく近くは見えた。
翼の役目を果たしていない自分の手。翡翠飾りを着けた自分の足。首に一巻きした英傑の青いスカーフ。
天地すらあやふやな闇のなかで、リーバル自身の姿だけが、青空の下と変わらずはっきり見えた。
唯一見える自分の姿は、しかし決して彼の心を穏やかに静めることはなかった。
闇に紛れていないということは、鳥目のリーバルにも見えているということは、“他者からはもっとよく見える”ということである。
──これじゃ、見つかってしまう。
リーバルは、はたと気がついた。自分は逃げていたのか。自分は隠れていたのか。
見つかりたくない、と思うのなら、此処にはリーバルを見つけてしまうものがいる筈なのだ。
──いったい何に?
疑問が形になった瞬間、ぞっと寒気が背筋を撫でた。
青い目玉が現れる。紅い闇が光りだす。
黒い風が吼えかける。
なまぬるい血風が身体のあちこちに絡み付いて、気分が悪い。
赤い闇から、胎児のごとく血濡れてぬるり生まれ出づる化け物。
命を撃ち壊すだけしか能の無い腕を大きく広げ、叫び散らす怨嗟の声が、闇の中に反響する。
絡繰りの鎧に死を纏った災厄が、そこに居た。
──あれは、僕を殺しに来た。
咄嗟に背に手を回したが、弓がない。
腰元を探っても剣はおろか矢筒すらない。
空をかいた手に舌打ちして、ならば風を起こしてぶつけようとしたが、風の唸りも聞こえなかった。
天井の心配も忘れて羽ばたいてみても、ちっとも身体が浮いている心地がしなかった。それでも壁や天井に頭をぶつけることはなかったから、無我夢中で腕を振るった。
羽ばたいて、進んで。羽ばたいて、息が詰まって。
じわり、と羽毛の下に汗がにじんだ。
打つ手が無い。なにもできない。
翼があるのに、空が無くっちゃ飛べないなんてことは、リーバルにとって未曾有の事実だった。
ああ、嫌だ。嫌だよ。
僕は終わらない。
終わりたくない。
僕はこんなところで終わる男じゃないさ。
だからちょいと羽ばたけばすぐさま帰れる筈だ。
僕の翼なら、誰より早く帰れる筈だ。
──どこに帰ると言うのだろう?
ぴた。翼が動かなくなった。
あたり一面まっくらけ。光っているのは厄災だけ。
村がない。空がない。湖も草原も一面の雪も渓谷も。
ない、ない。なくなってしまう。
僕がここで逃げたらなくなってしまう。
──ああ、でも、嫌だ。暗い。暗いんだ。暗闇の向こうに心臓を置いてきてしまったみたいだ。
夜は嫌だ。
闇は駄目だ。
弓はどこだ、矢は飛んでいっちまった。
誰か、誰かいないか。誰か“灯り”を持ってはいないか?
弓を探さなきゃ、矢を取り直すんだ。
灯り、灯りがあればもうすぐ見つけられる。
そうしたらきっと、もう少し戦える筈なんだ。
もう少しカッコつけていられる筈さ。
──そうやって、死ぬまではどうにか“僕”でいられる。
だれか、誰か、灯りを。
ほんのひとつでいい。ほんの一瞬でいい。
どうか僕が此処に居ると言わせてくれ。
声を飲み込み、瞬きをやめて、がむしゃらに腕を振るう。水の中を無理矢理に羽ばたいているように、息が苦しく、翼が重い。上を目指しているのか、墜落しているかもわからずにリーバルは暗闇をもがく。止まってしまった瞬間に、自分が自分でなくなるという嫌な確信があった。
とにかく前へ。とにかく先へ。
歩けぬならば、翼を伸ばせ。
羽ばたけなくとも、翼を伸ばせ。
僕のプライドを手放すな、僕の恐怖を手放すな。
それは僕だけのものでなくちゃいけない!
──そうして、伸ばした手に何かを掴んだ、気がした。
掴んだものは焚き火の火種のように熱くて、握り込むと、ぐんと引っ張られる感覚がした。
もがく身体を引き寄せて動かすほどの力は無い。けれども何故だか振り払えない。
自分と恐ろしい闇以外に何もなかった世界に現れた異物。訴えかけるように熱を増していくそれに後ろ髪を引かれて、ついそちらに意識がいってしまう。
これは何なのか。何を訴えているのか。何を、呼んでいるのか。
手の内を確かめる前に、より大きな熱の塊が身体に迫っていた。
災厄の腕がふりかぶり、命を撃ち壊す砲弾が放たれる。
一閃。背後から迫る青い光熱が、身体を貫く。
……──熱い。
「……リーバル様っ!!」
「───ッ?!」
耳元に響いた大声で、一息に意識が覚醒する。
赤い目蓋をぱっと見開いて映るのは、雪よりたしかな真っ白。
飲み込んだ息は冷たく喉をつきぬけて、跳ねた身体はひどく重い。
──まぶしい、それに、痛い。
がばりと勢いよく身を起こして、あちこち骨が軋む。そうだ、自分は戦で負った怪我を押してこの飛行訓練場の寝床に隠れ込んだのだった、とリーバルが思い出したのは、生傷が響かす鈍痛にくぐもった呻き声をあげた後だった。
いくつか傷が開いたかもしれない。ち、と舌打ちをする体力もなかった。
少し横になるだけのつもりがすっかり寝入ってしまったようで、夢見まで悪い。おまけにずっと暗闇ばかりが目と頭にこびりついていて、部屋の明るさに眩暈がする。
リーバルはくらりと意識を遠くやりそうになって、
「大丈夫ですか?!」
と先ほどと同じ大声に引き戻される。
かろうじて見えたのは近づく影中にぼうっと浮かぶ琥珀の二つ星だ。それが誰か人の両眼だと気付くまでしばらくかかった。
顔にしてもずいぶん近いと思ったところでリーバルは目を焼くまぶしさに堪えかねて、きつく目蓋を閉じた。
少しだけ浮いた背がまたふらりと後ろに倒れて戻りそうになり、しかし大声の主がそっとその背を手で支えて、ゆっくりと元の通りにリーバルを横たえた。
寝ころんだまま顔だけを動かして、声のした方をしばらく眩しそうに瞬いていると、逆光の中にぼうっと人影の輪郭が見えてくる。
白いもみじのようなとさか頭に、べっこうみたいな飴色の嘴。それと、朝焼けでバターを溶かしたような琥珀色の瞳が、半分ほど黒い目蓋を伏せて心配そうに此方を窺っていた。
「リーバル様。……よかった、起きられますか」
様、ときたぜ。リーバルは悪い夢のよみがえった赤い夜の、初めてこの琥珀の瞳の男と出会った時と同じ感想をもった。
(赤い空は、悪いものばかり連れてくる。夜闇の前の夕暮れ、魔物の浮舟で埋まった空、狂ったカラクリの光……)
空の支配者と豪語する自分を撃ち落とした、この生傷の原因もまた、大本をたどれば赤い夜のせいだ。
そう思い出すとまた痛みが骨身に染みて、リーバルは声を低くして悪態をついた。くそ、とか、ちくしょう、といったあてどない言葉は、意味を持っていないのにも関わらず、憎々しい思いだけは誰が聞いても分かってしまう。
咄嗟に嘴の中に閉じ込めてみても、舌の上で転がったそれは、なんとも惨めで、リーバルは己が戦士として敗北しかけた事実を否応なしに認めざるを得なかった。
(あの夜、ハイラルの命運をかけた大戦で、たしかに僕は負けなかった)
赤い夜。紅き月の昇る夜。
死した筈の魔物の魂がつぎつぎと蘇り、人々に悪夢のような禍をもたらす不吉な夜。
ハイラルに伝わる世界の仇敵、厄災ガノンの“復活”のことである。
たかだかお伽噺の悪者と、ハイラルの誰もがその脅威を忘れていた。
それが、どこからか現れた預言者というのが、これは真に世界の存亡を揺るがす事件になるのだとハイラル王に奏上して、そこからは本当にお伽噺のように事態は転げていった。
──それは人呼んで大厄災。
大慌てで古の伝説をひっくり返し、古代の遺物を研究して、祖先にならってお伽噺の厄災に対抗する陣を張った。
古の伝説でも使われたというからくり仕掛けの兵器たちを復旧し、なかでも神獣という巨大な戦闘兵器は各種族の頂たる戦士を英傑と名付けこれに繰るを任せた。
伝説にきく退魔の剣とその使い手となる騎士をさがしだした。
あとはその身に流れる女神の血に厄災封印の聖なる力を宿すと言う、ハイラルの姫巫女の覚醒を待つだけ。
そんなあくる日の、沈む夕日が最後の一光を赤くハイラルをおおった時───厄災は、よみがえった。
猿芝居の準備ご苦労とせせら笑うように、ぴったりと最悪のタイミングだった。
とうに夕日は沈んだのに、兵たちが流した血の色とも、厄災の怨念の放つ怪光とも区別のつかない、とかく赤い闇がハイラルを包み、大地の中心たる王城は厄災の怨念が塊になった泥で埋もれ、カラクリと魔物が巣食い、人という人が逃げ出した。一夜の内に廃墟のような有り様になってしまった。
なかでも極めつけに最悪だったのは、苦労して集めたからくりの兵器たちが、二度も同じ轍は踏まぬというようにそっくりそのまま厄災に奪われて、人々を襲い始めたことだった。
王と近衛兵たちは、ガノンの尖兵の巣窟となったハイラル城から脱出する姫巫女を逃がすため、殿を務めて行方が知れない。
退魔の剣の騎士一人では、迫る敵勢から姫巫女を護るので死力を使い果たすが関の山だった。
神獣は、ほかの有象無象のからくりと違ってすぐにガノンの手駒として暴れることはなかったが、決してハイラルの危機を救う役目を果たしようもなかった。
英傑たちは、そんな神獣を取り戻そうと誰の援軍も望めないたった一人の戦場で、諦めることなくガノンの差し向ける怨念と戦い続けた。集められた四人の英傑の誰一人として敗走することなく、死地にとどまり続けた。
──リーバルは、その英傑の一人だった。
(でも、僕は負けなかった“だけ”だ。あのとき、手に弓矢がどれほどあっても、運も巡りも持てるすべてを使っても、僕が勝つことは、できなかった)
ごく、客観的な事実だった。
負けないことはできた。気持ちの上ではいつまでだって戦い続けただろう。もし死後の魂というものがあるのなら、それでだって戦ってみせる。
だが、血を流す肉体は、想いほど長く強がってはくれない。
リーバルの意思のもとに複雑な肉の器が次々と連携して動く現象が、部品を損ない仕組みがバラバラになり、うんともすんとも言わなくなる現象にぶつかれば、その先は何も希望が持てなかった。
赤い夜とはそのような、誰にも痛感せざるを得ない絶望の具現だった。
ハイラルに生きているもの全てが協力してなお、復活した厄災には打つ手がなかった。必死で終わりの瞬間を引き延ばしながら、じりじりと死を待つだけの赤い夜に、二度と朝日は昇らないものかとすら思われたが。
──今も、リーバルは生きている。
傷にうめき、敗北に忸怩たる思いを抱えても、生き延びている。何もリーバルが一人あの地獄から尻尾を巻いて逃げ仰せたというわけではない。
(そう、今、僕が生きているように、あの姫も“あいつ”も、英傑も連合軍の仲間たちも、皆なんとか“夜”をしのいでるわけだ。あの──“青い光”のお陰で )
青い光。姫巫女が連れる白いガーディアンが呼び起こす奇跡。ほんとうに、奇跡としかいいようのない──……
「リーバル様、リーバル様……お加減がよろしくないんですか」
返事をしないリーバルを訝ってか、声と共に琥珀の瞳と同じくらいぴかぴかしたべっこう色の嘴が近付いて覗き込んでくる。
声の主は、リーバルにとって友や家族と呼べるほど近しいものではない。白い羽毛に黒く模様のはいった翼を持ち、その肩に羽型の装甲をつけ、よく鍛えられた身体を持つこのリトの戦士は、どこにでも居そうなリトの同胞にみえて、しかしリーバルの過去の記憶のどこにもいない。
つい数刻前まで同じ戦場を翔て命を預けあった事実だけが細く縁をつないでいるのが、同胞リトとしては異質な男だった。何せその戦士はリーバルより一回り大きくて、一回り年嵩で、“百年以上先の未来を生きている”リトなのだ。
(そういえば、“これ”も、赤い夜と一緒に来たんだったか )
赤い夜を裂いて現れた、青く輝ける救世主たち。奇跡が呼んだ“未来からの使者”。赤い夜がもたらした唯一の福音。
その身に一騎当千の雄たる力を持ちながら、厄災ガノンが復活して未だ何も救えていない英傑たちに対して尽きぬ憧憬と感謝をあらわし、どうか力にならせてほしいと請願する、四人の戦士のことだ。
驚くことに、彼らは大厄災から100年後の未来からこの過去の時代へやってきたと言う。
実際に、彼ら四人はそれぞれ、英傑以外は乗り込むことができないとされた神獣の中へと直接、手品のようにあらわれた。その奇跡を目の当たりにして、さらには彼らの生きる後世に伝説となったらしい大厄災の歴史がぴたりと現状に符合するとあっては、時を越えるという話も信じるほかない。もとよりお伽噺の戦いが現実になっているのだ。
ガノンの奴なんかにありがたがるのはシャクなので、リーバルたちは姫巫女が連れる白いガーディアンとそれが起こす奇跡の瑞兆たる“青い光”でもって彼らを呼ぶ尊称とする。
そして──瞬きをしてリーバルは此方を覗き込む白くて琥珀色をしたリトの男に今一度意識を戻した──リトの同胞のくせして、仰々しくリーバルにかしずくこの男は、その青く輝ける救世主の一人だ。
「テバ…… 」
名前を呼んだが、当のテバの返事を聞く前にリーバルは咳き込んだ。寝転んだまま咳をするのは苦しい。からからに引きつれた咳音に眉をひそめたテバが、身じろぎするリーバルを支えようとするのを片手で制して、一人で起き上がる。
テバは大人しくそれをじっと見守ってから再び嘴を開いた。
「本当に……大丈夫ですか? ひどく魘されていましたよ」
「君、どうして……」
明るさに目が慣れてきたリーバルは、尋ねながら、眩しさの原因がテバの背の向こうの囲炉裏の火であると知った。焚き火の黄色の光と、夜の青い照り返しとで、テバの白い羽毛はいっそう白さが浮き上がって見えた。
視線に気づいたテバは、ああ、と納得した風に頷いて、少し頭を下げた。
「お休みのところを無断で踏み入ったのは申し訳ありません。それと、暗かったんで勝手に火を焚きました。……もしや、目に障りましたか?」
「いや。構わない……でも、どうして君が」
「どうして、は此方の台詞ですよ。火も焚かず、暗がりの中で襲われたら、鳥目の俺たちには手も足も出ない。救援の狼煙もすぐには上げられない。いくら馴染みの土地だって危険すぎる。いったい何を考えておられるんですか」
簡潔にリーバルが眠っていた間の勝手を報告するテバは、あまり悪びれた様子はない。
「今この火急の時だからこそ万が一のことがあってはいけないと、嘴をすっぱくして言っていたのはご自分でしょう」
説教臭い台詞に、ふい、と顔を背けると、さして追及の手はなく、こんこんと説教が続くだけだった。
仰々しいわりに気安いんだか、合理的なんだか。単純と言いきるには、どうもわからない奴だ 。
まあ面倒がなくって良い、とリーバルは未来から来た同胞への分析を打ち切って、現状の把握に努めることにした。
ぐるりと見渡しても屋外は暗く、夜の最中という頃だ。鳥獣も寝静まっているようで、静けさのあまりにしんと冷えた空気の音が聞こえそうだった。
リーバルが先程まで寝入っていたこの場所、飛行訓練場には、訓練に明け暮れる戦士達のために備え付けの囲炉裏と鍋がある。耳を澄ますとパチパチと火の粉が爆ぜる音と、ぐつぐつと何かが煮立つ音がしていた。火だけではなく、鍋も囲炉裏にかけられているらしい。
テバは説教を続けている。
「皆、リーバル様を心配していましたよ。厄災が復活して……あれだけの激戦が続いた後なのに、治療もそこそこに、黙って一人で出ていくなんて。医者が泣いて探し回ってました。かの英傑の治療を疎かにしたなんて腹を切っても詫びきれませんからね。それに、そのご様子じゃ……ろくに腕も上がらんのでしょう」
「そんなことは、」
聞き流していた説教に、聞き逃せない謂れを聞き取って、リーバルは思わず声を張ったが、テバは引かなかった。
「『そんなことはない』、なんて、そんな高さの寝床から言っても強がりにしか聞こえない。ご自身が一番よく分かっている筈です」
「寝床の高さ、って……」
上から覗き込むように此方をねめつけたテバに違和感を持って、リーバルは改めて辺りを見回した。
「あれ……?」
すると、少しの違和感があった。
テバと視線が合わない。
いや、合うことには合うのだが、合わせていると首がつかれる。
壁に据え付けの棚が普段より大きく感じられて、テバの鋼の胸当てが、ちょうど目の高さと同じくらいにある。
テバとリーバルには少しの体格差があるが、以前はつかれるほど見上げる必要はなかったはずだ。しかし、いま実際にはテバと顔を見て話すには何故か普段よりも角度をつけて見上げる必要があった。
「ねえ……君、そんなに背が高かったっけ?」
「いいえ。リーバル様の寝転がっていらっしゃる位置が、低いんです」
「“低い”?」
「俺よりも、寝具の方を見たら早いでしょう」
ほら、と指差された先の壁柱には、雑に据え付けられた留め金。繋がっているのは自分が身体を横たえているハンモックの布。
なるほど確かに、それらは天井よりも地面に程近い。
視線が合わないのは、柱と柱の間に吊り下げるリト族用の寝具の吊り位置が、いつもよりずっと低いせいだった。
「リトの子供用の寝具と大差ない位置で寝転がってるんですよ。だから、急に俺の背が高くなったなんて錯覚なされている 」
ハンモック型のリトの寝具は普通、高い木の枝に留まって眠る鳥の性質に似て、大人のリト族でも見上げるほどの高い位置に設置するものだ。
小さい子供なんかはまだまだ上手く飛ぶことができないから、寝具も地面から昇り降りがしやすいように背丈よりも低く作るのが通例だが、子供の出入りが禁制となっている飛行訓練場の寝具は当然、リトの大人が使うのと同じものだった。
しかし、激戦帰りの身には棚の奥に仕舞い込んでいた寝具を設置し直すのがひどく億劫で、リトの子供用の寝具より少し高い程度の中途半端な位置で諦めて寝転がってしまったのだ。
リーバルは自分の行動を思い返して、きまり悪く視線をそらした。そらしたまま言った。
「だからって、どうして、君が……」
「飛行訓練場に居るだろう、とは見当がついていても、皆、気がひけてしまって踏み込めないようでした。皆は神獣を操って戦線を持ち直した英傑様方が、凱旋に意地を張っているところしか見ていないもんだから。もしかしたら、なんて弱腰じゃあ、鼻で笑って突っぱねられちまうだけだと。……でも、俺は、あの時メドーにいましたからね。カッコつけは効きませんよ」
リーバルは、ぐ、と押し黙った。
腕が上がらずに寝床の設置を上手くできなかったことも、弱っている姿を誰かに見られることを厭って一人で村を離れたことも、すべて、目の前の男には見透かされていた。
「……だったら尚更どうして君はここに来た? 出会ったばかりの、君が、“どうして”?」
それでも、リーバルはまだ、この戦士の前では意地を張ってみせたかった。彼が、未来から来て、リーバルを知っていると言うから。
そんな痩せ我慢を承知かしらないでか、テバは説教ぶった口調を止めて、静かに語りかける。
「……リーバル様。あなたの不撓不屈の気高さは、リトの戦士たちを束ねて率いるに相応しい、立派なものです。あなたの孤高さと、それを貫くに費やしている数々の……」
テバは少し言いよどんだ。
言いたいことは分かっているのだけど、それにうまく当てはまる言葉がみつからない、というふうだった。
「数々の……ご決心は、俺なんかが嘴を挟んじゃいけないものだ。それは、よく承知してます」
“決心”か、とリーバルは胸に繰り返した。単に努力なぞと言いきらないこの男は、やはり誰かリトの英傑をよく知っているのだ。
ですがね、とテバは声を落として、言葉を切った。今度は何かを言いあぐねたわけではない。
沈黙に痺れをきらして顔を上げるリーバルを待って、しっかと視線を交わらせてから、その目に力を込めて訴えかける。
「ですが、あなたは今、一人で居てはいけない。俺はそれだけはハッキリ言えます」
「どうして」とリーバルはそれしか返す言葉を知らない子供のように、掠れた声で繰り返した。
テバはほんの一瞬、少し眉を下げて困った顔をして、すぐにいつものきりりとした表情を浮かべた。
「リーバル様。……誰しも死ぬのは怖いもんです」
──誰がだろう、と一瞬リーバルは不思議に思った。
いったい誰が死ぬというのだろう、と。テバたちが来てくれたお陰で、リーバルらは厄災の侵攻を押し止めている筈だ。
「あのとき。メドーに厄災の化身が現れて、あなたが閉じ込められたとき。あなたは、死ぬかもしれなかったんだ」
リーバルの疑問が声にならずとも、テバはすぐ答えをくれた。誰ぞ死ぬとは、リーバルのことだという。
「今、生きていることとは、また別の話です。だが、もしも、ってほど遠い話でもない。リーバル様。あなた程の力ある戦士ならば、きっと見たんでしょう。背筋を食い破る殺気。せまり来る死のかたちを」
───その記憶を恐れるのは当然の事です。
「死を恐れぬ戦士ほど脆いものはない。己の弱さを知らぬ者の無謀は蛮勇と謗られる。死を恐れてなお立ち向かえばこその勇気、リトの誇り高き戦士です」
──だからこそ、あなたは真に強いのです。
テバの声はリーバルの戸惑いをさらに揺らすように響いた。
慰める、というふうではなかった。同情も憐憫もテバの目には宿っていない。
けれど、普段にテバがみせる“リトの英傑”への憧れの色もまた、そのときの目にはなかった。
(──僕は今、どんなにんげんの顔をして彼の前にいるんだろう)
憧れの英雄か。リトの同胞か。
誇り高き戦士、意地っ張りの怪我人、敗走した若者。
どれでもないようで、どれでもあるような気がした。
考え込んで黙ったままのリーバルに構わず、テバは嘴を開いて少し声を高くして言う。
「だからね、リーバル様。──少し俺の夜更かしに付き合っちゃくれませんか」
夜更かし? と浮かんだ疑問は、やはり喉から出てこなかった。
代わりに「どうして」とリーバルはまた掠れた声を出して尋ねる。
「さっきまでリーバル様が魘されてた声があんまり恐ろしくって、このままじゃ暫く眠れそうにないんですよ 」とテバは大袈裟に身体を震わせて言った。
片手だけで、もう片方の肩をなでさすり、きゅっと身体を竦めて細くしてみせる。体つきがごついのでたいして細くならない。
ちっとも怖がっている素振りに見えないぎこちない様子にリーバルは少し笑った。
そして、笑んだ口許に手をやろうとして、あることに気がついた。
手がぬくい。
これは焚き火や、自慢の羽毛や、体温だけのせいじゃない。寒冷地へ行くのに懐炉灰を入れた金筒を懐中にしのばせて歩く旅人が、身を切る凍り風にたまらず懐に手を突っ込んで指先をあたためるみたいに、他所からじんわり熱を分けられてるときのあったかさだ。
ふと手元に視線を落とすと、リーバルの右手の先は、一回り大きな白黒縞の翼に包まれていた。
テバの滑稽な半分きりのジェスチャーは、もう半分の手が自由に出来ないせいなのだと、気付いてみれば簡単なことだった。
(──僕が起きるまで、ずっと握っていたんだろうか )
リーバルはじっとその握られた手を見つめたが、テバは知らん顔で、怖い、怖い、と言っているばかりだったから、すぐに振りほどいてしまうのをためらった。
ヘブラの夜は寒くて、全身を羽毛で覆うリト族でさえも、布団をかぶって眠るものだ。火を焚いたとはいえ、いまだリーバルの体はよく冷えていた。握った手が殊に温かく感じるのも、夜冷えのせいだ。
それだけだ。
だからもう少し、このままでも。
どうにも掠れた声しか出せない返事の代わりに、握った手に少し力を込めると、テバはちら、とリーバルの様子をうかがってから、やっぱり知らん顔で「ちょいと昔の話ですよ」と言って夜更かしの話を始めた。
「──俺は一度、空のバケモンと戦いに出たことがありましてね 」
そのバケモノは、何の前触れも恐怖の預言も無いあくる日に、突如として空の上に現れ、回遊し始めたのだという。
「疲れを知らず、恐れを知らず、この空の何よりも強大な図体を持つバケモノでした」
リト族でさえ凍えるような高空を、朝も昼も夜も休むことなく浮かび続ける無尽蔵の体力は、それだけでまさにバケモノというにふさわしい。
だが、バケモノがバケモノと呼ばれたのはもっと感情的な理由がある。
「──空のバケモノは、リトというリトが空を飛ぶのを許さなかったんです」
すなわち、リト族を攻撃してきたのだ。ハイラルの生き物のなかで唯一、空を飛び近づいてくるリト族をまるで鹿撃ちでもするように撃ち抜いていったという。そのバケモノと戦いに出たテバもまた、浅くはない傷を負った。
「とにかく手強い相手でした。図体がでかくって動きものろいってのに、繰り出される猛攻に圧倒されて、近づけないどころか弓に矢をつがえる暇もない。それで仕舞いには翼の民が地に降りて、恨めしそうに空を見上げるばかりになっちまうくらいに」
へブラの空からリトの姿が消えたのだ。支配者が引きずり下ろされた。どんな嵐の悪天候でも飛ぶことは止めないリトの民が翼を広げなくなるとは、ヒトが歩く力を失うことにも匹敵する苦難である。
──それはこの度の厄災に勝るとも劣らない大事件だったのではないかとリーバルは思う。
同時に厄災以外にもそんな外敵が潜んでいるというのなら、何としても仔細を聞き出して対策をうちたいとも気が急いた。しかしテバは、いろいろあったのだ、とだけ言ってそのバケモノ討伐については多くを語らなかった。
「それは僕が知るべきじゃない未来の話だからか」と尋ねると、テバは眉を寄せて微笑した。いつもの竹を割ったような豪快な笑い方とは違って、吹雪の中で、吹き付ける雪礫に目を瞑って息を潜める、その口元からこぼれたような微かな声跡だった。
「未来、未来ねえ、そう思いますか」
「訊いてるのは僕の方だ」
「あなたが知る未来は、あなたが選ぶもんにすぎませんよ」
テバは、厄災の復活した夜に初めてリーバルたちの仲間となった。未来から遣わされたという四人の使者の一人。彼らは皆そろって、今から百年先の同じ未来からやって来たのだという。大厄災の危機より百年続いたハイラルから。
それは、いったいどんな未来なのか、今の荒れたハイラルを目にしているリーバルには想像がつかない。
──もしかすると彼らの言う未来とは、リーバルたちがいる今に地続きでない、まったくの異境なのか。
「さてね」とテバは一度ゆっくり瞬いた。
彼らは皆、決まって未来の話をはぐらかす。未来にも今と同じに輝く光がある、とだけ約束して、それでリーバルたちを宥めたつもりでいるのだ。
「……仕事から帰ったその日のことです。歳も七つになって、もう一人で寝られるようになったと息巻いていた息子が、その晩は久しぶりに『一緒に寝たい』と言ったんです」
「……かわいいもんじゃないか」
リーバルはここでようやく掠れていない声を出せるようになった。我が子を褒められたテバはぱっと顔を明るくして頷いた。
「ええ、ええ。ですが翌朝ひどい目にあいましてね」
「悪夢でも見たのかい」
「腹の上で寝小便ですよ」
「うわあ」
「俺の脚も布団もビチャビチャで、もうどっちが漏らしたんだか分からねえ有り様でしてね」
さぞや盛大な地図が描かれた名布団になったのだろう。苦笑いを向けるリーバルに、いや海原ばかりでっかくてたまりませんでしたとテバは肩を竦めて言う。父子揃って母親に随分しぼられたらしい。
「だが、息子だってしたくてそんな粗相をしたわけじゃない。寝小便だってもうずいぶんしてなかった。じゃあ他に何か原因がある筈だって」
どうしたのかと聞いてやれば、幼子は「いなくなるのが怖かった」と言ったのだという。
「『いなくなる』のが怖かった? 『誰』が?」
「それが、『俺』だと言うんです」
──父ちゃんがいなくなるのが怖かった。帰ってきたのに、ここにいないみたいで、おそろしかった。
──父ちゃんはそこにいるのに、何だかかえってそれが怖いような気がした。だってそこにいるってことは、いつかいなくなっちゃうかもしれないってことだ。
──でも父ちゃんはいるし、怖がるなんて変だ。
──こんなに分けも分からずおそろしく感じるのは、もしかしたらここにいるのはオバケが化けたニセモノで、本物の父ちゃんはまだ帰ってきてないんじゃないかって──……。
「それで、『──もしオバケだったら父ちゃんの代わりに、ボクが母ちゃんを守ってこのオバケをやっつけなくっちゃいけない』って、怖々と懐に飛び込んでみたそうです。それで、俺が寝てからあっちこっち確かめて、きっと本物だ、と安心したら、うっかりやっちまったんでしょう 」
幼くともいずれ戦士になるリトの男子だ。何も相談せずに抱え込むのは危険だが、恐れを感じながらも対処をしようと試みることができるとは大した度胸がある。
「強い子だ」
はい、とうなずいてテバは首をかく。てれくさいのかもしれない。
「俺が留守にしている間は、近所の子や妻が心労で弱っていたのとは対象的に、俺が帰ってきたらどんなふうに遊んでもらおうかと楽しみに言っていて、戦から帰ってきたその時も、俺の怪我に驚きはすれど変わった様子なんて無くって。怪我を見て『これじゃしばらく一緒に遊べないのか』と文句を言ったくらいでした」
「尤もな言い分だね。君は戦士の仕事にかまけて、父親の仕事がすっぽ抜けてたんだから」
「そう言われると、なかなか耳に痛い。だが、そんな勇敢で利発なチューリでも怖れを抑えきれん何かが、あったようで。俺は、チューリが泣きべそかいてそう明かしてくれてから、そのことにようやく思い至って、胆が冷えました」
息子の名前はチューリというらしい。リーバルはその名を通して幼子がおびえた何かについて想像を巡らせた。
強がりで勇敢なリトの男の子が、泣いておねしょをするくらい怖いもの。そばにいるのは戦帰りの戦士。それも怪我をしている。母親は憂慮で落ち込んでいたのが、父の帰還できっと花ほころぶように安堵の笑みを浮かべるようになったのだろう。
だがそれは、母親はいかなる恐怖にも、それまで積み上げてきた記憶とその生命を確かめることで和らげる術を既に知っているからできたことだ。幼子にはまだその恐怖を耐える術が足りない。それどころか、戦士の帰還で一転した母親や村の活気によって、かえってそれまで周囲を支配していた恐ろしいものを認識できるようになってしまったのだろう。
幼子が見たオバケの正体がわかったリーバルは嘆息した。「“死の気”か」
テバはうなずいた。「身命かける戦ごとなんて、俺たちの時代にはめったにあるもんじゃなかったもので」
──自分も、母も、友達も、この父親さえも、二度と会えなくなる死の離別が存在するのだ。そしてそれは、ついこの間まですぐ近くにあったのだ。
幼子がそれほど明確に死の概念を理解したかはわからないが、その空虚を感じ取ったのは確かだろう。
気付いたテバは、たいそう困った。
仲間を傷つける敵がいるというなら飛んでいって弓を射かけてやっつける。怪我が痛いというなら薬をとってきてやる。そんな単純なことならどうとでもしてやれるが、目に見えない、戦えない、敵ですらないその恐ろしいものに対して、戦士というのは無力だった。
怖じ気が自らや同じ戦士のことならばええい軟弱なと叱咤もしようが、まだ弓も持てぬ幼い子に、「それは誰にも抗えぬ自然の理であって、忌憚し避けようと努力こそすれ、むやみやたらに怖がっても仕方のないものなんだ」等と諭すことができようか。
「血は洗い流したし、傷は綺麗に手当てした。バケモンがいなくなって村はもう宴の勢いで賑わいを取り戻していた」
それでも。焦げた鎧、焼けた肌、傷の増えた弓に、煤っぽい髪。そういうもの全部が、まだ死を纏っていた。
「ゾッとしない話です。俺はバケモンを倒して、そうすりゃ全部が元通りに、平穏が戻るもんだとばかり思ってた。原因さえ取り除けば、もう誰も怖がったり不安に思ったりしないで済むって。……でも、そうじゃない。戦ってのは、起きる事それ自体が消えない瑕だ」
一度染み付いた死の気配、戦禍の苦しみが植え付ける恐怖は、戦士だってなかなか消せるものではない。戦う力のない女子どもや町人なら、なおさらのことだ。明日を失う恐怖は、特に。
「その瑕の気配に気づけたその子は、きっと優秀な戦士になれるだろうね」
だが、気づいた真理を飲み下すには、幼すぎる。
「……哀れだな。せっかく、殺し殺されるなんて生臭い戦いがないっていうのに」
テバは目を伏せ、黙してうなずいた。
リーバルはテバが生きているという未来の話をあまり知らない。どんな時代、どんな生活をしているのかも。今なお続く天下分け目の大戦にはその余裕も無かったし、先のようにはぐらかされることが多いからだ。
それでも分かることがある。
(──テバは無鉄砲だけど、ちゃんと死の恐怖を知っていながら、それを乗り越えたことのある戦士だ )
だが、テバがあまり大きな戦を経験したことがないだろう事だけは知っていた。個の戦士としての力は申し分ないテバの戦い方は、戦場で敵味方が入り乱れる戦争を想定した群の兵の動きとしては、どこかぎこちなさが目立っていた。
幾つかの場数を踏むうちにテバは立ち回りを直していったから、その違和感はすぐ薄れていったが、最も近くでそれを見ていたリーバルには、テバが、今のような大戦の存在しない世を生きてきたのだと察せられた。
そしてその予想は的を射ていたらしかった。
( けれど───テバが生きてきたのは、ただ戦が無い平和な世界ってわけじゃ、無いんだろうな )
弓を扱う態度が、食事の所作が、眠るときの身体の強ばりが、町の活気を眩しそうに眺める目が、なにか取り返しのつかない喪失を知る者の淋しさをまとっていた。
リーバルには、その理由を知ることはできない。知ってはいけないことのように思う。
「皆、今日明日を生きることに必死だから、忘れてしまう。忘れようとしている。だが、英雄と呼ばれた人も、ただの戦士も、村を往く女も子供も、誰もが必ず命尽きていく存在だ。それは今日かもしれないし、ずっと先のことかもしれない。死の気配はいつでも俺たちのすぐ傍で、ぽっかり口を開けてる。──そいつを否が応でも頭の隅にねじ込んでくるのが、戦っていう瑕だ 」
テバの言葉に、リーバルはヘブラの防衛戦闘を思い出していた。
姫巫女たちと出会う前、リト族たちが自分達だけで自分の生活を守ろうとしていた頃の戦いだ。
謎の黒いガーディアンが率いる魔物の軍勢相手に、リーバルは例外的にリトの戦士たちを束ねる頭領格になった。個々のプライドの高いリトの戦士たちは普通、誰かの指図で動くのは嫌がるものだ。同じ場所で戦っていても、それぞれが競い合うように獲物を討ち取っているだけで、協力したり連携を取ったりというのは、ごく珍しいことなのだ。
それでも、リトの戦士たちは結束した。
戦の恐怖を知ったからだ。一度目の襲撃で失ったものの多さが身に染みたからだ。死が、迫っていたからだ。
「つまるところ、死ってのは……近くに気配を感じるだけでも何も知らないガキがちびっちまうくらい、恐ろしいもんなんです。そしてその見えないおぞましさには、たとえ戦士であっても、見えないことのままに押し隠してしまうくらいしか、抗する術はない。俺たちがいくら弓の腕を磨いて、立派に翼拡げて飛んで見せたって、心から怖がっている奴らには何をしてやることもできない 」
誰しも死ぬのは怖いものなんです──とテバは繰り返した。
死ぬのも、死なれるのも、恐ろしいことに違いはない。
そこには戦士も子どもも大人もない。英雄も民衆も、愚かさも賢さも関係ない。
だから、とテバは眼差しを強くする。
「あなただって、恐れてしかるべきものなんだ」
いつのまにかリーバルよりもテバの方が握った手に力を込めていて、リーバルは一つ、逃げられないな、と悟った。
「君は……僕が、おねしょをするような歳に見えるのかい」ぽつりとこぼれた嫌味は力がない。
「ははっ、まさか」
目を細めて笑うと、この男は存外、顔の作りが整っている。
「──俺は、怖かったですよ」
ふわ、と羽毛のかぶさるような柔らかい声だった。寝付く子供にそうっとおやすみを言うような。聞こえないように、けれど聞きたいならば確かに届いてくる。ふわふわ柔いのにすっと芯が強くて、身体の重みを委ねたくなる。
「ねえ……リーバル様。俺の夜更かしに、付き合っちゃくれませんか」
テバは話し始めた時と同じ文句を言った。そこにはゆっくりと一言ずつ言葉を染み渡らせようとする誠実さがあった。
「……ゆめ、を」
その声につられて、リーバルは自然と言葉を紡いでいた。
「夢を……みた。暗くて、終わりがなくて……どこにもいけない夢だ」
悪夢ですか。と柔い羽根の声が尋ねるので、頷いた。
「悪夢は人に話すと良い。物語にしちまえば、身体からは離れていくんです」
とっておきの“まじない”を知り合いの詩人に聞いたのだ、となぜだかテバが誇らしげに言って、それきりテバはリーバルが続きを話し出すのを黙って待った。
リーバルはもう一度手を握りしめてから、ぽつぽつと夢の出来事を語った。
乾いた血がべったりと視界に張り付いたかのように赤黒い闇。赤い夜の闇。
夜がひたすら暗くて、落とした矢も弓も探せない闇が、怖かった。
それなのに自分の姿ばかりが闇に浮いていた。
何かが追ってくる心地がして、いつその何かに見つかってしまうか、と背筋が粟立って。
その何かに出くわしてみれば、どうしたことか弓も矢もないどころか羽ばたいても風ひとつ起こせない。
逃げられないことよりも、足掻くことができないのが恐ろしかった。
ただ一人で、抗ったことを知られぬまま、闇にのまれるように消えることが、何より恐ろしかった。
──リーバルのみた夢には、語るほど物語がすくなかった。
舞台は赤い真っ暗闇。キャストは己と厄災の化け物二人ぽっち。
始まりも終わりもぶつ切れた、夢らしいといえばそういう夢だ。ここからやまや落ちをつくりだすのは、詩人ではないリーバルには難題だ。ただあるがままを並べただけのこれでも物語と言えるのだろうかとリーバルは不安に思う。
そして、そんな不格好な物語を聞き終えたテバはほう、と大きく息をついた。
「リーバル様は悪夢の中でも、相変わらずリーバル様なんですねえ。凄いもんだ」
人の真剣な不安に、のんきな言い種である。「はあ?どういう感想だよ」リーバルの返しもつっけんどんになった。
「だって闇に自ら輝くものと言やあ、星でしょう?」
話が飛んだ。リーバルはぱちくり瞬いた。この男は一人だけ言葉の連想ゲームでもしているのか。さっきまでの繊細な心地が吹っ飛んだ。
「だって闇のなかでも自分の姿が見えたということは、やはり、あなたは自ら輝く星だったということだ!」
うんうんと一人分かったように頷いて、嬉しそうだ。
その連想はリーバルの夢から始まりリーバルに帰着したらしい。みじかいものだ。いったい何がそんなに喜ぶことなのか、リーバルにはとんと分からない。
その念が通じたのか、テバは慌てて、リーバル様はご存知ないでしょうがと講釈をする。
「俺の生きてる未来のリトでは、あなたは夜と共に襲いかかった厄災を、その暗闇のなかで打ち倒したという伝説があるんです。しかし鳥目の不利は英傑様と言えど変わらないから、厄災を倒してその夜闇にご自分も大きく手傷を負ったとも」
それがどう星とつながるのだろう。まあ聞いてくださいよ、とテバは至極たのしげだ。
「夜ってのは俺たちリトにとって憎い時間です。自慢の鷹の目が利かなけりゃ弓も射かけられないし飛ぶことも難しい。かといって灯りを持ってちゃうまく戦えませんしね」
夜になったら諦めてうずくまっちまうしかない。俺たちリトには夜を生きる術はないものだと端からいじける奴ばかり。
「ところがリーバル様は、そんな夜闇のなかを大敵と戦い抜いたという。これは、俺たちには大きな衝撃でした。驚いて、そして憧れた。諦めきれない目標になった」
鳥目で見えない夜の闇のなかに、あなたという導ができたのだ。そこの一節だけ、テバは少し懐かしそうに目を閉じて言った。
「それで、リーバル様のことがちょうど、星にたとえられているんです。自ら光を示してみせたもの。夜を越えて世界を救った英雄。目指すべき空の果ての光。戦士が夢追うリトの星、とね」
どうしてそんな。という声はとうとう音にならなかった。
星、ほし。リーバルは見たこともない。リトの鳥目に夜空は見えないのだ。
厄災と戦えたのはメドーが回路を燃やして灯りにしてくれたからだ。けしてリーバルが輝いていたからではない。
そう言えば、テバは、そういうことじゃないんですよ、と笑う。
「俺の生きる百年後の世界に……あなたの姿を見覚えたリトは死に絶えた。だから俺たちは夢で見るしかあなたの姿を見る術がない。目蓋を閉じた裏っ側の夜闇にしか見ることのできない光だから、星なんです」
だからリーバル様の悪夢をはらっちまうのは簡単です、とテバは言う。
話が戻ってきた。リーバルはにわかに意気込んで尋ねる。
「どういうことだい」
「リーバル様は夢の中で闇がおそろしいんでしょう? 明けない闇夜が。でも、星のあなたがいるんなら、闇を払うのなんて簡単です。──星が飛べば、必ず夜が明けます」
「どうして?」
「だって、太陽は、星の光を追いかけて東から昇ってくるのだと言いますからね」
星が夜を飛びこしたら、太陽だって大慌てでやってきますよ、と。その言葉を聞くと共に、リーバルの脳裏には、あの青い光がひらめいた。
じゃあ。あの時、背後に迫っていた光熱は、──僕が、掴んだものは。
リーバルは咄嗟に尋ねる。
「君もかい?」
「はい?」
「君も、……いや。君も───星を追うのかい」
「ああ……それは勿論」
「それはどの星?」
「どのって……鳥目の俺たちに見える星は、たった一つきりですよ」
夜の見えないリトの戦士を導く星ひとつ。
リーバルは先もそう聞いたばかりだ。面映ゆいことに、それが自分を指すらしいことも。
でも。確かな言葉がほしかった。
「俺だってあなたを追いかけてここまで来ちまったんですから」
リーバルは息を吸った。続くのは呆れたため息か、小憎らしい自信家の笑みか、どちらかしかない。リーバルはいま、リトの英傑としてこの男の前にあるから。今この瞬間にそうありたいと決めたからだ。
決めた──のだけれど。
──異臭がする。リーバルは眉をひそめた。
「ねえ、……何だか、少し焦げくさくないか?」
「焦げ……? ッうわ! やべえ!」
ばっと勢いよく後ろを振り向いたテバの視線の先で、鍋からシュウシュウ黒みがかった煙が上がっていた。異臭の原因はあれらしい。ばたばたと慌てだしたせいで、あわい空気ががらがらと崩れたような気がする。
「この中身は……メーベ牧場のフレッシュミルクかな。焦げついたら鍋が大惨事だよ?」
「やっちまったか!? いや、まだ何とか……!」
言いながら、戦場もかくやの機敏な動きでテバは鍋に煮立ったフレッシュミルクを救出にかかった。
水差しを引っ掴んで火元に水をぶちまけて荒っぽく火の始末をし、棚にとびつき器をとりだす。
さっと鍋の前に戻ってくると、木のお玉で綺麗な上澄みだけを掬い取り、丁寧に素早くカップに移す。カップはいったん棚の上に置いて、鍋の方の救助は後回しにするとみえて、フタをかけた。
戸棚から備蓄のはちみつビンと木のスプーンを取り出して、カップと、先ほどは気付かなかったが木のボウルの横に並べる。見ると、リーバルが目覚める前から用意していたのか、ボウルの中には果実をすりおろして煮込んだようなものが入っている。リンゴだとテバは言った。
白い湯気の立つミルクカップにぽたりと一滴はちみつをすくい落とし、すりおろしたリンゴのコンポートをすこうし混ぜこんで、ほんのり甘い匂いのするホットミルクのできあがりだ。
「よろしければ……どうぞ、リーバル様の分です」
おずおずと差し出されたカップをしげしげと覗き込んで、リーバルは思わず言った。
「……この量で、二人分?」
カップの中には、およそ半分ほどの高さまでしか液体が注がれていない。いくらリト族のミルクカップがその大きな翼の手にあわせて大きめにできていると言っても、これっぽっちでは、ハイリア人の持つティーカップにも一杯に足らないだろう。
テバの方を見やると、不格好になった自覚はあるのか目が泳いでいる。
「ま、まあ、量が少ないお蔭で寝小便の心配が無くなったと思えば!」
「ふうん。まあ、小便垂れを言いふらされちゃった君の子供に免じて、今回はそういうことにしてあげようか」
「ええ、まったく。……そういうことにして貰えると、助かりますよ」
すっかり調子を取り戻したリーバルの皮肉に、テバは肩を竦めて返した。
そうして、互いに離して空いた手にカップを持った。焦げかけるほど熱されたミルクが注がれたカップは相応に熱くて、中身が飲める温さになるまでの間、リーバル達の手を温めた。
熱いくらいにあたたかい筈のミルクカップは、どうしてか手の中に収まるとじんじんと響いて、さっきまで手にしていた翼の方がずっと熱かったように思えた。
「まだ冷めていないかな」
「たぶん、まだです」
両手でカップを支えて、かえって手のひらから熱をすいとられるような不思議な心地を夢想して。
「……もうそろそろいいんじゃないか?」
「もう少し、ですかね」
言っておきながら、ちょっと嘴をつけて、あちちっ、とテバが飛び上がる。
「もう少しって自分で言ったじゃないか」とリーバルが呆れて言えば、
「ぬるくなったら嫌じゃないですか」とテバは苦笑した。
「……そうだね。ぬるくなったら、少し寂しい」
リーバルは静かに同意して、また、二人黙ってミルクが飲める温度になるのを待った。
カップを持つ手をあちこち入れ換えて、互いにぼうっと火を見ていたが、なぜだか口をつけるタイミングは丁度同じになって、飲み終わるまでも同じだった。
二人分のミルクカップを片付けても、外は夜明けの遠い宵闇で、鳥目には見えない夢と星、その続きがまだそこで息づいているような感覚が、熱いミルクで温まった胸をまだずっと、ほとほとと燃やしている。
黙したまま食器の始末をして、次にはわざわざ焚き火を消えないまま燻るように焚きなおし始めたテバの背中越しにリーバルは声をかける。
「君、どうするんだい。このあと」
「ああ、まあ、村に戻ります。折角、宿を用意して貰いましたし」
「でも、もう真夜中だろう」
「村と飛行訓練場を行き来するのは慣れていますから。夜だって何度もね。平気ですよ」
「君の居た百年後とは地形も、空気の流れも、魔物や獣の行動範囲も少しずつ違う筈だ。油断はよくない」
「それはそうですが……」
「もう一式、寝具の予備がある。今晩は此処で眠っていくといい。訓練でもないのに、わざわざ夜に飛んでいく無茶をする必要はない」
「リーバル様?」
食い下がるリーバルに、テバは言葉で尋ねることを止めて振り返り、じっと翡翠の目を見た。翡翠の二つ眼の奥にはちろちろと後ろの焚き火の光が映っていて、テバの側からだとそれが星空のように瞬いて見えただろう。
「──暗闇を一人で飛ぶのは危ないんだ。たとえ、どんなに優れた戦士であろうとも」
「……お言葉に、甘えましょう」
ようやく頷いたテバに、それでいい、とリーバルは満足そうに息をつき、肩の力を抜いた。
そうしてテバが火の世話を終えて、吊り式のリトの寝具を広げる様子を見ていたが、そのうちに眠気が戻ってきた。
テバが固定具を柱に打ち付けたあたりで、うつらうつらと舟をこぎ、ばさりと敷き布が吊るされる頃には目蓋がくっついて開かなかった。
がくり、と首が傾いで落ちる寸前に、柔い羽根がかぶさるような感覚がした。
あたたかく、絶えない鼓音に安堵する。
ここにいる。声がとどく。
孤高の先に、応えるものがある。
目蓋の裏が赤い暗闇をつくる。囲炉裏の火で赤く透ける、熱そうな闇だ。
そのまま闇に溶けるような心地で、リーバルは遠のく意識を委ねた。
──そしてリーバルはまた、夢を見た。
夜の悪夢が、また赤く身体を蝕んでいく。相も変わらずリーバルばかりが光って目立つ暗闇。地面も天井も壁も分からず、飛べぬ身体は鉛のように重い。
追われている、という感覚だけが鋭敏に研ぎ澄まされて、あのときと同じ、身を喰らう光熱が迫り来ていた。
でも今度は違う。
──名が、呼ばれている。
追われる感覚に、焦燥よりも期待があった。
捕らえて殺す悪意ではなく、手を伸ばして並び立とうとする憧憬が。
──あの光は『此処に居るのが“僕”だ』と知っている。
名を呼ぶ声と共に大きくなる光。
白い光を翼に宿した、朝日の鳥。
あれは、悪夢を醒ます明烏。
──僕を追いかけ、僕の為に来てくれた、夜明けのひかりだ。
「リーバル様!!」
溌剌とした呼び声に目を覚ます。二度目ともなると混乱は無く、リーバルはゆっくりと身体を起こした。何度か目を瞬いている間に、声は傍からバルコニーの方へ駆けていく。あくびをかみ殺しながらサイドテーブルに手を伸ばすと、水差しとコップが用意されていた。昨晩のリーバルはハンモックに寝転んだきりだったので、これらはテバの計らいだろう。ありがたく水をコップに注ぐ。
「朝、朝ですよ。夜明けです。昨日までの暗雲が嘘のようだ」
お節介を焼いた当の本人は朝からずいぶん弾んだ足取りのようで、伝う振動に手に持ったコップの水がちゃぷんと揺れた。リーバル様、と自分の名前を呼ぶ声だけは距離に対してほとんど変わらない声量で飛んできた。低い声が興奮で上ずって、随分おさなく聞こえるようにも思われる。
「さあ、リーバル様!もう起きておられますか?」
「ああ、つい今し方ね!」
再度の揚々とした呼び声につられて、此方の語調も跳ねる。リーバルは自分の嘴の端がすこし持ち上がっていることに気づいて、どうしたんだい、と殊更に平然を装って返事をしてやった。
するとテバはバルコニーの出入り口の柱の陰から、のけぞるような姿勢で、顔だけをひょこりと覗かせた。
そして腕を広げて、
「外を見てください、晴れましたよ! ヘブラの雪山が朝晴れなんて、珍しい!」と、空を指して笑った。
柱と屋根に遮られ、リーバルの寝床からは晴れ空を見ることはできなかった。しかし日差しを受けるテバの真っ白い羽毛が、雪の中を走り回った犬ころのように朝日できらきら光っていることから、今朝が気持ちの良い晴天であることを知った。
万年氷漬けのへブラ山脈は吹雪の強弱こそ激しく変わるが、晴れ間が続くことは滅多にない。麓に近いこの訓練場も、年の大半が降雪に見舞われている。気温の低い朝晩は特に、雪と霜が訓練場全体を薄暗く覆っているものだが、今朝はどうも様子がちがうようだった。
「風も上々、ぱりっとして良い空気だ。こんな朝を寝惚けたままじゃ勿体ねえ。風避けもとっとと片付けちまいますよ。へブラの北風はどんな目覚ましよりも眠気によく効きますからね!」
テバが身を引くように立ち位置を変えると、ほの冷たい風と朝の日差しがサッと切り込むように室内へ入ってきた。
暗がりに差し込む明光と風切りの音にぼんやりとした頭の朝靄が払われていくのを感じて、リーバルは目を細める。
「……こんな夢なら何度か見てもいいか」
希望を歌う夜明け。お節介な呼び声。
いつか懐かしく思う時がくるんだろう。離れていく夢を名残惜しく目覚める朝がくるんだろう。
リーバルは一つ理解した。
(──夜を往く星の方からも、太陽は見えてはいないんだ )
「いま、何か仰いましたか?」
「いや、なにも。少し眩しかっただけ」
そうですかと、テバが屋内へと踵を返す。ひゅう、と一際大きな風音がして、室内に朝の澄んだ空気を連れ込んだ。部屋の内に一人増えるだけで、寒風のうすら寂しさは消え、朝支度の忙しさに空気が変わるようだった。
「改めておはようございます、リーバル様。ご体調は如何です」
「ああ。おはよう、テバ。悪かないよ。すがすがしい朝日のお蔭かな」
そう挨拶を返してやるとテバはほっとしたように目尻を緩めて、またすぐにきりりと顔を引き締める。次に嘴が開けば、意気衝天な戦士の顔に様変わりだ。
……本日は良い飛行日和。訓練にはもってこいの空模様。兵たちにはどんな訓練を指示いたしましょうか。今日の部隊の組分けは。各地の戦場の塩梅は。連合軍に届いている依頼はどれほど……。
次々と今後の予定について話を進めるテバは、未来への希望と責任感に燃えている。
くわりと大きく嘴を開けてリーバルはあくびをした。無防備なそれを見たテバが思わず嘴を閉じてぱちくりと目を瞬いている。リーバルは真面目くさったその顔がもう一度さっきの晴れ空みたいになるところを見たかった。
「ああ、悪いね。眠くって」
いえそれはいいんですけどもと、テバは目の前の寝起き顔に何かしら感じたものをいや果たしてどう言ったものか言いあぐねる様子で、しきりに首を傾げている。リーバルの目論見とは少し外れたが、これはこれで面白いからよしとしよう。
「俺たちの戦いはようやく敵が見えてきたところです。おちおち寝てもいられませんよ。皆、あなたのことを待っている。リト最強の戦士がいなけりゃ、へブラの戦は始まりませんからね」
「わかってるさ。君がいなくたって僕は戦士達の指揮を執っていたんだから。……ところで、朝ご飯は焦がしてないよね?」
「だッ……大丈夫です。二度も同じ失敗はしやしませんよ」
「なら良いけど」
大丈夫、と言いながら、テバはちらりと囲炉裏の鍋に目をやっている。リーバルは本当に大丈夫かな、と思いながらくすりと笑った。やはり、テバがわざわざ早く起きて朝食の支度までしてくれていたらしい。
「ミルクの焦げ付きを洗うのは大変だったんじゃないかい? 宿に戻れば、村の皆が食事の準備くらいしてくれるだろうに」
「俺は、目の前の嵐にがむしゃらに首を突っ込んだだけです。真に大局を変えたのは元からあの戦場に居た他の奴らでしょう。それを恩人だのなんだのと担ぎ上げられるのは、むずがゆいんですよ」
「そうは言っても、実際その後から僕らと一緒に戦場を飛び回ってあちこち救援に行ってるんだし相応分の恩はあるだろう。恩義には礼を尽くすのがリトの誇りだ。受け取らない方がお互い坐りが悪い。君も知ってるだろ。事情はどうあれ、同じリトの仲間なんだから」
「まあ、それはそうですが」
「それとも何かい、あっちこっちから感謝されて皆と賑やかに過ごすよりも、僕と一緒に居ていろいろ皮肉を言われる方がいいって?」
「いや、あの、ええと」
急に慌てたように口ごもる。期せずして何か当たりを引いたらしい。へええと、面白がる調子でリーバルが覗き込むように先を促せば、テバが観念した様子でもぞもぞと言う。
「たしかに、そう、そうなんです。いや別に変な意味は無いんですよ。ただ俺が……リーバル様とゆっくり話してみたかったので。厄災が復活してハイラル中が戦だらけの状況に、浮かれた事を言っているとは思います。ですがやはり、リーバル様はずっと俺の憧れの英雄ですから」
リーバルはふいをつかれて、一寸のあいだ黙った。昨晩の面映ゆさがぶり返したようだった。
憧れと、そう口にするテバは、いつも戦場で苛烈に飛び回る戦士とは別人のようにリーバルの目に映る。かといって、拠点で仲間たちと話しているときのような朗らかさとも違っていて、温いのに鋭く、尖っているのに薄柔らかだ。
湖面の照り返しのような、朝露の輝きのような、目を細めたくなるその慕情の正体は、リーバルの持つ言葉では適切な表現が見当たらない。
ふうんと、リーバルは瞬きのあいだ目をそらして、次の目が開くと同時ににやりとした笑みをつくった。
「僕の素晴らしい活躍が、百年だかの未来にもずっと伝え継がれてるってのは、ま、当然と言えば当然だけど、悪くない。なんたってリト族いちの戦士、大空を翔る風の英傑リーバルだもの。それで君は、こちらの“憧れの英雄”さまに、いったい何が聞きたいんだい?」
昨日のようにはいくまいよと、せいぜい気取ってみせたつもりが、テバはするりと受け流して答える。
「そうですね。たとえば、朝飯はパンとコメとどっちが好きか、とか」
「……朝飯、」
面食らったリーバルがおうむ返しに呟き、テバは「ちなみに今朝はコメです」と言って、ナベのフタを取り、中の雑炊をお玉でかき混ぜた。ふわりと食欲をそそる出汁の匂いがする。どうやら魚が入っているらしい。
「……僕の話が聞きたいって、そんなこと?弓の引き方や、飛行技術の話じゃなくって?」
「たかが『そんなこと』と思いますか?」
「そりゃそうだろ、そんなこと、リトの村じゃ誰だって知ってる。この村はよくも悪くも、皆が身内だ。知られたくないって言ったって、ぜんぶ筒抜けだ。それに、そんなこと、知らなくったって僕の武勇を理解するのに何の不都合だってないじゃないか」
リーバルが言い返すと、テバはフッと笑って「うらやましい」と言った。
「俺は……俺の生きる百年後の未来には、世界を護った英雄がいったいどんな青年だったのか、もはや誰も知らない。英雄の武勇と戦士の憧憬を夢見せる御伽噺には、『そんなこと』だけ、ぽっかり穴が空いているんです」
「夢だと言うなら、なおさら変だ。『そんなこと』で済むつまらない話が、わざわざ必要なのかい」
「リーバル様だってさっき、“リトは皆が身内だ、知ってて当たり前”って言ったじゃないですか。子々孫々と語り継ぐほどあなたを慕ってるのに、その身内らしいことを何も知らないなんて寂しいと思いませんか」
「……本当に、僕が百年を語られ続ける英雄なのか」
「まさか、お疑いだったんですか」
いや、と今度はリーバルが口ごもる。
疑っていたわけではない。あの夜に奇跡を目の当たりにしておいて、命の恩人の言を疑うほど、リーバルはひねくれた心は持っていないし、自分が他人から見て称賛を集めてやまない人間だという自信はあふれるほど持っている。
ただ、現実感がなかった。いまリトの仲間達に慕われる気安さと、ハイラルを背負いし英傑と称えられる充足よりも、ずっと深く続いているその敬慕の重さが、リーバルには未だ想像に難いのだ。
「ただただ不思議なんだよ。どうしたって知りたいと思うのか」
「そりゃ知りたいですよ。俺たちはどうしたってカッコいいあなたに憧れちまうんですから。覚えてい続けるために、縁となるものは多い方が良い。だって忘れてしまいたくないから、俺たちは唄ったんだ」
「唄?」
「『射る矢は細を穿ち、天駆ける姿は疾風のごとし』」
テバは朗々と節をつけて詠った。リトの伝統的な韻律に合わせたその唄は、しかしリーバルには聞き覚えの無いものだった。
「リトの男なら、誰でも言い聞かされて育つ、英雄の謳い文句です。逆に言えば、俺たちが知る英傑リーバルという人は、この言の葉たちが全て」
テバは懐かしむように語った。テバの生きる未来で、百年も経ってようやく英傑に関して書かれ、可読な状態を保った文書が見つかったこと。そこで初めてテバは英傑の為し得た絶技の名前を知ったこと。
──それまで、英傑の為した奇跡は、その技の名すらも残っていなかったこと。
「伝える筈の者が皆、戦にのまれて、夜の闇に羽ばたいて消えっちまった。百年を焼き尽くした厄災の怨火はリトの英傑がどんなヒトだったかという記録はおろか、記憶すら焼いちまった。──俺たちリトの民は、少しでもあなたを覚えていたいと弓を引き、詩を綴り、空を羽ばたきましたが、あなたの影は遠退くばかりだったのです」
「だから、『何が好きか』って?」
「そう。『そんなこと』があなたの言葉で聞きたいんですよ」
「こんな夢のようなこと、折角の機会ですし。それに、」と一旦テバは咳払いをした。居ずまいを正し、ぴんと背を伸ばして向き直るので、リーバルも少し緊張を背に走らせて向かい合う。
「リトの戦士の誇る弓に翼。そういうことは、戦いの中で十分にご教示いただいていますから。俺だってリトの戦士の端くれ、“技”は、教えて貰わずとも自分で覚え取ってみせます」
「ヘえ? なかなか言うじゃないか。口振りは確かに一人前のリトの戦士だね」
歳の差を食って知らん顔するようなリーバルの物言いに、テバは気分を害するでもなく、不思議そうにきょとりと瞬いた。
「そうでなけりゃ、『リーバル様を越える』なんて夢のまた夢だ。そうでしょう?」
「──ハ!あっはっはははは!!」
続いた言葉の傲慢さに一瞬だけ目を丸くして、体が軋むのも忘れて、リーバルは大笑した。
「なにか、おかしいですか?」
「おかしくない、一つもおかしくないね。ああ、それでこそリト族の戦士さ。僕の真似じゃなく、僕を追っかけるでなく、僕を『越えてみせる』と言ったなぁ、テバ! それがどんなにリトの戦士達の顔をくしゃくしゃにさせて、諦めさせている道か、知ってるか?」
「知ってますよ勿論。言った筈です、俺はガキの頃からずっとリーバル様に憧れて、戦士になったんだ。それくらいのこと、とっくに承知に決まっています」
そう言ってみせる戦士は、リーバルの出会った誰よりも不遜で、傲慢で、愚直な男で。
「それで?──僕の進む先に立とうって言うんだね。テバ」
「だって、俺の進む先にあなたがいるもんだから」
誰よりも、リーバルと同じ空の果ての夢を見ている男だった。
──ああ、面白い。面白いから……惜しいなァ。
リーバルは今この時代にこの男と出会ったことを、初めて後悔した。“それ”はほんの爪の先くらいの後悔で、心地よく胸に思い出を引き留める重しだった。
「なあ君、宿の部屋は引き払って、ここで寝起きしなよ。もちろん、宿と違って無料とは言えないけど。僕も、戦だけなら問題ないけど、しばらくは介添えが要りそうだからね」
「良いんですか。俺がお役目を頂いて」
「ああ。僕も君と話がしたい。僕らの目指す先が同じかどうか、確かめてみたい。弓を引いて、翼を広げて、そうしたらきっと分かる。“ライバル”に教えを請うなんてのはシャクなことだけど──向き合って、戦って、競い比べてみるのは、べつに構わないだろ?」
「──ぜひ!」
テバが答えると同時に、ぷしゅう、と鍋のフタの隙間から、白い湯気が吹いた。野菜と魚、米、それと卵の煮立つ良い匂いがする。焦げもミルクも夜の内にすっかり消えてしまったのだ。
代わりに、胸にぽつりと灯って記憶を引き留め続ける“それ”を、リーバルは言葉にする。
「テバ。昨晩の甘すぎるホットミルクの礼に一つ、君の知らないことを教えてあげる」
彼は言った。悲劇の悪夢は物語となって、身体から離れていくのだと。離れたそれは、ある人にとっては遠い星の輝きになったり、またある人にとっては夕闇茜に響く子守唄になったりするのだ。
夜は明けた。朝日は青空の先にある。
そしてここにはリトの戦士が二人いる。
「──星だって、いつかは青い空の下に太陽に会いたくて、夜を翔けるのさ」
了.